優しいペンパル

あざらし

婆さんの話


 婆さんが死んだ。


 うちの婆さんは歴史から取り残されたような価値観の持ち主で、平成が終わったこのご時世にもHBの三菱鉛筆で文字を書き、米粒をねり潰して切手を貼り付けていた。当然機械モノにはとんと疎くて、インターネットを家電屋で買えると思っていたし、ゲーム機を見ればファミコンと言った。

 日だまりで寝ている柴犬みたいにのんきな性格をしていたが、一方でよく気の付く人でもあり、家のことにはてきぱきと動いた。料理が得意で、といっても洋モノは作ってくれなかったが、和食に関してなら婆さんよりうまく作る人を俺は知らない。俺が昆布の煮しめをうまいと言うと以降三日ほど続けて昆布の煮しめを出す、そういう人だった。

 両親が共働きだったこともあり、俺は婆さんの世話になることが多かった。婆さんは俺がガキの頃から老婆をしていたから遊び相手にはなっちゃくれなかったが、よく面倒を見てくれていたと思う。俺がいいことをしたら褒めてくれたし、悪いことをしでかしたらちゃんと叱った。俺が喉仏を出っ張らせ、眉を整え、身長をこれでもかと伸ばしても、婆さんの方はとんと変わらず、俺の保護者であり続けた。俺が大学に進学して下宿を始めても、ずっと。俺はそんな婆さんが結構好きだった。

 婆さんは晩年、文通に熱を上げていた。おおかたテレビで見た美談か何かに影響されたのだろう。親父が念のために携帯端末を持たせていたので、楽だからメールにすればとは何度か言ったが、婆さんは手紙のほうが温かみがあるでしょうと言って聞かなかった。実際はメールの仕方がわからなかっただけに違いない。婆さんにできる操作は電話に出るくらいでたぶん精一杯だったから。

 文通の相手は手紙に自分の名前すら書いちゃいなかったし、字はへたくそで、便箋と封筒の柄だっていつもちぐはぐだった。どこの馬の骨か知れんぜと俺が言うと、婆さんはそういうものなのよと笑っていた。何がおかしいのか、婆さんはいつでも笑っていたように思う。

 身の回りで起こったちっぽけな事件や、今日の晩ごはんの献立や、孫の俺が大学でどういう勉強をしているのかなど、とりとめのないことを書き綴っては、米粒で大切に封をして近所のポストまで出かけていく。いよいよ歩けなくなるまで自分の手足でそうしていたというのだから大したものだろう。

 婆さんは大腸がんだった。気づいたときにはもう遅くて、婆さんは入院すらしなかった。報せを受け、取るものもとりあえずすっ飛んで帰った俺に、もう八十だもの、天命だわと婆さんはニコニコしながら言った。実際そのとき婆さんはもう九十近かった。言うとおりなのかもしれないが、悟ったことを言う割に文通相手には弱音を吐いていたのだから腹が立つ。

 診断を受けたあと、几帳面な婆さんは告げられた余命のとおりにその生涯を閉じた。バカみたいに暑くて長い夏の、いちばん暑かった頃だ。長期休暇で帰省していた俺が見つけた。肩まできっちり布団を掛け、昼寝をしているのと同じ顔つきでいたのに、妙に寒そうに見えた。俺はそれだけで全部わかってしまった。

 婆さんの式は身内だけでひっそりと行われた。俺は葬式というものに初めて出たのだが、覚えていることが不思議なくらいない。ただ強く印象に残っているのは、棺桶にすがりついてべそべそになっている親父とおふくろの姿があったことだ。思うに、ふたりとも婆さんのことが好きだったのだろう。少なくとも俺と同じくらいには。

 誰がどれだけ泣きわめいても、坊主は読経をやめやしないし、焼香の順番は回っていく。

 式は滞り無く進み、婆さんは煙と灰になって空と土へ還っていった。


 *


「四十九日だけど帰ってこられるの」

 おふくろから夜過ぎに電話があって、俺はもうそんなにも経つのかと少しばかり驚いた。

 つい先日まで雨あられと列島を襲った台風が太陽のぎらつきをぶっ飛ばしたかと思うと、途端に冷たい風が我が物顔で市井を行くようになった。忙しさにかまけて意識していなかったが、ちゃんと季節が秋になっていることに今さら気づく。

