改稿後

そういうお店に入るのは初めてだった

 そういうお店に入るのは初めてだった。

「いらっしゃいませ」

 第一声が女の人の声だったのに、わたしはちょっとたじろぐ。

 バー、という空間である。

「おひとり様ですか?」

「あ、はい……」

「どうぞ、お好きな席へおかけください」

 そう言ってカウンターの席を宙に平手でなぞって示すのは、下手したらわたしよりも年下かもしれない女の子――お姉さんで、わたしなんかには言われたくないだろうけれど、白いブラウスにピシッと決めた黒ベストの立姿も、なんだか着せられてるみたい、って感じがする。ひっつめ髪の広いおでこがまぶしくてキュート。

 わたしがおそるおそる入り口からすぐの一番手前の席に腰を下ろす――座面が高くてよじ登るように腰掛ける――と、ちょうどよく足の裏が落ち着く位置にバーがあって、ああ、だから「バー」なんだ、とわたしはふいに、すとん、と思う――と、件のお姉さんがおしぼりを広げながら、カウンター越しに慣れた仕草で差し出してくる。

「どうぞ」

「あ、どうも……」

 自然と受け取り、よく温められたそれで両手をわちゃわちゃとぬぐうと、なんだかそのまま置くのが憚られて、わたしはそれをとりあえず四つに畳んで手元に置く。

「ご注文はいかがいたしましょうか」

 問いとともに、コースターがわたしの手元にさりげなく差し出される。

「えーっ……と……っ」

 最初にも言ったけれど、こういうところに入るのはわたしは初めてだった。

 きょどきょどあたりを見回してみても、メニュー表みたいなものは見当たらない。お店の壁は一面造りつけの棚。その中にびっしりと並ぶいろいろな色と形の壜。暗めな照明の下でしっとりと輝く一枚板のカウンター。意識して捕まえないと鼓膜の前で自分から引き返してでも行きそうな、さり気ないジャジーなBGM。

 そういう雰囲気に呑まれてわたしがただただフリーズしていると、店員のお姉さんが完璧なビジネススマイルで、こう尋ねてくる。

「今日はお召しになるのは一杯目ですか?」

「あっ、はい」

「でしたらなにか飲みやすいカクテルで、おつくりしてみましょうか。今日はいいオレンジが入りましたので、カシスオレンジはいかがでしょう?」

「あ、はい、じゃあ、それで、はい、おねがいします」

「かしこまりました」

 お姉さんは丁寧にわたしにお辞儀すると、カウンターの中を滑らかに動き始める。

 ひとまず、ほっ、と息をついて背もたれに身を預けると、わたしはなんとなく店内を見渡す。

 お客さんはわたしひとりだけ――と思ったが、よく見るとカウンターの一番奥の席でもぞっと黒い影が動いて、わたしはちょっとびくっとする。

「あ、ユキちゃーん、おれもレッドアイ追加ね。ちょっぱやでヨロー」

 その影が空になったグラスを掲げて、宣う。

「新しいお客様の分が先です。というか浦戸さんのせいでトマトジュースの在庫の減りだけマッハなんですけどもうちょっと他のものも頼んでくださいませんか?」

 ユキちゃん、というらしい、お姉さんが、浦戸さん、というらしいその男の人にスパッと答える。

 浦戸さんはさっきまでカウンターの奥の端っこの席で壁にもたれかかっていたらしく、わたしはその存在にまったく気づけなかった。

 ある種、異様な風体だった。

 店内で多少冷房が利いているといっても、こんな季節に真っ黒なロング丈のコートをずっしりと着込んで、フードまで下ろしている。その端から、ブリーチでもしている感じの薄い色の前髪がはみ出している。グラスを掲げる手にも、厚手の黒い手袋。

