バナナフィッシュの棲む島
夜永リサ
第1話 島へ
琴吹洋平というらしい。
今回、わたしの保護者になる物好きの名前だ。家族が新しくなるのはいったい何回目だろうと思い返してみたが、小学校を卒業したあたりでよく分からなくなって、結局数えるのをやめた。
憎らしいほど澄んだ瀬戸内の海をかき分けて、フェリーは進む。空はまだ青く晴れ上がっていたが、観光シーズンではないせいかデッキはがらんとしていた。
ほんものの両親はわたしが8歳のとき死んだ。交通事故だった。
すごく悲劇的、だけど退屈なほどありふれた死に方。
今思うとわたしもそこで死んでいたほうが、物語的にもうつくしかったかもしれない。命からがら助かってしまった結果、誰かに貰われては捨てられてを、もう10年近く繰り返している。知っている限りの親戚をたらい回しにされた結果、最近ではもう、もはやなんの繋がりがあるのかさえ分からないような家庭の娘になることがほとんどだった。
今回の転出理由は、里親が死んだから。
家が燃えたのだ。出火原因は養父の寝煙草らしい。おおかた酔ってもいたのだろう、よく定年まで仕事をクビにならなかったものだと不思議なくらい、他人には厳しいくせ、だらしない男だった。同じ部屋で寝ていた養母と飼い猫も同じように焼け死に、別の部屋で寝ていたわたしと義兄だけが逃げおおせた。
葬式では一滴の涙も出なかった。他の参列者はわたしを見てひそひそと、冷たいだの恩知らずだの、わざと聞こえるようにささやいていた。挙げ句の果てにはわたしが火をつけたんじゃないかとまで噂されていた。
たしかに、端から見ればわたしは恩知らずに違いない。ほとんど縁もゆかりもない子供を貰い受けた上、有名私立女子校に入れて大切に育てていた。世間の評価としてはそんなところだろう。
外面と金払いだけはいい里親だった。
だがその実、ご主人様一家とメイドの関係がいいとこだった。わたしを貰い受けた日から養母はそれまで雇っていたお手伝いさんに暇を出し、一切の家事をわたしに押し付けた。しかしこれまでの経験から言えば、学校に通わせてもらえるだけずいぶんとマシだった。
いずれにせよ、彼らはわたしを愛してはいなかったし、わたしも彼らを愛してはいなかった。長い木箱を乗せた二台の霊柩車が渋滞に飲まれていく。隣では大学生の義兄が、喜劇のように号泣していた。
陸の影が見えてきた。フェリーは汽笛を上げ、悠然と進む。
海風が舞い上がらせた制服のスカートを慌てて押さえた。他に着てくるものもなかったのだ。
高校卒業まで、あと10ヶ月とすこし。
それまでは遺産とバイト代でやりくりしようと考えていたのだが、遺産の取り分が減ることを渋った義兄はわたしをさっさと養子に出した。両親に似て守銭奴だった。義兄がさっさと追い出されたことよりも、まだわたしを引き取ろうという気のある人間がいることにわたしは驚いた。
琴吹洋平が何者か、わたしは知らない。
仕事も年齢も、家族構成もわたしを引き取った目的も知らない。
知っているのは、誰かが紙切れに走り書きした彼の名前と住所だけだ。わたしはその一枚の紙切れを頼りに、東京からはるばる瀬戸内海までやってきた。
島の輪郭ははっきりとして、山の木々の一本一本まで見えていた。波止場に隙間なく並んだ漁船の群れが、波を受けてゆらゆら揺れている。
ぱらぱらと船室に戻る人々に従ってデッキを後にする。荷物は小さなスーツケースひとつ分の荷物と制服だけ。
アナウンスが下船を促す。私はスーツケースを掴んで、まばらな人の波に加わった。階段を降りるときに持ち上げたそれは、思っていたよりもずっと軽かった。
でも、どう転んだって、あと一年だ。
あと一年あれば、私は高校を卒業して独り立ちできる。誰も私を知らない街で、誰にも迷惑をかけず、誰にも文句を言われずに生きていける。
だから、それまでの我慢だ。
波の動きが静かになって、船が港に到着する。
琴吹洋平。
この島に、わたしの新しい保護者が住んでいる。
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