「無理にとは言わないけど」とおふくろは繋げた。

「いや、帰るよ。当たり前だろ」

 婆さんを見送ったあとまもなく、俺はまた下宿先に居を戻した。実家までは散歩のついでに帰れるような距離感ではないとはいえ、ないがしろにしていいとは思えない。

 日付と時間を聞き出し、電話を切る。そのまま携帯端末で新幹線のチケットを取った。

 卒業のためのレポートを書いていたのだが、すっかりそういう気分ではなくなってしまった。ノートパソコンを畳んで机の脇にやり、空いたスペースに冷蔵庫から持ってきた果実酒とグラスを並べた。

 酒をおいしいと思ったことなんてない。カルピスのほうがよっぽどうまいが、たまに酔いたくなるときだってある。たっぷりの氷を浮かべて、のろのろと二杯ほど飲んだ。少しずつ、頭の中身が薄い布でくるまれたようにぼんやりとして、目を閉じると気だるい心地よさに意識が沈んでいく。

 机の抽斗を開けようとして手をかけたが、やっぱりやめた。そこへしまい込んだ秘密を婆さんに打ち明けずじまいだったことを、俺はいまだに悔やみ続けている。


 四十九日の前日に下宿先を出た。朝いちばんで乗った新幹線から乗り継ぎを繰り返し、地元近くのローカル線まで来ると、俺はいつも電車の短さにしみじみと懐かしみを感じる。四両編成で運行するなんて向こうじゃ正気の沙汰じゃないが、こっちだとそれでもガラガラだった。のんきな各駅停車に揺られ揺られ、実家に帰り着いたのは昼を過ぎた。

 下宿を始めてからもう随分経ったが、今でも俺の家といえば実家だ。俺は「ただいま」と言った。ぱたぱたとスリッパを鳴らしておふくろが出迎えてくれた。

「おかえり。遅かったね。昼は食べたの?」

「時間半端だったから、食ってないんだよ。なんかあるかな」

 昼飯の残りを温め直してくれるというので、甘えることにする。荷物を居間の片隅に置いて、テレビ台の横にあるふすまを開けた。そこに仏壇がある。お鈴を鳴らし、線香を灯して手を合わせた。遺影の婆さんはニコニコと笑っている。写真を選んだのは俺だ。すました顔やもっと大げさに笑っている顔も候補にあったが、やはり婆さんといえばこの顔だろうと思ったのだ。

 内定が出たんだぜ、と俺はつぶやいた。ついこのあいだのことだ。勉学そこそこ、人当たりもそこそこな俺は、就職活動でびっくりするくらい滑り倒した。下手したら就職浪人かと自分で不安だったが、おふくろたちや婆さんはもっと不安がっていた。安心してくれ、ちゃんと正社員になれそうだ。生きているあいだに言ってやれたら良かったが、これについては仕方ない。どのみち婆さんにとっちゃ、俺などいつまでも心配の絶えないガキのままだったろう。

 おふくろが用意してくれた親子丼を突きながら、翌日の予定について話をした。特別なことは何もなかった。呼んだ坊主の経と説法を聞き、会食をする。納骨はもう済ませてしまっているからすぐに終わるそうだ。

「もう忌明けかあ。早いもんだね」とおふくろが言った。

「昨日のことみたいだよ。時間ばっかりどんどん過ぎる」

「気持ちの整理が追いつかないんじゃない?」

 ちょっと迷ってから、俺は頷いた。悲しさで胸が痛むようなことはもうないが、ふとした折に婆さんがいないという事実にみぞおちのあたりが軋むことがある。自分の血が赤くないとまで思っちゃいなかったが、こうもセンチメンタルな部分があったというのも我ながら意外だった。

 顔を上げると、おふくろが微笑ましそうな目で俺を見ている。

「……家の整理も追いついてねえぞ、おふくろ」

 俺は憎まれ口を言った。


 昼飯を食ったあと、片付けを手伝うつもりで俺はひとり婆さんの部屋にいた。実家のあたりは娯楽に乏しく、他にすることもなかったからだ。決しておふくろに「偉そうに言うならあんたがやりなさい」と凄まれたからではない。

