暴かれ出す面談
夏期講習の面談案内がやってきた。
「早いわねー、もう夏期講習の面談なのねえ」
面談の紙を父に渡すと、横で見ていた母が目を細めた。
「ね、早いよ」
塾から帰ってきたばかりだったので、魂が半分抜けた状態で返事を返した。
父はというと、中々険しそうな顔をして面談の案内を眺めていた。
まあ、こう見えて私に甘い父は意外と私の意見を尊重してくれるのである。
それがわかるのは少し後の話にはなるが。
「ねえ、夏期講習って大変なの?」
自分の姉を塾に行かせたことがあったので、母に尋ねてみる。
「もー、大変だよ。お姉ちゃんなんて毎日お弁当持って塾に行って、一日中授業があったからね」
「へえー」
空返事をする。
そっか、そんなに大変なのか。
逆にZ先生と一緒にいれる時間が増えるから私的にはかなり嬉しいけど。
でも、きっと他の生徒さんもいるのかあ。それは嫌だなあ。怖いなあ。
「まあとにかく、明日までにはその紙提出だから書いといて」
「え?明日塾ないでしょ?」
しばらく黙っていた父が口を開いた。
「うん。ないけど、自習しようかなって思って」
「自習!?」
わざとらしく、父が目を見開いた。だいたい私の父は大袈裟なリアクションをするのである。私もこれには、慣れた。
「うん。だって今年受験生じゃん。頑張って勉強しなきゃ」
「視力が心配だなあ」
「そっち!?」
父の心配している理由に、私は呆気に取られていた。
そして翌日。
学校が終わってから「自習をする」という理由と「面談の紙を提出する」という目的で塾に向かった。といっても、いつもの様に急ぐ訳でもない。友達とふざけあいながらゆっくりと帰路を歩んでいた。
駅について友達と別れた後に、ようやく今日は塾に行くという目的を思い出したほど、時間が経つことを忘れていた。
六月の暑さを感じながら、
もうこうやって慣れた道を友達と歩くことも、もう来年にはなくなってるんだな
と思って寂しくなった。
塾についた頃には、すでに授業が始まっていた。微かながら一生懸命講義をしている先生の声や質問する生徒の声が耳に入ってくる。
この日は授業がなかったので遅刻したわけではないが、なんだか悪いことをした気がしていた。
受付を見回してもZ先生の姿は見当たらなかった。きっと授業中だったのだろう。
私は自習室に自分の名前を記し、そのまま廊下に入っていこうとした。
「あれ?お姉さんが自習?」
聞き覚えのある声がした。自分の名前を書く手を止めて顔を上げてみると、にやついた顔をしたZ先生が受付の前に立っていた。
「びっくりしたあ!先生!」
「自習するの?」
「はい」
「へえー、お姉さんが自習室来るの珍しい〜」
Z先生の表情はちょっぴり嬉しそうに見えた。
「そうですか?」
「うん」
Z先生が忙しそうに見えたので私はそのまま自習室に向かう為にZ先生と別れた。
決められた自習室の席に荷物を置き、辺りを見回す。数人の生徒が自習をしているのが見えた。
私もリュックから数学の教材を取り出し、自習を始めた。
「面談の紙、持ってきた?」
振り返ってみるとZ先生が立っていた。彼は気配を消す天才だ。
不意を突かれた私。
「は、はい」
「出して」
「はい」
この時ばかりは純粋に従った。面談の紙をZ先生に手渡す。
「ありがとう」
とだけ言ってZ先生は自習室を去った。
私は呆然とZ先生の後ろ姿を見送ることしか出来なかった。
それ以外は特に何も起こらず、勉強したことに満足感を覚えて塾を後にした。
帰ってからすぐのことだった。母から明日、塾の面談があると聞かされたのは。
そのまた翌日。学校が終わり、一旦家に帰ってから両親と塾に行った。両親で塾に来る家庭なんてそうそうないだろう。母だけくればいいのに、と思っていた私はずっとそれが恥ずかしかった。過保護な娘だと思われたくなかったから。だからずっとふてくされていた。家を出てからも電車に乗ってからも終始無言を貫いていた。
