ちょっとした事件
この日もZ先生の授業があった。学校の教室の時計をずっと目で追い、学校が終わった瞬間に駅に向かってダッシュする。その間もZ先生のことを考えていた。そして出発寸前の電車に駆け込み乗車をし、なんとか電車内で立っていることができる場所を確保した。
今日もZ先生の授業か。Z先生に今日は何を話そうか。
そうぼんやりと考えながら電車の窓を眺めていた。少しだけ見慣れた塾のある街の風景。たくさんの住宅街が見えた。いつも見える梅の木からは梅の花が美しく咲き乱れているのが一瞬ではあったがわかった。
そして駅に着き、電車から下りて改札を出る。いつもの道のりを歩く。そして塾の扉の目の前までくる。ここまではいつも通りだった。まだ数回しか塾にはきていなかったが、すでに一週間に一度の塾ルーティーンへと化してした。
いつもの様に塾の扉を思いっきり引いた。そして受付をゆっくりと見回してみる。いつもならZ先生がそっけない顔をして挨拶をしてくれるがこの日はどういう訳か見当たらなかった。きっと事務室で授業の準備でもしているんだろう。そう思ってこの時は全く気にしていなかった。いつもの様に指定された教室に入る。やっぱり人が少なくて私一人で教室の席に座っていた。
授業開始まであと3分。遅くともZ先生はいつもこの時間帯あたりにはきていたはずだ。でもZ先生は来なかった。まあ、授業の準備で焦っているのだろう。まだ呑気に考えていた。
あと2分、1分、0分。時間になってもZ先生の姿は現れなかった。授業開始時間が過ぎても誰の気配も感じられなかった。
授業開始から5分が経つと、流石に私も不安になった。
もしかして私の授業は今日じゃない?手帳に書かれたスケジュールを確認してみる。間違いない。今日は授業の日だった。時間を確認してみてもとっくに授業時間を過ぎている時間だった。
では先生に何かあったのだろうか。事故か災難か。それとも前回の私の授業態度が酷過ぎて怒っているのだろうか。でも前回の私の行動を振り返ってもZ先生に対して何か悪いことをした覚えは全くない。では一体、なぜZ先生は時間を過ぎても教室に来ないのか。
授業が始まってから10分ほどが経過した。色々な考えが頭を支配して混乱していると自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ってみるとそこには塾長が立っていた。あまりに驚いて姿勢を正す。塾長が困った顔ををしながら口を開いた。
「ごめんね、Z先生は電車の遅延で今からこちらに向かうそうです。自習して待っててくれる?」
電車の遅延。どうやらZ先生は電車の遅延に巻き込まれてしまったらしい。理由を聞いて私は一気に安堵した。
「そうですか。もちろん、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。大丈夫?何か自習する教材ある?」
この時、自分の教材を持っていた覚えすらない。だがどういう訳か私は塾長の言葉に甘えて、彼に自習用のテキストを持ってきてもらった記憶がある。
塾長に自習範囲を指定してもらい、彼は教室を離れていった。私はペンケースからシャーペンを取り出し、塾長から指定された範囲を黙々と解き始めた。
あ〜あ、今日遅刻しとけばよかったなあ。
Z先生に会うために早くきたのにこれじゃ大損じゃん。
一人課題に取り組む中、私は心の中でそっと呟いた。Z先生が来るまでの時間がとても長く感じた。多かったはずの自習課題が意外とすぐに終わってしまい、暇をもてあそぶことになった。暇になったので指定された範囲以外のページをパラパラとめくり、解けそうなものだけを解いた。寂しさを感じたことを今でも覚えている。
あれから20分ほど経った頃だろうか。息を切らしたZ先生が慌てて教室に入ってきた。やっときた!と思いながらも、なんでもないふりをして問題を解き続けた。