 まるですこしでもこの世界から隔絶されたいみたい。

「あ、おねーさんひとり飲みー? このお店初めてだよねえー? ウィーッス」

 ――とか思ってたのに異様に軽いノリで浦戸さんは私に向かって空のグラスを掲げ、

「ど、ドモッス……」

 と、わたしはぎこちない挙手でそれに応える。

「浦戸さん、初めてのお客様に無闇に絡むのはお控えください」

 ユキちゃんさんは背後のキャビネットから細身のグラスを取り出すと、カウンターの陰の冷凍庫から取り出した綺麗に透明な角氷をトングで数個入れる。そして、カウンターの上に置かれてある、水で満たされた大きなビーカーのような容器から抜き出したスプーン――それも背の高いグラスの底にまで届くぐらい長く、先端からもう一方の先端――こちらは三叉のフォーク状になっている――にまで捩りが加わっているようだった――をグラスに差し込み、グラスの中で積まれた氷を滑らかに回転させるように、キュルキュルと動かす。ガラスと氷の立てる音の繊細さを、わたしは初めて知る。

「えー、だってユキちゃん最近まともに相手してくれないじゃーん」

「浦戸さんがもうちょっと実のある話をなさってくださるとわたくしもそれ相応のご対応の仕方がございますんですけどねえ」

 浦戸さんとやいのやいのやりながらも、次いでユキちゃんさんは冷蔵庫から取り出した大ぶりなオレンジの果実を鮮やかな手つきでスパッと真っ二つにする。

「えー、楽しいじゃん、実のない話、なるべくスッカスカのやつ」

 おつまみのジャーキーらしきものをガジガジかじりながら宣う、浦戸さん。

「物事には限度というものがあります」

 それにスコーンと返答しながら、真っ二つになったオレンジの片方をジューサーで、これまた慣れた手つきでグリグリ搾る、ユキちゃんさん。

 ほどなくしてユキちゃんさんはグリグリをやめると、ジューサーからグラスに搾りたてのオレンジの果汁を注いでゆく。それがグラスの七割ぐらいの量にまでなると、ジューサーを戻し、今度は棚からバーの暗い照明の下では真っ黒に見える液体の入った壜を取り上げる。それをグラスの上に傾けると、山吹色の果汁の中を、深い紫色の液体が滑り落ちてゆくのが見えた。

 そして、グラスの縁に近くなるまで液体を注ぐと、ふたたび例の独特な形のスプーンをグラスに差し込み、やはりあくまでも滑らかに、クルクルと氷と液体を攪拌する。いや、それは、攪拌する、とか無造作なものじゃなくって、グラスの中でオレンジの果汁と深紫色のお酒が手を取り合って踊りながらゆっくりとひとつに溶け合っていくような、そんな美しい光景だった。

 最後に、グラスの底まで差し込んだスプーンで、氷を、クッ、クッ、と数回持ち上げるように動かすと、スプーンをグラスから抜き取る。その先を自分の手の甲に控えめに付け、それを舐めとり、味を確認したようだった。

「お待たせしました、カシスオレンジです」

 わたしが見蕩れているうちに、あっという間に出来上がったカクテル――明るい紫色の液体で満たされた、ほっそりとしたグラス――が、わたしの手元のコースターの上にそっと置かれる。

「あ、どうも……」

 モソモソッとお礼を言って、わたしはそのグラスに口をつける。

 その瞬間、あ、と思った。

 カシスオレンジ。カシオレ。職場の飲み会なんかでもよく頼まれる、ポピュラーなお酒。

 でも、ユキちゃんさんが今、わたしのために作ってくれたカシスオレンジはそんなものとは全然違って、搾りたてのオレンジの爽やかな甘みと酸味、それに、わたしはカシスっていうものを直接食べたことがないから、よく言えないけど、ブルーベリーとかっぽい、そういう、ベリー系の、風味とほんのりとした渋みが加わって、これが本当のカシスオレンジなんだ、とわたしは感動する。

