第六節 さよなら先輩

清川先生が教員室から出てきた。


その右腕のない先生の挙動の一瞬が澪にはスローモーションに感じられた。

これが私のカメラ・アイ。

いつか清川先生を描くことがあるだろうか。


清川先生は、いつもより穏やかな顔をしていた。

その表情を見ていると澪もなんだか落ち着いてきた。


清川先生が壇上に立った。部内に緊張が走ったが澪は「なるようになれ」、と思った。

私はやるだけやったのだ、という気持ちだ。


ざわついた部室を清川先生は左手を挙げて静かにさせると、口を開いた。


「……芸術に関して、競い合うことは本来、無意味だ。

 だが、競うことで少なくともより心を打つ作品や表現が出来ている、とは言える。

 では、結果発表だ」


清川先生は黒板に向かうと、数字を書いた。


その数字は「30」と「31」。


僅差だが勝者は「31」だ。

清川先生は「31」に赤いチョークで丸を付けた。


「……戸川澪。君の勝利だ」


わぁっと部内全体がざわめく。非難の声かと澪は構えたが、「すっげぇ!」「やるな!」と賞賛の声が大きいのに澪は驚いた。


清川先生は周りの声が落ち着くのを待って、澪に壇上に来るように指示した。


「戸川。お前は勝手に勝負をしかけた責任がある。

 次期部長はお前が指名してくれ」


澪は全体を見回した。

「では、田代くんにお願いします」


やりたい人がなるべきだ。そう澪は考えた。いつも絵を描くとき以外はおちゃらけている田代だったが、澪がまっすぐ彼を見ると深く頷いてくれた。

この決定には誰も異論がないようだった。


勝つ気でいた澪は、自分の代わりに部長になってくれる人のことも考えていた。

有華を指名しようかと思ったが、有華は補佐的な役の方が良いだろうし、普通科だ。友達付き合いの延長で選んだと有華も思われたくないだろう。


「そうか、じゃあ田代。よろしく頼む」


清川先生はそう言って壇上から降りると澪が描いた草間部長の絵を振り返った。


「戸川、お前は発展途上だ」


そう言い残すと、草間部長の肩にポンポンと手を置いて教員室に戻っていった。

草間部長は、澪の方へ一歩進み出た。


「戸川さん、完敗だ。僕にはない熱量を君は持っている。

 ぜひ、また対決してくれ」

「草間部長……、私にはあなたの持つ想像力がまだ足りません。

 ぜひ、また」


澪は気後れせずそう言って草間部長と握手した。


草間部長。

いや、元・部長。草間先輩はこの高校を出て、美大に進学する。

そう思うと、澪の胸にまた哀しさが押し寄せてきた。


部員、皆から拍手が沸き起こる。

かつてない高揚感に部内が包まれているかのようだった。


草間先輩に勝った。その事実は臆病な澪の確かな自信になった。

もう、私は私を見失わない。


澪に新たな決意が宿った。

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