疲れ切った顔をしたZ先生がヘナヘナと椅子に座り込む。
「まじでごめん。電車が遅れちゃって」
「あ、全然大丈夫ですよ」
私はそっけなく答えた。
「何その課題。自分でやってたの?」
「いや、塾長がきて課題を出してくれました」
「ああ、そうなんだ。よかった」
安堵の表情をするZ先生。
「とにかく先生に何事もなくて本当によかったです」
「うん、電車が遅れただけだからね。・・・で、どこやったの?確率?終わった?」
「はい、終わりました、先生来るのめっちゃ遅かったので」
「そうだよね、ごめんごめん。」
「いえ、全然。本当に気にしていないので謝らなくて大丈ですよ」
私はペコペコ謝るZ先生が可哀想だったので慌てて自分が怒っていないことを伝えた。
そこからいつもの様に授業が始まった。電車の遅延のせいでZ先生の顔はだいぶ疲れ切っていた。急がなくてもよかったのに。一生懸命解説をするZ先生の話を聴きながら心の中ではそう思っていた。
授業も終盤に差し掛かった時、Z先生が驚くことを口にした。
「今日俺のせいで授業ほとんど潰れちゃったから、代わりの授業いつにする?」
私は心底驚いた。なぜならたった50分くらい遅れただけ、しかも二時間の授業であと70分くらいあるのに今日の代わりの日をつくると言い出したからだ。
しかもこの日先生が遅れてまでしてくれた授業は先生の収入ではなくなる。
電車の遅延のせいなのにこれではZ先生に申し訳ない。私は慌てて断ろうと口を開いた。
「い、いいです!だって今日絶対時間なくて大変だったのに塾に来てくれて
70分も授業をしてくれたじゃないですか!だから、いいです!しないで下さい!」
「いや、そう言われてもこっちが申し訳ないから」
私はZ先生を説得するのに必死だった。
「でも先生のお金なくなっちゃうんですよ、時間ももったいないじゃないですか!今日授業を受けることができただけでも充分なんです、だから代わりの授業はなしで大丈夫です!」
「いやいやいやいや」
「いやいやいやいや」
「じゃあ、俺が勝手に授業の日決めるよ」
「やめて下さい、行きたくありません」
「それじゃ俺が困っちゃうよ。じゃあ、明日の5時とかどう?」
「その日は何もないですけど・・・」
「じゃあ明日の5時で」
「っっっっっっってちょっと先生!まじで言ってるんですか?」
「うん、俺はまじだよ」
先生はちょっといたずらっぽく笑いながら答える。
「でも絶対先生は代わりの授業いやじゃないですか、めんどくさいですし」
「いや、俺は授業をしたいです」
「嘘ですよね、わかってますよ」
「本当に授業をしたいです」
「じゃあ私は授業に来ませんよ、絶対に」
「それでもいいです。俺はずっとこの教室で待ってますから」
その言葉に少しどきっとしたが、やっぱりZ先生のためだ。簡単にわかりましたなんて言えるはずもない。
「本当に今日の授業に心から満足しています。だから本当に代わりの授業とかいらないですってば。」
「だから俺はこの授業に満足していません。やらせて下さい」
「いやです」
「この通りです、お願いします!」
そう言ってZ先生は椅子に座りながら自分の膝に額をすりつけた。
「無理です」
「お願いします!」
「いやですって!」
Z先生はなかなかめげなかった。私も引き下がらなかった。
授業が終わる時間になってもなかなか私を帰らせようとする素振りを見せなかった。
私があまりにも渋るので、Z先生は
「ほら、Say! Say!」
と英語で私のことを急かす様になった。
「No」
私まで英語で否定する様になった。
あれからどれだけの時間が経ったのだろうか。いや、私にとってはZ先生とコミュニケーションを取れるだけでも幸せだったので、あっという間だった気がする。
あまりのZ先生の根気強さに私は折れてしまった。
「・・・じゃあ本当に私明日塾に来ませんよ。来なくても知りませんからね」