「お口に合いましたでしょうか」

 気づけばユキちゃんさんがカウンターの向こうの絶妙な距離に佇んでいて、そうわたしに訊く。

「あ、はい、おいしいです、とても」

「それはよかったです」

 その時だった。

 わたしの座っていた席の背後のドアが開く。

 思わず振り向いて、わたしは凍りつく。

「あー、よかった、ここにいたんだ」

 入ってきた男の人が、わたしの隣の席にごくごく自然な態度で座りながら、言う。

「いきなりいなくなっちゃうから、心配したんだよ」

 そう言ってわたしの肩に親しげに触れる男の人の名前は、佐藤さんという。

「いらっしゃいませ」

「どうも」

 ユキちゃんさんが差し出してくるおしぼりを佐藤さんはやっぱりごくごく自然に受け取って手を拭う。

「ご注文はいかがいたしましょう?」

「ああ、ビールは何を置いてますか?」

「うちは生でしたらカールスバーグを入れています。あと、壜のコロナ、ギネスも缶でございます」

「じゃあ、生で」

「かしこまりました」

 わたしなんかとは違って物慣れた様子で注文を終えて、佐藤さんはさりげなく

「まだ一杯目? カシスオレンジにしたの?」

「あ……はい……」

「それにしても意外だったなあ」

 佐藤さんが店内をぐるっと見回しながら言う。

「サトミちゃん、こういうお店で飲んだりもするんだ」

「えぇ……まぁ……」

 にこやかに問いかけてくる佐藤さんに、わたしは引きつった愛想笑いを浮かべることしかできない。

 佐藤さんとわたしとは、付き合っているのでもなんでもない。


 佐藤さんと初めて出会ったのは、わたしが派遣で入った会社で、佐藤さんはそこの主任だった。

 そこで務めた最初の日のランチに出かけて、わたしがひとりでパスタをつついていると、ふいに向かいの席に腰掛けてくる人がいた。

 佐藤さんだった。

 佐藤さんはありていに言うとイケメンの部類で、そういうことをわたしが知るのは後々のことになるけれども、仕事もバリバリにできて、ふつうに接するのならきっと好ましい人物なのだろうな、と今でもわたしは思う。

 だが、この日の佐藤さんの私への距離の詰め方は尋常ではなかった。

 結局、そのときのランチで佐藤さんはわたしの向かいでボンゴレ・スパゲティを平らげ、仕事帰りにわたしといっしょに吉牛のネギ玉牛丼を食べた。

 いつのまにか(多分、最初のエンカウントのときに)わたしは佐藤さんの恋人認定をされていて、それはわたしが派遣を辞めてコンビニバイトを始めても続いた。

 そして、いまに至る。

 バイトの帰り、不穏な気配を感じたわたしはいわゆるそういう界隈をダッシュで駆け回り、そして飛び込んだのがこの店だったのだ。

 だが、そのムーヴを佐藤さんの嗅覚は上回ってきた。

「お待たせしました、カールスバーグです」

「ありがとうございます」

 ユキちゃんさんが佐藤さんの前に金色の液に白い泡を頂いたグラスを置く。

 それを捧げて、佐藤さんが言う。

「それじゃ、おつかれさま、サトミちゃん」

「お、おつかれさまです……」

 わたしはぎこちなくカシスオレンジのグラスを掲げる。

 そうして、佐藤さんはビールのグラスをたっぷりと傾けて、満足そうに吐息をついた。

「はぁーっ、でも、本当に心配したんだよ、サトミちゃん」

「……あ、はい」

「職場には来ないし、見かけても、急にいなくなっちゃうし」

「あぁ、その……」

 きっと、無駄なのだ。

 職場にはとっくに退職願を出してるし、今は違う職場に勤めてるし、なのに、こうやって追いかけてくる。

 わたしはこの人から逃れられない。

 だが、そのときだった。

「ねー」

 気づけばわたしたちの席のそばに、黒い影が立っていた。

「ねー、だいじょぶ?」

 浦戸さんだった。

 浦戸さんがニヘラニヘラ笑いながら言う。

「カノジョいやがってる系じゃない? そういうのよくないかも系に思うっていうかさー、おれ」

「えぇーっと……っ、そう見えちゃいましたかね?」

 浦戸さんの考えれば大概不躾な言いぶりを、佐藤さんはやんわりと受け流して、まいったなあ、といった風に首筋に手を回す。

「じつは、彼女ちょっと精神的に不安定なところがあるっていうか、ときどきこういうときがあるんですよ」

 だから、ぼくがついてないといけないんですよ。

 朗らかに笑いながら、佐藤さんはそう言う。

「ね、大丈夫だからね? サトミちゃん。ね?」

「あ、はは……」

 ちがう!! たすけて!! ――そう叫んでみたこともある。でもすべて無駄だった。佐藤さんの外面は完璧で、通報されて来た警察の人たちは迷惑そうな顔をして帰っていった。