塾の扉を開けて入った時、Z先生が待っていた。
「こんにちは。本日はよろしくお願い致します」と、Z先生が丁寧にあいさつをし、うやうやしくお辞儀をした。
つられて両親、そして私もえしゃくを返す。本当は恥ずかしくてしたくもなかったのだけれど、礼儀だと思って。
「塾長はただいま他の面談をしておりまして。どうぞ、こちらの席にお座り下さい」
そういってZ先生が椅子を持ってきた。
言葉に甘えて母が椅子にすわる。
でも元々座ることが嫌いな父と、そもそも気まずくなっていた私はZ先生の言葉に遠慮した。Z先生は満面の笑みだったが、いつもZ先生の自然な笑顔を見てきた私はそれが「作り笑い」というものだとすぐにわかった。
Z先生と私の目が合い、二人で苦笑いした。
しばらくして、ようやく前の面談を終わらせた塾長が姿を現した。Z先生と同じ様に塾長もうやうやしくお辞儀をし、私たち家族を面談室へ案内した。
私たち一家が座って待っているとすぐに塾長とZ先生が入ってきて、すぐに面談が始まった。なかなか気まずい状態だった。Z先生の緊張した面持ちがよく見えた。
いつもふざけているZ先生は面談の時になると一気に真面目にかつ礼儀正しくなる。前の面談の時もそうだった。
Z先生が夏期講習の授業数の提案を始めた。
実際に提案された授業の数は思っていた以上に少なく、毎日塾に通っていたという姉の時とは大違いだった。そして国語の授業についても「はなこさんに心配な教科はないのかと聞いた所、国語が心配だとおっしゃっていましたので」と新たに提案をしてきた。父は困った顔をしていたが「わかりました、家族で話し合ってみます」と言って、決して否定はしなかった。
そんな感じで、しばらく真面目な話し合いが続いた。
しかし、父の突拍子もない一言で状況は一変する。
「どうですか、娘の授業の様子は宿題はちゃんとやっていますでしょうか?」
私から血の気が引いていくのがわかった。
真面目腐ったZ先生の表情に冷ややかな笑みが浮かんだ。
待ってましたとばかりに口を開く。
「宿題に関しましては出すと反抗してくるのですが、なぜかちゃんとやってきます」
半分けなし、半分フォローした言い方だった。
どっちにしろ、両親に言いたくなかったことがばれてしまった。
恥ずかしくて、私の顔は一気に真っ赤になった。
私以外の、その場にいた全員が吹き出した。
Z先生が私のことを良い気味だとばかりに、いつもの様ににやついて見てくる。
私はただ何も言えず、口惜しげな表情でZ先生を見つめ返すことしか出来なかった。
でも、ある意味この事件のおかげで、堅苦しかった面談が一気に和やかになった。
「これからは、ちゃんと宿題を反抗せずに、やってきて下さい」
塾長も困り顔で言葉につまずきながら言った。
さて、この面談でもう一つ、塾長とZ先生が知らなかった事実が明らかになる。
私には、塾に入る前から密かに武器にしていたものがあった。
それは「英語」だ。唯一、私が続けられたもの。いや、正確に言えば唯一両親が私にさせたことで英語以外は絶対にさせなかった。私が他の習いごとをしたくても絶対にさせてくれなかった。逆に言えば、英語を泣くほどやめたいとわめいても絶対にやめさせてくれなかった。
今でこそ留学している身だが、今でも正直英語をやっていて良かったのかと疑問に思うことがある。
ただ、この頃は中学校で本格的に英語学習が始まり、私は英語検定を受ける楽しさに目覚めていた。実は合宿後に英検準一級を受けたのだが、もし落ちたとして、塾長やZ先生にそれを知らせるのが恥ずかしかったし、高慢な人間だとは思われたくなかった。それに英検準一級は確かに極めて難しかったが自分と同世代の人が何人も受けていたので、中学生で英検準一級は誰でもいると思っていた。
しかし、またもや父が地雷の一言を放つ。