「うん、それでもいいよ。まじでずっと待ってるから。・・・じゃ、明日の5時ね。絶対に来てよ。ずっと待ってるから」
さっきまで私が来なくてもいいと言ったはずなのにZ先生は私が明日塾に来るかどうかを気にし始めた。でももう言い返す気力など私にはなかった。塾の規則であったとはいえ、ここまでZ先生が辛抱強いことに心底驚いていた。きっと私が先生だったら生徒の言葉に甘えてしまうだろうに。
「はい、もうわかりましたよ。絶対来ませんからね」
「いや、来てよ!待ってるんだからさ!」
「嘘です。多分来ますよ、多分ですけどね」
「絶対来てよ。じゃないと許さないから」
教室を出て受付についた時もZ先生は私がちゃんと塾に来るのか心配して声をかけ続けた。そのやりとりがあまりにもおかしくて周りの先生たちもクスクス笑っていた。私は呆れた顔をしながらZ先生に笑った。
ムーミンみたいにほんわかしているのに意思だけは強いんだな、Z先生って。
そしてZ先生に塾の扉を開けてもらった。そして最後のとどめの言葉を刺された。
「じゃあ、明日の5時ね、絶対に来てよ。じゃないと困るから」
もうこれ以上、遅延でダッシュして塾に来たZ先生を困らせたくはなかった。
だからしかたなく、
「はい、わかりました。」
と返すことしかできなかった。
そして家に帰って母親にこの日あったことを報告をすると笑っていた。
「ムーミンって根気が強いんだね」
「だって電車が遅延したんだよ、先生のせいじゃないのにまた授業してくれるって、
先生に申し訳ないよ。明日塾行くのやめようかなあ」
「まあいいじゃない、せっかく先生が提案してくれたんだから行って来なさいよ。また先生に迷惑をかけるつもりなの?」
「いや、そういう訳ではないけどさ。なんだか申し訳ないよ、先生に」
「でも先生が提案してくれてるんだったらしかたがないわよね」
「・・・んー」
母にまで行ってきなさいよと言われた。しかたがない。明日はちゃんと塾に行こう。私はため息をついた。でもこの日のやりとりはなんだかとても面白かった。だから、言い合いにはなっちゃったけど今日塾に行った価値はあったかな。そう思った。
翌日の放課後、友達に一緒に学校に残って学校の課題をやることを提案されたが代わりの塾の授業が入ったのでいけないと断った。
「そっか、最近勉強頑張ってるよね。ファイト〜」
そう言われて友達に校門から見送られた。塾の時間が迫っていたので走って駅に向かう。走りながらZ先生はもしかして私が来るのか心配してくれているのかなとちょっぴり喜んでいた。
授業時間にはなんとか間に合った。いつもの道のりを経て塾の扉の前にたどり着いた。
思いっきり塾の扉を引くと待ってましたと言わんばかりにすでにZ先生が受付で待機していた。
「来てくれたんだね」
「当たり前ですよ。先生をずっと待たせる訳には行かないんで」
「あ、そ。」
またそっけなくなっているZ先生。ちょっとからかってみたくて
「でも本当は来ようかすっごく悩んでいたんですよね」
というと、Z先生は慌てて
「いや、うん、今日本当にきてくれてまじですごいよ。偉いよ」
と大袈裟に私のことを褒め始めた。
「本当はそう思っていないですよね。私、そういうのわかるんですよ」
「いや、本当に、心から俺今日授業がしたいって思っていました」
二人で笑った。Z先生のくしゃくしゃな笑顔。それが見れただけで今日一日幸せになっている自分がいた。
そして授業が始まった。この日は前の授業の時と比べて疲れた表情を見せず、終始テンションが高めだった。そんなZ先生の姿をみて今日代わりの授業を入れて本当によかったと思えた。
あの日以来、Z先生が遅刻をしたことはほぼないと思う。
抜けている所はあったけど、そういう所に関してはZ先生はかなり真面目は人だった。
私はZ先生の粘り強さと真面目さを尊敬する様になった。
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