 今回も、きっとそうなる。わたしにできるのは引きつった笑いを浮かべることだけだ。

「……ノルアドレナリンが出てる」

「え」

「おねーさんから、すごいノルアドレナリンの匂いがするんだよね」

 浦戸さんから、ヘラヘラ笑いが消えていた。

「すごく怖がってるか、とても緊張してる」

 真剣な表情の浦戸さんは、驚くほど程キレイな顔立ちをしていて、髪の毛と同じ色素の薄い睫毛が長い。色の抜けた虹彩。アルビノ、という言葉をわたしは思い出す。

「でも、おにーさんからはそういうの全然ないんだよね」

 浦戸さんは淡々とした調子で続ける。

「フツー、こんなヘンなのからインネンつけられたら、なんか出るっしょ?」

「……なにが言いたいんですか?」

 佐藤さんがゆっくりと席から立ち上がる。

「いや、なんかヘンだなー、って」

「彼女とはふつうにお付き合いしているだけですよ」

 浦戸さんはじっと佐藤さんの目を見ている。

 やがて、それがニヘラッと緩められる。

「あー、そうなんすか、なんかすんません」

 わたしの心が真っ黒に塗りつぶされる。結局、いつもこうなるのだ。

 すると、浦戸さんがおもむろに片手の手袋を脱ぐ。

「じゃ、仲直りの握手っつーか、よろしくおねがいしまーっす」

「あ、ああ」

 差し出された真っ白い手を、佐藤さんが握る。

「あ、ああ、ふぁあああぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 佐藤さんの口から、止めどなく吐息が漏れていく。

