2ー5.両想
森の木々が日除けとなっているおかげで、差し込む陽光は柔らかい。風に揺れる水面の美しさにグレイシアは目を細めた。
リオレイルの肩に頭を預けると、力強い腕がグレイシアの腰に回る。
「本当に静かな場所ね。風で葉っぱが揺れる音って、こんなにも気持ちのいいものだったなんて」
「気に入って貰えたならよかった」
「気に入ったわ。また連れてきてくれる?」
「もちろん、君が望むならいつだって」
彼が約束を違えない事を、グレイシアは知っている。
蜜を求めて、白い蝶が花を巡っている。それを目で追いかけていたグレイシアは、ふとリオレイルへ顔を向けた。
「ねぇ、おかしな事を聞くかもしれないけれど……。わたしがあなたとの事を忘れていて、それでもあなたはわたしを好きでいてくれたでしょう? ……辛くはなかった?」
「辛い? そんな事はなかったさ。六歳の君が俺を好きでいてくれて、俺を肯定してくれて、側にいてくれた。その事に俺は支えられていたんだ」
一度言葉を切ったリオレイルは、口端に薄く笑みを乗せた。
「俺を忘れているなら、初めからやり直せばいいだけだからな。君に好きになって貰う為に何でもするつもりでいた。君が十八になってやっと正面から会えると思った矢先にあの事件だ。腹立たしかったが、この際だから君を連れ去ってしまおうと思った」
紡ぐ声は優しいのに、ちらちらと熱を孕んでいるようでグレイシアは胸の奥が苦しくなるのを自覚した。恋に堕ちない訳がないのだ。記憶を封じられたって、心が彼を求めている。そんな事を感じながら、グレイシアは目を細めた。
「わたしが他の人に惹かれなかった理由がわかったわ。六歳の時からずっとあなたを好きだったんだもの。あなたを忘れても、その気持ちは残っていたのね」
「そうなら俺は幸せ者だな。俺が想っているだけで良かったのに、君も想っていてくれたなら、そんな幸せな事は他にないだろう」
視線が重なって、二人で笑う。
そんな何気ないやりとりが、二人にはとても愛おしかった。
「これからもよろしくね、リオン」
「ああ、やっと一緒になれたんだ。俺はこの手を離さない」
そう言うとリオレイルは、腰に回していた手でグレイシアの華奢な手を握った。指先を絡めるようにして手を繋ぐと、軽く揺らした。わたしも、とグレイシアが囁く。嬉しそうに笑ったリオレイルは、グレイシアの額に唇を寄せた。
「そういえばいつかは領地に戻るのよね?」
「ああ、騎士団長の職を返上したら領地に戻ろうと思っている。着いてきてくれるな?」
「当たり前でしょ。置いていっても、馬を走らせて追いかけるわ」
「君が先に領地に戻って、俺が置いていかれる事のないように願うよ。だが義父上がまだまだ健在だからな、もう少し甘えさせて貰うさ」
いまだ若々しい、義父であるテオバルト・アメルハウザーを思ってグレイシアは笑みを深めた。穏和な琥珀の瞳はいつだって領民に向けられている。領民の暮らしを良くしようと、領地を更に豊かにしようとし、領民もそんなテオバルトを慕っている。
義父のような領主に、リオレイルもいつかはなるのだろうとグレイシアは思う。その時には隣で彼を支えられるよう、グレイシアも学ばなければならない事が山程ある。
内心の決意を読んだのか、リオレイルがグレイシアの顔を覗き込んで低く笑った。
「君はそのままでいい」
「心を読むのはやめて頂戴。恥ずかしいわ」
「分かりやすいんだから仕方がないな」
「そんなに顔に出ている? 鉄仮面でもかぶろうかしら」
「やめてくれ。口付ける時に邪魔で仕方ない」
「口付ける前に笑ってしまいそうよね」
軽口を叩いて、二人で笑う。穏やかな笑い声が森に響く。
遠くでそれを聞いていた青毛の馬が、一度顔を上げ、深く息を吐いてからまた草を食み始めた。
穏やかで優しい夏の午後。
清涼な風が水面を揺らして、また煌めいた。
夜。
グレイシアとリオレイルは、テオバルトに呼ばれてサロンに居た。
開け放った窓からは涼やかな風が入り込んでいる。夏の匂いや虫の声を届ける風だった。
「グレイシアちゃん、アメルハウザーの土地はどうだった?」
「とても豊かで素敵な場所でした。お義父様の手腕ですね」
「嬉しい事を言ってくれるんだから。可愛い娘が出来て僕は嬉しいよ」
「息子は可愛くないですか、義父上」
「可愛くお義父様って言ってくれる?」
「無理です」
相変わらずのやり取りに、グレイシアはくすくすと肩を揺らした。朝晩と繰り広げられる軽快なやり取りに、すっかりと慣れてしまっている。
グレイシアは少しだけブランデーを垂らした温かな紅茶を頂いている。リオレイルとテオバルトの手には大きな氷の入ったグラスが握られていて、グラスを満たしているのはウイスキーだ。二人の瞳のような琥珀色が、ランプの灯りに色濃く揺れる。
「二人へのお祝いの品が、色んなところから届いているんだ。帰る時に持っていってね」
「ありがとうございます。このウイスキーもそうですよね?」
「うん、最近になって蒸留所を新しくしたんだ。中々評判も良くてね、原料のために開墾して新しく村が出来た程だよ」
「お部屋にはお花が飾ってありました。メイサに聞いたら、町の子ども達が摘んでくれた花だって」
「そうそう。みんな君達の事をお祝いしているんだよ。二人が町を散策した時も、歓声が凄かったでしょ。町の女の子達はグレイシアちゃんがお姫様みたいに綺麗だって言ってるし。君の着ていたドレスをワンピース風に仕立て直して売られているってさ」
予想外の言葉にグレイシアが目を丸くしていると、リオレイルとテオバルトは可笑しそうに肩を揺らした。義理とはいえさすが親子と言いたいくらいに、そっくりな様子で。
「グレイス、暫くは君の身に付けていた物が流行るだろうな」
「そうかしら……」
「今日、花を摘んできた女の子達は、みんなグレイシアちゃんみたいな髪型をしていたよ」
テオバルトの言葉に、グレイシアは自分の銀髪に触れた。リオレイルが触りたがるものだから、グレイシアの髪型はもうハーフアップでほぼ固定となっている。ねじりが加えられたり編み込まれたり、メイサはそれでも色々と細工をしてくれている。
「恥ずかしいけれど、嬉しいものですね。受け入れてくれているなら、嬉しいです」
「君達なら大丈夫だよ。いつだって領地経営を任せられる」
「引退してゆっくりしようと思っているかもしれませんが、義父上には難しいですよ。のんびりする事が出来ないくらい、忙しくしているのが好きなんですから」
「違いない」
盛大に溜息をついて見せるテオバルトの様子に、グレイシアも笑ってしまった。カップを持って口元に寄せると、ふわりと紅茶が香る。その奥にブランデーの芳醇な香りが広がっているようだった。
リオレイルのグラスで氷が鳴いた。澄んだ高い音は余韻も残さずに、夜の中に消えていった。
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