 婆さんの部屋は以前より少しだけ生活感が欠けていたが、そのほかはいつかのままだった。骨組みだけになった小さなベッド、洋服が抜かれた小さな衣装だんす、薄く埃が積もった小さな机。年を経るごとに背が縮んでいく婆さんのための家財は、俺にとってはミニチュアみたいなサイズだ。

 ベッドをたたみ、たんすから捨てなきゃならないものをまとめた。カーペットを剥がし、雑誌のたぐいは束ね、残せる本は親父の本棚に移した。どれもに婆さんの匂いがついていて、なかなか捗らず、おふくろたちの気持ちがわかってしまったようで困る。それでもどうにか手を進めたが、気がつけば窓ガラスから染み出す夕焼けが俺を見下ろしていた。

 休憩がてら、婆さんの小さな机に向かって座り、俺は深く息を吐いた。机の上にはペン立てがあり、鉛筆削り器があり、消しゴムがある。婆さんは死ぬまで手紙を書いていた。ほったらかしにされた道具は婆さんが死んだしるしのようにも見えた。

 ひとつだけある抽斗を開ける。奥まったところに手紙の束がしまってある。見覚えのある安っぽい封筒が輪ゴムできっちり束ねてあった。几帳面な婆さんのことだから、きっと中身も揃えてあるに違いない。顔も知らないどこかの誰かと、文通がしたいと婆さんは言っていた。

 後ろで扉の開く音がして、振り返ると戸口におふくろがいた。ちゃんとやっているか様子を見に来たのだろう。「盗み見るのは良くないと思うわよ」とおふくろは笑った。

「見ないよ」俺も小さく笑った。こっちは苦笑いだ。「見る必要もない」

 おふくろは目をしばたたかせた。察するに、俺が抱え続けた秘密は誰にも暴かれていなかったらしい。

 痛む傷跡を慰めるように、封筒の束を握りしめる。

「だって、この手紙は俺が書いたんだ。婆さんには最期まで伝えられなかった」


 婆さんが文通をしたいと言い出したのは、三年前の春のことだった。婆さんは相手を探したがったが、そのころの婆さんはもう相応に衰えていたし、親父もおふくろも忙しかった。俺にお鉢が回ってくるのは自然な流れだったのかもしれない。でも、残念ながら俺にそんなアテはこれっぽちもなかったのだ。

 ものは試しと下宿先から出してみた手紙に、婆さんはすぐに返事を寄越した。どうやら俺からだとは気づかなかったようで、書き出しの文字からもう嬉々としていた。文面から伝わってくる婆さんの様子が何か不思議なくらい嬉しかったのを、俺はよく覚えている。

 なしくずしで始まった婆さんとのやりとりはひと月にいち往復程度のペースで続き、いつからか俺は婆さんの手紙を楽しみに待つようになった。ふさわしい相手はそのうちにちゃんと探すから、そのうちに、そうやってずるずる引き伸ばしているうちに婆さんにがんが見つかり、それからはもうやめようにもやめられなくなった。字面から読み取れる健在が少しでも長く続くようにと思った。ちょっとでも喜ぶことを書いてやりたかった。その役割は他の誰よりも、俺が上手くできるはずだったから。

 だけど、自己満足に過ぎないと言われたら否定もできない。婆さんを騙したまま望みに添わず、わがままで通してしまった。後ろめたさは今でも俺の喉元に突き刺さっている。

「……あんたがそんなに真面目だったとは知らなかった」

 おふくろは心底から驚いたように言った。なんて失礼な。

「真面目じゃないといけないことってあるだろ」

 俺にとってはそれが婆さんのことだったというだけだ。

「その真面目さが就活に活きてたらねえ」

「うるせえな」

 部屋に入ってきたおふくろは、漂う埃に眉をひそめ、閉まったままだった窓を開け放した。夕日の色を乗せた風がカーテンがすよすよと揺らす。向こう側の空は淡いオレンジに透きとおり、触れれば砕けてしまいそうなガラスの質感を持っていた。強いペーソスを抱えた空だ。