 その顔面が、真っ赤に染まった。それどころか、全身の、見えている皮膚のいたるところが。

 そこから空中に真紅がゆらゆらと立ち昇り、中空に真ん丸の球体を形成していく。

 そして、浦戸さんがぱっくりとその口を開くと、球体から真っ赤なものがその口の中へと飲み込まれていく。

 すべてが終わると、浦戸さんが、ゲプッ、とおおきなおくびを漏らした。

「あ~、やっぱマッズ!」

 カシャリ、と乾いた音がする。

 が、フロアに昔理科の実験室にあったガイコツの模型みたいに横たわる。

「もー、またですか浦戸さん!」

 ユキちゃんさんがプリプリ怒りながらぼやく。

「これ片付けるの大変なんですからね! ちゃんと手伝ってくださいよ!?」

 佐藤さんだったものを、カウンターの中になぜか手慣れた様子でズリズリ引き摺り込みながら、言う。

 元・佐藤さんはすっかりカラッカラのシナッシナに乾涸びて、ユキちゃんさんの細腕でも楽に運搬できるようだった。

「まだまだまだまだ当分浦戸さんのチャームはこれで固定ですからね!」

 チャーム、というと、わたしのとぼしい知識でもわかる。バーのおつまみのことだ。

 となると、さっきから浦戸さんが齧っていたアレはもしかして……。

「いやー、たまにはおれにも柿ピーちょうだいよー。あ、ミレービスケットでもいーよ?」

「だめです!」

「えー、ケチー」

 と、わたしがまじまじと浦戸さんのことを見つめているのに気づくと、

「あ、ごめんねー、マジお騒がせしちゃって」

「あ、いいえいいえ」

「というかほんとやっちゃってよかった系のヤツだった? あれストーカーとかナントカパス系とかガチそういうやつかなっておれ思ってー」

「あっ、はい、大丈夫です。むしろ、助かりました」

 思わずわたしは本音丸出しで返す。

「あー、よかったー」

 と、浦戸さんは胸を撫で下ろして、脱いでいた手袋をはめ直す。

「あー、おれさー、なにー、吸血鬼っていうのー?」

「はあ」

「でもオニじゃないしなー、吸血人? とか、そういうヤツでー」

「へえ」

「まあ、そういう体質? なわけよ?」

「なわけなんですか」

「いやー、ほら、水にスポンジ浸けると、吸っちゃうじゃん?」

「はい」

「そゆこと」

 なぜか、チェケラー、のポーズを取る、浦戸さん。

 つまり、水=血、スポンジ=浦戸さん、ということなんだろう。

 しかしそれだとうかつに他の人とふれ合うこともできないわけで、それはさぞかし難儀なことだろうなあ、となんだかもう半分ヘンに麻痺してきてる頭の中でわたしは雑に諒解する。

「申し訳ございませんお客さま」

 元・佐藤さんを雑に片付け終えたらしいユキちゃんさんがバックヤードからパタパタと姿を現しながら言う。

「この人にはわたくしからよっく言い聞かせておきますので、何卒ご容赦ください」

 カウンター越しに浦戸さんの袖を引っ張りながら、ペコペコ頭を下げる。

「あ、シャッセンっす、ちっす」

 浦戸さんが雑に頭を下げる。 

「あ、いえ、そんなそんな」

 思わずわたしも頭を下げる。

「あ、じゃあー、なんか腹パンパンになっちゃったし、おれもうチェック。あ、おねーさんのとおにーさんのもツけといてー」

「え、そんな、悪いですよ」

「えー、いいからいいからー」

 そう言って手をヒラヒラさせながら、浦戸さんはお会計を済ませて、店を出て行った。

「お客さま、お気になさらず」

 ユキちゃんさんが鹿爪らしい顔で言う。

「あの方はだいたい勝手ですので」

「はあ」

 結局わたしは、飲みかけだったカシスオレンジを干して、そのまま店を出た。

「ありがとうございました」

 ユキちゃんさんが恭しくお辞儀をして見送ってくれる。

 お会計は本当にタダだった。


 次の日、わたしは同じぐらいの時間、同じ店に行った。

「いらっしゃいませ。あ、連日のお越し、ありがとうございます」

 変わらぬ物腰で出迎えてくれたユキちゃんさんが頭を下げる。

「あ、いいえいいえ」

「本日はどういたしましょう」

「あ、じゃあ、また、カシオレで」

「かしこまりました」

 そう言ってカウンターの中を滑らかに動き始めるユキちゃんさんの姿を眺めながら、わたしはついチラチラと背後のドアを気にしてしまう。

「あ、あの!」

「はい」

 思い切って声を上げると、ユキちゃんさんが昨日と同じように鮮やかな手つきでカシスオレンジを作りながら、こちらに微笑を向ける。

「なんでございましょう?」

「その……浦戸さん、今日、来ます? かね……?」

 訊いてしまった。

 思いっきり直截的に、訊いてしまった。

 ユキちゃんさんは完璧な笑顔で、

「いらっしゃると思いますよ」

 と言ったかと思えば、

「というかあの方はほぼ当店皆勤賞ですので……」

 と苦虫を噛み潰したような顔をする。

「こないだなんて、そろそろログインボーナスとかちょーだいよー、だなんて」

 雑に浦戸さんの口調を真似たユキちゃんさんの言い草に、ついわたしは吹き出してしまう。

「もしかして、あらためてご苦情かなにかでも……」

 と、ふいにユキちゃんさんが心配そうにするので、

「あ、いや、そんな苦情なんてとてもとても!」

 と、わたしは胸の前でビュンビュンと手を振り回してごまかす。

「というか、ユキちゃ――ユキさん? のほうこそ大丈夫でした? その」

「ちゃん付けで結構ですよ」

「あ、はい、その、あの、色々な、その、後片付け? とか……?」

「ああ、その点についてはお任せください」

 ユキちゃんさん改めユキちゃんが慎ましやかな胸を堂々と張る。

「昨日のうちに洗浄と脱毛処理は済ませまして、今日空いた時間を見つけて塩漬けに入る見込みです」

「あっ、はい」

 ユキちゃんがあまりにナチュラルに語るので、わたしはなんかそれでいいような気が危うくしてしまう。

 いやー、でも、ほんとによかったのかな、佐藤さん。ほんとにカラッカラのシナッシナになっちゃってたな……でもぶっちゃけ消えてもらって助か――ゲッフッ! エッフン!

