2ー7.穏夜

「リオン、”忌人いみびと”が大量発生しているそうね」


 夕食を済ませた二人が、サロンで過ごす穏やかな時間。

 グレイシアが留学・・していた時の二人の習慣は、結婚してからも変わらなかった。ソファーに二人並んで座り、今日の出来事を話したり、思い出話に花を咲かせる時間。

 

 今日も用意された紅茶を前に、そんな穏やかな雰囲気が広がっていた。それを壊したのは、グレイシアの一言だった。ティーカップを口元に寄せたリオレイルは、予想外の言葉にその動きをぴたりと止めた。アメルハウザー領特産の紅茶が品良い香りを漂わせている。


「……どうしてそれを?」

「神聖女様からお手紙を頂いたの」


 グレイシアには知らせないでいようと思ったリオレイルは、内心で神聖女に悪態をついた。急降下した機嫌の悪さが顔に出ていたのか、グレイシアが困ったように眉を下げた。


「怖い顔をしないで。心配して下さっているだけよ」

「神聖女はなんと?」

「イルミナージュで“忌人”が発生していると聞いているって。あなたの事だからその場に行って”穢れ”を浄化しようとするかもしれないけれど、それは聖女の仕事。あなたはあなたの手の届く場所だけで、その力を使うようにと」


 グレイシアの性格を把握しているような手紙の内容に、リオレイルは先程の悪態をまた内心で撤回した。


「あなたもわたしが飛び出していくと思っていたのね」

「それは否定しない」

「もう!」


 拗ねたような可愛らしい表情にリオレイルは顔を綻ばせた。口元で静止していたままのカップを唇に寄せ、ゆっくりと紅茶を嚥下してから音もなくソーサーにカップを戻す。


「わたしだってちゃんと分かっているわ。聖女の力を持ちながら、神殿には入らずに他国に嫁ぐのが異例なんだって。特例を認めてくださった神聖女様の為にも、この力を公にするつもりはないのよ」

「分かってくれているならいいんだ。もし浄化が必要な程なら、バイエベレンゼに依頼して聖女を派遣してもらう事になるだろう。それまでは水晶で抑えるようだが」

「大量発生している理由は、まだ分かっていないのね?」

「ああ、近々また調査団が向かう。俺もその護衛と、魔獣達の討伐の為に同行する事になっている」

「そう……気を付けてね」

「俺が負けるとでも?」

「それは思っていないけれど、心配してしまうのも当然でしょう」


グレイシアは小さな声で言葉を紡ぐと、傍らのリオレイルにそっと体を預けた。リオレイルはその細い肩に手を回し、隙間さえなく密着させる。

 温もりだけでなく鼓動さえも重なってしまいそうな距離に、グレイシアの頬に朱が差した。


「君が居てくれるからな、無茶な事はしない」

「約束よ」

「ああ。無茶をして大事になったら、きっと君は泣くだろう?」

「どうかしら。怒って、手がつけられない程に暴れて……やっぱり泣くかもしれない」

「そうなった時に宥められるのは俺だけだからな」

「悔しいけどそうよ。だから、気を付けてね」

「ああ」


 ”忌人”の大量発生と聞いて、グレイシアが一番に思ったのは半年ほど前に母国で起きた事件だった。一度起きてしまった事件が模倣されないとも限らない。

 グレイシアは神殿に認められた聖女ではない。大々的に力を奮う事は出来ないし、そのつもりもない。だから今回の件を耳にしても、心配以外に出来る事がないのは分かっていた。


「わたしだけじゃないわ。あなたに何かあったら、みんな泣くわよ。そうよね?」


 敢えて軽い調子で言葉を紡いだグレイシアが、壁際に控えるリヒトとメイサに顔を向ける。急に話を振られても、二人は狼狽える事なく大きく頷いた。


「もちろんでございます」

「ほら、ね」

「分かっているよ」


 苦笑いで答えたリオレイルはゆっくりとグレイシアの肩を離した。離れても未だにグレイシアの肩には温もりが残っていて、それをグレイシアは強く感じていた。


「それで、どこまで行かれるの?」

「王都からはだいぶ離れる。北にあるクラッセン子爵領の森で大量に目撃されているらしい。近くの町が被害に遭って、町民の大半は避難をしている。調査もあるから数日は町に陣を張ることになりそうだ」

「そう……」


 それは数日は会えないという事。

 仕事だと理解はしていても、グレイシアの胸に渦巻く寂しさは消えてはくれないようだった。


「転移で行き来してもいいんだが」

「だめよ、他の方に申し訳ないもの。士気にも関わるかもしれないし」


 言葉とは裏腹に、夕闇のような紫紺の瞳が寂しさに翳るのをリオレイルは見逃さなかった。それを追及する事はせず、ただ両腕にグレイシアを抱き締めた。


「君に触れられないと、やる気が出ないかもしれない」

「やる気を出して、早く帰ってきてくれたらいいのよ」

「それもそうだな。早く調査が終わるよう、学者の後ろに立っていようか」

「それは学者の先生方に迷惑だわ」


 氷の騎士団長が調査中に後ろに立っている。その重圧を思い浮かべて、可笑しそうにグレイシアは笑った。その瞳に翳りはもう無かった。

 応えるようにグレイシアがリオレイルの背に両手を回す。触れる温もりが同化していく感覚に、リオレイルは背中の痛みが引いていくのを感じていた。

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