「ばあちゃんね、ずっと楽しそうに文通やってたんだよ」

 おふくろは確かめるように言った。責めるような響きはなかったが、俺はほんの気持ちだけうつむいた。

「知ってるよ。文章読んでるだけでもわかった。楽しそうだったし、嬉しそうだった」

 おふくろは頷いた。「最後まで、ずっとね」

 俺の隣に立ったおふくろは、もういちど机の抽斗を開けた。抽斗の中はきれいに整頓され、いちばん取り出しやすい手前側に未使用のレターセットを並べてある。その裏側に滑り込ませた手が一通の封筒をつまみ上げた。

 心臓が強烈に跳ねる音がした。それが何かはすぐにわかった。

「これがその最後だよ」

 俺はその手紙から目を離せなかった。

 婆さんからの手紙は送られてくる間隔が徐々に長くなり、夏になる前には完全に途絶えていた。だから俺は夏休みをこちらで過ごすことに決めたのだ。帰省すると、婆さんはもうほとんど寝たきりになってしまっていた。

 おふくろは封筒をひらひらとさせた。

「これ見つけたの、けっこう最近でね。代わりに出そうかとも思ったんだけど、宛先は書いてないし、……相手が誰か、私たちは知らなかったから諦めてたの。あんたが帰ってきたら聞こうと思って」

 差し出された手紙を受け取った。封筒にはいちど開けた跡があったが、シワにならないよう糊付けし直してある。間違っても中身を傷つけてしまわないように丁寧に封を破いた。封筒とちゃんとお揃いの洒落た便箋に、少しだけへたくそになった婆さんの字が並んでいる。

 内容自体はだいたいいつもどおりのものだった。老眼鏡を失くしてしまってこれを書くのに往生したということや、最近は料理の手伝いさえできなくなってしまったということや、まもなく大学を卒業する俺のことなどが書かれていた。言葉のニュアンスを違えないようゆっくりと、最後まで読み込むと、かすかな違和感が意識の角に引っかかった。砂場からひと粒のガラス玉を見つけ出すように、俺はその正体を探り当てた。

 吸い込んだ息は、吐くときに震えた。頬の熱くなる感覚があった。

「それ書いてるときも、ちゃんと楽しそうで、嬉しそうだったと思うよ」

「……本当か?」

「こんなつまんない嘘つかないっての」

 おふくろは呆れた顔をして肩をすくめた。

「……なんか変だなあ、とは思ったんだよ。知らないはずの誰かとのやり取りなのに、そんな文末」


 ――手紙はこれで最後になると思います。今まで付き合ってくれたこと、心から感謝しかありません。優しい子に育ってくれてありがとう。


 婆さんの手紙は、そう締めくくられていた。

「……いつから、気づいてたんだよ」

「さあねえ。ばあちゃんのんきだったけど、意外と鋭いところあったからなあ」

 ――ずっと、婆さんを騙していると思っていた。

 文通相手にアテがないなら探せばよかったのに、今ならインターネットでもなんでもあるのに、俺はそうしなかった。婆さんのためがどうとか、いろいろ理由を付けることができたとしても、やっぱり嘘は嘘だった。ずっと喉の深くに魚の骨みたいなものが引っかかっていた。それが跡も残さず消えていく。

 婆さんには敵わねえな、と思った。

「後ろめたく思う必要なんて、ないんじゃない?」

 おふくろはそう言って俺の肩を叩く。

「……ひとの手紙盗み見すんなよな、おふくろ」

 俺は憎まれ口を言った。

 それから、少し、本当に少しだけ、泣いた。


 *


 法要が済んだあと、俺は手紙の返信を書き、庭の片隅でそいつに火をつけた。

 煙はゆったりとのんきに昇っていく。その行方を、いつまでも追いかけ続けた。


 ――最後の手紙、読みました。俺も楽しかったです。でもそろそろ子ども扱いはやめてくれ。無事に就職も決まったんだぜ。

 今までずっとありがとう。さようなら。またいつか。


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