「お待たせしました、カシスオレンジです」

 とかなんとかわたしが頭の中で己の善性と身勝手さを格闘させていると、お待ちかねの一品がすっと目の前に差し出される。

「あ。ありがとうございます」

 そのグラスを捧げ持ち、一口含み、やはりその美味しさにわたしはウットリする。

 と、そのときだった。

「うぇいーっす、ユキちゃん今日のログボなあにー?」

 わたしの背後の入り口のドアが開き、浦戸さんがニヘラニヘラ笑いながら入ってくる。

「当店はソシャゲではございません!」

 ユキちゃんがぴしゃりと言い返す。

「えー、ケチー。あ、昨日のおねーさんだ」

 ついにわたしと浦戸さんの目が合う。

「つかほんと昨日ごめんねー、おれああいうの見てるとマジ堪忍袋リミットブレイクっていうかさー、なんかあのあと面倒なことなかった?」

 浦戸さんはサラッとわたしの隣の席に腰を下ろすと昨日のことの心配をし始めてくれるけどそういうのはもうわたしの耳には入ってなくてわたしは思わず席から立ち上がっていた。

「う、浦戸さん!!」

「……アッハイ?」

「つ」

「つ?」

「付き合ってください!!」

 ほとんど絶叫に近いトーンで言い切りながら、わたしは勢い良く60度のお辞儀をキめ、浦戸さんに向かって右の手を突き出していた。

 というか、言っちゃった。

 言ってしまった。

 わたしは、浦戸さんに恋をした。

 昨日、浦戸さんが佐藤さんをカラッカラのシナッシナにしたそのときから。

 カウンターの向こうで、ユキちゃんが息を呑む気配がする。

 顔面にすべての血流が集まっていくのを感じる。

 そして、わたしにとって永遠とも思える時間のあと、

「いーよ」

「ひゃいっ?」

 思わず変な声が出た。

 わたしが顔だけ上げると、浦戸さんは手袋を脱いでおしぼりを両手でわちゃわちゃしているところだった。

「いっすよ、べつに。おれいまフリーだし」

 わたしの頭の中で壮麗なファンファーレが吹き鳴らされ、クピドたちがバラの花びらの雨を降らせる。

「あー、でもお肌の触れ合い的なのは全NGになっちゃうんすけどそこらへん大丈夫っすか」

「えっ」

 えっ。

「えっ」

 浦戸さんが小首を傾げながら、拭き終わった両手にまた手袋をはめる。

 ちょっと、待って、ちょっと、それ。それちょっとまだ早い。

「そこをなんとか!」

「そこをなんとか」

 よくわかんない、なんか、触手的ななんかを体内から網の目状に放出するヒルかなんかの仲間の映像を見てるときみたいな顔で、浦戸さんはわたしを見つめ返す。

「――夢だったんです」

 しばし、わたしは視線を浦戸さんの顔からどこか遠い彼方に飛ばす。

「わたし、昔っからへきっていうんですか? 性癖がひとつあって」

「はぁ」

「好きな人とひとつになりたい……!! って……」

「ひとつに」

 わたしの告白を受けて浦戸さんはしばし考え込む素振りをする。

「えーと、それはつまりおとーさんとおかーさん夜のプロレス大決戦的な意味で――つーかだからおれそういうお肌の触れ合い的なヤツは――」

「いいんです!!」

「いいのぉ~?」

 本気で困惑した顔をした浦戸さんは、くるりとその顔をユキちゃんの方に向ける。

「いいの? ユキちゃん」

「さ、さぁ……?」

 ユキちゃんがやはり本気で困惑した顔で首を傾げる。

「えっと、そのさあ、つか、えーと、おねーさんお名前ドチラ様でしたっけ?」

