37.抱擁

 屋敷に戻ったのは、もう日付も変わってからだった。


 待ってくれていたリヒトを始めとした使用人達に出迎えられ、グレイシアはメイサに手伝って貰って盛装を解いた。

 湯浴みをして、用意された軽食を平らげて、就寝の準備をしてもらう。

 下がる前に淹れて貰ったお茶を楽しんでいる時に、扉をノックする音が響いた。


「はい」

「いま、少しいいだろうか」


 遠慮がちな声はリオレイルのもの。

 こんな時間に尋ねて来るのは彼くらいしかいない。グレイシアはそれに応えると、近付いて自ら扉を開けた。


「疲れている時にすまないな」

「大丈夫よ。どうぞ入って」


 二人は並んでソファに座った。

 リオレイルはグレイシアの腰を抱くと自分へと引き寄せる。それはここ最近ずっと、彼女が側にいる時にリオレイルがする仕草だった。離れることを厭うような、優しい執着。そんな時の彼は、いつもよりもとびきり甘い雰囲気を纏っていて、グレイシアの胸奥がきゅっと苦しくなる。


「急な話だが、明日バイエベレンゼに行く」

「ええ。……屋敷の皆にはお世話になったわ。寂しいけれど、仕方がないのね」

「今生の別れではないんだ、そんな顔をするな」


 溜息交じりのグレイシアの声に、リオレイルは目を瞬く。すぐに表情を和らげると、肩を抱くのとは逆の手で、銀髪を一房掬い取った。


「君は俺の婚約者だろう? 婚姻が済めばまたこの屋敷に暮らす事になる。君の為にも結婚式は早いほうがよさそうだな」

「……そうだった。あなたともお別れなのだと、勝手に……」


 言い切るよりも早く、鼻を摘まれていた。加減されていて痛みはないが、困ったように眉を下げる。


「馬鹿な事を言わないように。君は、俺の、婚約者だ」


 言い聞かせるように、短く切って言葉を紡がれる。解放された鼻を指先で摩ると、宥めるように額に唇を押し当てられた。


「明日、ボーンチェをバイエベレンゼ王の前に引き出す。そこで王都での事件の解明がされる」

「……聖女が見つかったということ?」


 王都に魔石を置いた聖女。

 神聖女に一任されているといった問題が解決したのだろうか。


「ああ、見つかった。彼女は全ての罪を認めている。それから虚偽の証言をした騎士だが、彼らの呷った毒からある公爵家が浮上した。聖女もその公爵家との繋がりを認めているようだ」

「では事件は無事に解決するのね」

「エーヴァントもあの様子だと大人しく真実を述べるだろう。だが、その解明される場で何か起きるだろうな。出来れば君にはアーベラインの屋敷に居て貰いたいんだが……」

「わたしは当事者よ。それにいくら危険だろうとも、あなたの隣に居させて欲しいわ」


 きっぱり言い切るグレイシアに、リオレイルは瞠目する。すぐに破顔するとグレイシアの頭に頬を擦り寄せた。


「君を危険な目に遭わせない事を誓う」

「あなたの事はわたしが守るわ、リオン」


 グレイシアが口にした呼び名にリオレイルは、幼い頃よく見ていたような柔らかな表情で頷いた。おずおずと傍らの肩に頭を寄せてみると、彼も髪に頬を寄せてくれた。リオレイルが『口説く』宣言をしてから、触れ合う温もりにすっかり慣れてしまったようだ。


「いいな、そう呼ばれるのは。覚えているか? 君は最初、リオルと呼ぼうとしていたのに口が回らなくてリオンになったんだよな」

「仕方ないでしょう、まだ六歳の子どもだったんだもの」

「それさえ可愛らしかった」

「物好きっていうのよ、それ。ねぇ、リオン……その眼帯は、赤い瞳を隠すため?」


 グレイシアの髪に一度唇を寄せてから、ゆっくりとリオレイルが離れる。腰に回った手はそのままだけれども、お互いの間に身動き出来るだけの隙間が開いた。

 リオレイルは空いた片手を己の耳元に寄せると、眼帯の革紐を外す。

 そこに現れたのは、グレイシアの記憶のままの、紅玉色と琥珀色のオッドアイだった。


「……気持ち悪くはないか?」


 躊躇いがちな声が珍しい、とグレイシアは思った。彼はいつだって真直ぐで、躊躇うような素振りはしないからだ。


「気持ち悪い? わたしは昔からあなたの赤い瞳が大好きだし、王都で助けられてからずっと、その琥珀の瞳に夢中なのに」


 不思議そうに瞬きを繰り返す仕草が常よりも幼い。くすりとグレイシアは笑うと、琥珀の目尻を指先でそっと撫でた。

 心地よさそうにリオレイルが目を細める。


「とても綺麗」


 囁きを紡ぐと同時、リオレイルの両腕に抱き締められていた。些か乱暴で力強い。抱き潰されるくらいの腕の強ささえ、自分を求めている事を示しているようで、グレイシアはくらりと眩暈を起こしそうだった。


「……ありがとう、グレイス」


 抱き締める腕の強さと真逆に、その声色がどこまでも優しいものだから、グレイシアは両手をそっと彼の手に回した。離れていた時間の分も埋めるよう、リオレイルの背を優しく撫でる。


「君はいつだって、俺のことを救ってくれる。あの幼い時だってそうだ」


 紡がれる声は憧憬を映しているようで、柔らかい。

 あの花畑が一瞬、脳裏によぎる。鮮やかな色彩。美しい記憶。


 自分はずっとこうして触れたかったのだと、グレイシアは思い知るようだった。彼の全てが自分の体に馴染むのだから。

 離れていた時間も、封じられていた記憶さえも飛び越えて、グレイシアは目の前のこの男に惹かれてしまったのだ。

 誰よりも優しい、このひとに。

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