「一応、先日に娘はE検を受けたのですが、受験には使えるのでしょうか?」
私から再び血の気が引いていくのがわかった。
「ほお、何級を受けたんですか?」
自分で言ったことなのに父親ときたら、私の顔を見て私に出番を投げつけようとする。母も同じだ。
「ほら、ちゃんと言いなさい。何級受けたの?」
Z先生も興味深そうな顔をして私が答えるのを待っていた。
一瞬、ためらう。
でもここで答えない訳にはいかない。
両親にせかされ、しぶしぶ私は打ち明けることにした。
「・・・準一級です」
さっきまで興味津々な顔をしていた塾長とZ先生の表情が、一気に驚きの表情に変わった。
二人そろって、
「おおーーーーーーーー」
と一言。
一瞬、また沈黙が訪れたが、塾長が口を開いた。
「ってことはなかなかですねえ。大学生のレベルです」
両親は誇らしげな顔をしていた。
私はというと、照れ臭くて顔を赤らめていた。
「・・・あ、ありがとうございます」
「なかなかいませんよ、中学生で準一級受ける生徒は」
塾長の言葉にZ先生もただうなずいていたが、顔にはまだ動揺している様子が残っていた。
「帰国子女なんですか?」
「いえ、純日本人です。」
「ああ、そうなんだあ。いやあ、受けるだけでもすごいですよ。かなり努力していらっしゃるんですねえ」
塾長が続けた。私は見る所を失って、両親の顔を交互に見ることしかできなかった。二人の顔は誇らしげで、父も母も嬉しそうにうなずいていた。私はただ何もすることができず、はにかんだ笑顔でその場をやり過ごすことしかできなかった。
面談が終わり、塾長とZ先生に見送られて帰路に辿り着いた。
この日も前回と同様、遅い時間だったので帰りに焼き鳥を買った。
父は「仕事が残っているので先に戻る」と言って家に帰ったので、私と母、二人だけだった。
家に帰ってから早速焼き鳥をほおばった。
「宿題を出すことに反抗している」ということがばれたので、そのことについて触れないか心配したが案外、その件について両親は触れてこなかった。
食卓には私の祖母もいて、彼女はその日あったことの愚痴をこぼして母に怒られていた。
でもこの日の面談について二人がどう思っていたのか気になったので、面談についての話題に触れることにした。
「ねえ。今日の面談どうだった?」
焼き鳥をほおばりながら父が答えた。
「うん、Z先生ってなかなか優しそうな先生だね」
「ほんと?いつもZ先生はああ見えて冷たいんだよ」
「さすがムーミンね」
母が笑いながら言う。
「そうかなあ?お父さんにはZ先生は礼儀正しくて真面目な人に思えたよ」
「そっかあ。それ聞いたらZ先生喜ぶだろうな」
父が言っていた印象をZ先生に話して、ちょっと照れるZ先生を想像した。
「英検のこと話したらやっぱりびっくりしてたじゃん」
「っていうかお父さん、なんでそのことについて言ったの?」
「え?だって知っといた方がいいじゃないですか」
父はたまに私に敬語を使う人だった。
「でも、それくらいはなこさんが頑張っていることってすごいってことですよ。自信を持って」
父に背中を押された気がした。
確かに、面談の時の塾長とZ先生の反応を見て嬉しくなっている自分がいた。
「だからはなこさんは自信を持った方がいいよ、自信を」
そう言って父はぽんぽんと私の頭を軽く叩く。そして食器を片付けに台所へ去った。
「そうよねえ、はなさん(母は私のことをそう呼ぶ)はもっと自信を持った方がいいわよ」
後を追う様に母も食器を持って食卓を抜けていった。
残された祖母と私。
「はなちゃんはすごいよねえ。一生懸命勉強頑張って」
祖母がにこにこしながら私に向かって話す。
「そうかなあ。別に大したことしてないけど」
そう言って私は最後のつくねを口に放り込んだ。
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