「サトミです!」

「えーと、じゃあサトちゃんさあ、昨日見たっしょ?」

 あ、サトちゃん、って、サトちゃん、ってアダ名で呼んでくれた! とわたしの胸はときめくが、浦戸さんはごくごく真剣な様子でわたしに言い聞かせてくる。

「おれ、ああいう特異体質なの。フツーの人と皮膚接触があると、生理的に、自然と血を吸い取っちゃうの! だからぁ、そういうのダメなの!」

 ダメ! ゼッタイ! と、浦戸さんが胸の前で両腕をバッテンにする。

「サトちゃんもカラカラのシオシオになって死んじゃうのヤでしょ? だからそういうのはあ――」

「いえ、望むところです!!」

「のぞむのぉ~?」

 やはり本気で困惑した顔をした浦戸さんは、ふたたびくるりとその顔をユキちゃんの方に向けようとするが、ユキちゃんはいつの間にかカウンターの内側の向こうの方でグラスを磨くのに専心している。

「……のぞむの?」

 しかたなく視線をわたしの方に戻した浦戸さんが、怪訝そうに訊く。

「はい!」

「えぇ……」

「あの、その、ひとつになりたい、って言っても、そういう……行為? とか、そういうのじゃなくて」

「じゃなくて」

「もっとこう、グッチャングッチャンに」

「グッチャングッチャン」

「血と肉と骨の一片に至るまで混ざり合いたい、っていうか……!」

 浦戸さんの浮かべる表情が、なんか広がる大宇宙を背景に得も言われぬ表情をするネコの画像のそれに限りなく近くなる。

「その……一度チャレンジしてみたこともあるんですよ……」

「チャレンジ」

「当時付き合ってたカレに、手始めに――手始めにですよ? 軽いジャブっていうか」

「ジャブ」

「お互いの血を赤ワインにちょびっとずつ――ほんとちょびっとなんです――混ぜて、それで乾杯してみない? って言ってみたことがあるんです」

「アーハァン?」

 浦戸さんがネットフリックスとかの海外ドラマとかでよく聞くような感じの曖昧な相槌を打つ。

「えーと、それでー……ど、どうなったん?」

「カレとは次の日から連絡が取れなくなりました……」

「まあ、そうなっちゃうよねー」

 いや、まさかあそこまでドン引きされるとは思ってなかった。個人的にはほんのちょっと、お試しで、みたいな感じだったんだけど。

「でも、浦戸さんならそれがサクッとできちゃうじゃないですか!」

「あー、まあー……やろうと、思えば……?」

「ユキちゃん! お肉のほうもなんか生ハムみたいな感じでいい感じに、やってくれるんですよね!?」

 一心にグラスを磨き続けていたユキちゃんがビクッと肩を跳ねさせる。

「あー、そのー、けして正規のサービスではないと申しますか、なんか昨日の感じが当店のデフォルトだとお思いになられるのも、それはそれで困るんでございますけれども……」

「でも、できるんですよね!」

「あー、まあ、その、最終的にはー、やらざるを得なくなりますよねぇ……」

「というわけです浦戸さん!!」

「アッハイ」

「よろしくおねがいします!!」

 わたしはふたたび60度のお辞儀とともに右の手を浦戸さんに向かって突き出す。

 対する浦戸さんはゆっくりと席を立ち、わたしの横手にゆっくりと回り込み、

「サトちゃんごめんおれ今年の恋愛運おみくじで大凶出てたの忘れてたわ付き合う話やっぱナシでごめんねマジごめんあっユキちゃんおれ急用思い出しちゃったからやっぱ帰るわじゃあそういうことでごめんねごめんごめん」

