追憶の果て、約束を繋いで

花散ここ

1.魔獣出現

 王都は社交シーズンを迎え、華やいでいた。


 領地で過ごす貴族達もこの時期は王都に赴き、それも仕事のひとつだと、常よりも増えるお茶会や夜会の誘いに身を躍らせる。結婚相手を探す令息令嬢は華やかな衣装に身を包み、仕立て屋や宝飾品店も大忙しの季節だ。

 街もいつも以上に賑やかで、数多の商品を扱う商人の数も増え、庶民向けの店もどこか浮かれているようだった。


 そう、いつもよりも人が多かった。華やかに浮かれる街の雰囲気。

 だからこそ起きた出来事だったのかもしれない。



 ここはバイエベレンゼ王国。

 神聖女を頂点に、聖女や神官が集う神殿がこの国を護っている。


 この世界に生きる全てのものに対する脅威、“穢れ”を浄化出来るのはバイエベレンゼに生まれる聖女達以外にはおらず、その存在はあらゆる意味でバイエベレンゼを護る盾となっていた。

 その聖女達を束ねるのが神聖女。聖女達とは一線を画す力を持つ存在であり、この王都を囲むように“穢れ”が侵入しないよう結界を張っている。

 その結界が破られる事など、誰も予想していなかった。



 始まりは王都の端にある森林公園だった。


 その公園は緑深い木々に溢れ、中央には大きな噴水が誂えられている。石畳の散歩道をのんびりと歩く人達は、高く水が噴き上がる度に楽しげに表情を綻ばせる。子ども達は飛沫を浴びて楽しそうにはしゃいでいた。


 その公園の奥にある森から、音もなく立ち上ったのは”穢れ”。段々と色を濃くした“穢れ”はゆらりゆらりと緩慢に揺れ、それを見た森の住人であるリスはおぞましさに身を竦ませてしまう。”穢れ”はそのリスに意識を向けると、捕食者のように素早い動きでその身に取り込んでしまった。


 取り込まれたリスは“穢れ”の中で苦悶の呻きを上げ、その身をいびつに変質させる。体は大きく割れ、濁った目は爛々と光り、牙は鋭く伸びて糸引く唾液に塗れている。


 ”穢れ”に堕ちて魔獣になったのは、このリス一匹だけではない。至るところで飲み込まれた動物達がその姿を歪ませている。

 そして、人を襲った。




 グレイシア・アーべラインはバイエベレンゼ王国の侯爵令嬢である。


 辺境の領地から社交の為に王都に来たのだが、いま彼女は護衛を一人だけ連れて街を散策していた。

 令嬢にしては軽率かもしれないが、王都は神聖女の加護に包まれた安全な場所。“穢れ”に襲われることは心配していないし、自分で剣を扱うことも出来る。余程の事がなければ遅れを取ることもないし、その余程の事は滅多に起こらないだろうとの思いもあった。


 

 すれ違う人々がグレイシアを見ては顔を赤らめる。それは男女も老若も問わずで、羨望の視線がグレイシアに注がれる。

 それだけグレイシアは人目を惹く美しさを持っていた。

 癖のない艶やかな銀色の髪は高い位置で一つに纏められ、陽光を浴びて煌めいている。長い睫毛に縁取られた瞳は夕闇を映したような紫紺色で楽しげに輝き、長い手足と女性的な柔らかな体つきは町娘のようなワンピースに包まれている。



「お嬢様、そろそろお戻りになりませんと……」


 周囲を警戒しながら溜息交じりに声をかけてくる護衛騎士の様子に、グレイシアはくすくすと笑いながら指先で目的地を示す。中央広場はもう目前に迫っていた。


「もうちょっと。あの広場を見たら帰るわ。明日は市場が見たいわね」

「明日もですか……」


 がっくりと項垂れる姿にグレイシアは可笑しそうに肩を揺らした。

 本当ならばもっと隅々まで散策したい。領地の街も大好きだけれど、滅多に来ない王都はやはり面白い。

 だが侯爵令嬢が供を一人しか連れずに街歩きをする事は、やはり宜しくはない。護衛騎士にいらぬ心労をかける前には帰ろうとグレイシアは思っていた。



『グルァァァァァ!!』


 中央広場に着くと同時に響いたのは、ここでは聞こえる筈のない魔獣の咆哮。

 それを合図としたように、人々の悲鳴や怒声が広場を混乱の中に落としていった。様々な方向へ逃げ惑う人々を魔獣が捕まえて爪をふるう。飛び散る鮮血に、更に恐怖は広がっていく。


「お嬢様、走れますか」

「ええ、でも……倒さなくてはならない」


 剣を抜いた騎士がグレイシアの前に立つ。

 街の自警団や王宮騎士がやってくるまでには、まだ時間がかかるだろう。それまでにあの魔獣達をどうにかしなければ、大変な被害になってしまう。救える命は救わなければならない。

 グレイシアがこちらに向かう魔獣から目を逸らさずに言葉を口にすると、騎士は盛大に肩を竦めて見せた。


「そうおっしゃると思いました。私の側を離れないでくださいね」


 護衛騎士は持っていた細身の剣をグレイシアに渡す。それは彼女がいつも使っているもので、受け取ると手に馴染みその重みに安心感さえ生まれるほどだ。


『グルゥ……』


 警戒した魔獣の声が増える。ひたりとその距離を詰めてくる魔獣は、その数を増やしていた。濁った目に浮かぶのは明確な殺意。


「数が多いわ。どうして王都でこんな事が……」


 小さく落とした呟きは、瘴気の風に溶けて消えていった。

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