 一息で言い切りながら獲物に襲いかかるジャガーの素早さで身を躍らせると、入り口のドアから外へと飛び出していく。

「ちょ、ちょっと、待ってください! 浦戸さぁん!」

 慌ててその後を追い、わたしは路地の左右に視線を巡らせるが、浦戸さんの後ろ姿はどこにも見当たらない。視界の上の端っこに、一瞬黒い影が過ぎったような気がした。

「そんなぁ……」

 わたしが肩を落として店内に戻り、席に着くと、すっとグラスが差し出される。

「氷が大分溶けてしまっておりましたので、作り直させていただきました」

 そう言って、ユキちゃんがニッコリ微笑む。

「お代は変わりませんので、ご心配なく」

「あっ、いや、そんな、申し訳ないです……」

「お気になさらず」

 そうしてユキちゃんがわざわざ作り直してくれたカシオレを一口啜ると、急速にボッと顔から火が出るかのようで、身も世もないような気持ちにわたしはなってくる。

 なんかヤベーことしちゃったかもしれない。というか、した。

 冷静に考えなくとも、浦戸さんが店内に入ってきてからのわたしのムーヴは全箇所ヤベー奴の所業である。

 ガン逃げされるのも仕方がない。

「……あのー、ユキ、ちゃん?」

「はい」

 素知らぬ顔で洗い物をしていたユキちゃんに、わたしは声をかける。

「全部、聞いちゃってました、よね……?」

「……はい」

「ドン引きですよね……」

 ははははは、という自嘲の笑いがわたしの口からカウンターの上に垂れ流される。

 しかし、

「いいと思いますよ」

「えっ」

 顔を上げると、ユキちゃんはカウンターの向こうでいつのまにかわたしのほうへ真っ直ぐに向き直っていた。その表情は、まさに如来のごとし。

 オー、ブッダ。ここにいらっしゃったのですか。

「ほんとうに、皆様方、色々なお客様がいらっしゃいますので……」

 仏の表情を浮かべるユキちゃんの視線は、店の壁も突き抜け、どこか遥か遠いところを眺めている。

 いや、ほんと、なんか、いろいろあるんだろうなあ、とわたしも釣られて胡乱な目つきになる。

「サトミさん!」

「は、はい!?」

「こうなったらとことんまでやりましょう!」

 ユキちゃんが胸の前でグッと握り拳をつくる。

「どんなに人と違った形に見えても、愛は愛!!」

「愛は……! 愛……!!」

「そうです! その思いの丈を浦戸さんにすべてぶつけてやるのです!」

「ユキちゃん」

「サトミさん」

 わたしたちはカウンター越しにグッと互いの両手を握り合わせる。

「わたくし、サトミさんの愛の形、応援させていただきます」

「ありがとう! ユキちゃん!!」

 勢いのついたわたしはカシオレのグラスを手に取ると、グビグビと一息に飲み干した。

 ドッ、と中身が氷だけになったグラスをコースターの上に下ろす。

「ユキちゃん!」

「なんでございましょう」

「なんかブラッディな感じのカクテルとかありませんか!?」

「お任せください」

 ユキちゃんが童顔には似合わぬニヒルな笑みを浮かべる。その姿は間違いなく敏腕バーテンダーのそれだ。

「ちょうどブラッディ・マリーというカクテルがございます」

「じゃあそれ!」

「かしこまりました!」

 わたしの二杯目のオーダーを受け、ユキちゃんが流れるように動き始める。

 まもなくわたしの元へと運ばれた、名前にふさわしい真っ赤な色をしたブラッディ・マリーの味はまさに――まさに、なんかこう、トマトジュースにとりあえずアルコールぶち込んでみました、って感じで、わたしにはちょっとキツかったけど、勢いでわたしはそれもグビグビ飲み干すと、次のオーダーを飛ばすべく挙手。

「ユキちゃん! 次なんか大人のドロドロした恋愛模様みたいななんかで!」

「かしこまりました!」

 間髪を入れず応えるユキちゃんはやはりカウンターの中を果断に動き回り、ほどなくわたしの目の前には小振りなグラスの中で下から濃褐色、琥珀色、白色の液体がキレイに層を作った不思議なカクテルが差し出される――

 その夜、結局わたしはさらに五杯ほど深遠なるカクテルの世界を大いに愉しみ、自宅アパート前の植え込みに頭から突っ込んで寝ていた。

 寝ゲロしてた。


 ――その後、わたしはユキちゃん協力の元、様々な「浦戸さん捕獲作戦」を敢行したりすることにもなるわけだが、それはまた、別のお話。

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