第7話 茨道



 野木はウイスキーの注がれたグラスを煽りながら笑った。


「あいつ。あんたにぞっこんだよな。ここに来た時はあんたのことばっかり話しているぜ。あんたと住み始めてからはほとんど来なかったのに、急に昨日、来やがって、誕生会やらせろだなんて。まったくもって勝手な奴だけど」


「そうですか……」


 過保護なくらいに、保住のことを大事にしてくれる田口の気持ちは、いつもひしひしと伝わってくるのだ。それは常日頃、肌で感じていることであっても、こうして第三者から言語として伝わってくると、なんだか気恥ずかしい気持ちになった。


 彼と出会ってそんな思いばかり受け取っている気がする。


 ——おれはあいつに、返すことができているのだろうか……。


 田口はどこにいったのだろうかと視線を巡らせると、彼は奥の部屋からケーキを持って戻ってきた。


「準備悪いな。銀太は」


 神崎に茶々を入れられて田口は苦笑した。


「先生には言われたくないですよ」


「悪かったね」


 二人のやり取りをしていると、それはまるで友達のようだ。


 ——そうか。


 神崎とのことは全く持って疑う余地はなかったのだ。あの時だって田口はずっと保住が好きだと体中で表現していたのだから。信じてやれなかった自分が情けないと思った。


 ケーキにろうそくを立ててのお祝いなんて、何年ぶりだろうか。去年は腰を痛めていて、それどころではなかった。


 社会人になってからも、誕生日などは関係がないイベントだった。家族からも祝われたことなどない。みんなに囲まれてろうそくを吹き消して、こんなに拍手をもらうだなんて、まるで子供に戻ったみたいだった。


『おめでとう。尚貴』


 母親の手作りのバースデーケーキ。いつもは仕事で不在だった父親も、その日だけは早く帰ってきてくれた。自分よりも先にろうそくを吹き消そうとする、妹のみのりと喧嘩になったことを思い出す。いつもいつも仕事でいない父親が、この時だけは笑顔で自分を見ていた。


 ——父親あの人は本当に仕事が好きだった。そして、そんな父親あの人を嫌悪していたくせに、今の自分はまるで父親あの人そのものではないか。


 仕事、仕事。プライベートはいい加減。多分、自分には普通の家庭を持つことなんかできない。いやそういう資格などない。


 父親のように家族をかえりみないダメな父親になるだけだ。だからこそ適当に生きてきた。人に依存することなく一人で仕事だけしていればいいと思ってきたのに。


 灯りの消えたろうそくは、形が崩れて寂しい気持ちになるものだが。だけどそれらを切り分けて、みんなに配っている田口を見ると、なんだか笑ってしまった。


 あの頃は、誕生日の意味なんてよくわからなかった。プレゼントをもらえる日。そんな程度の認識だった。店内は騒がしく、主役の保住のことよりも目の前のケーキとお祭り騒ぎに便乗というところだろう。神崎や野木が、ケーキ配りで忙しくしている様子を眺めていると、ふと田口が隣に戻ってきた。


「田口。今日は、あの……」


 素直に謝辞を述べるべき。そう思っているのに言葉に詰まる。すると田口は、目を細めて、そっと保住の左手を取った。


「あなたが生まれてきてくれてよかった。そう心から思います」


「田口……」


「あなたに出会えて、おれは変わりました。おれの人生も変わりました」


「……」


「あなたのご両親には感謝しきれません。本当に。ありがとうございます」


「田口」


 こんなストレートに言われると、気恥ずかしいだけだ。


「そんな恥ずかしいことを、面と向かって言うなよ」


 弱ってしまうと言うのはこのことだ。しかし、田口は真面目な表情のまま、そっとポケットから細い金の指輪を取り出した。


「安物ですけど。つけていただけませんか」


「しかし……」


 保住の戸惑いなんか気にしないかのように、田口はそれをそっと保住の指にはめた。それは、なんとなく大きくて不似合いな気がして、心がざわざわした。不安のザワザワではない。それは嬉しいザワザワなのだ。


「部署が代わっても、どうか。そばにいてください……」


 田口の瞳に映る自分は、自分ではないみたいで気恥ずかしかった。目を逸らしたいのに逸らせない。田口と言う男に真っ直ぐに見つめられると、もう逃れられないのだ。


「田口……」


 今度は保住が、ぎゅっと田口の両手を握り返した。田口は「保住さん?」と目を瞬かせる。保住は俯いたまま小さい声でそっと呟いた。


「すまない。おれのエゴで」


「え? なんですか?」


「おれと一緒に来てくれないか。田口。おれが進む道は茨道かも知れない。だが、お前がそばにいてくれたら、きっと。そんな道でも。おれは進んでいけそうな気がするのだ」


「保住さん」


 仕事のことなら平然となんでもこなせるはずなのに、田口の事になると必死。田口の返答は想像できているのに、実際にそれを聞くまでは不安で仕方がない。


 ——怖い。


 からだを屈めて保住の顔を覗き込んだ田口は、優しく微笑み、そっと目元を拭ってくれた。


「泣き虫ですね」


「泣いてなどいない!」


「そんな偉そうにしてもダメですよ」


「田口……っ」


 恥ずかしくて。困惑して。どうしたらいいのかわからなくて。保住は逃げ出したい。しかし田口は、がっちりと保住の腕を捕まえて彼の瞳を覗き込む。


「わかりました。どこまでもお伴します」


「……っ、田口」


「茨があなたが傷つけるなら、おれが代わりに引き受けます」


「そういう意味では……」


「いいえ。おれはそうしたいんです。保住さんのそばにいたいんです。一緒に切り開きましょう」


 ずっと心に引っかかっていたことが、すとんと落ちる。


 いつもそうだった。田口への思いについて考えたとき。解決もなく、迷路みたいにぐるぐるしているのに。田口は一瞬でそれらを軽くしてくれる。魔法みたいだった。


 保住の目から、熱いものがこぼれ落ちた。


「いつもそうです。一人で背負い込まないで。おれを頼ってください」


「……すまない」


 田口はそっと保住の頬に手を添える。


「頼られると嬉しいんです」


「そうか……」


 彼の温もりは暖かい。保住は目を閉じてそれを感じ入る。生まれて初めてだ。生まれてきた意味を教えてくれる田口。こんなに誕生日がいいものだと思ったのは初めてのことだった。


「あ〜、やだやだ。見せつけてくれちゃって」


 神崎の茶々に田口はハッとして顔を真っ赤にする。


「ち、違う……っ」


「なにが違うんだかね」


「神崎先生!」


 逃げていく彼女を追いかけて田口は席を立つ。それを見送って保住は口元を緩める。


 田口銀太という男と出会えて、保住の人生は変わった。彼と出会う前までの自分は生きる屍だったのかもしれない。それくらいの話だ。田口と神崎を見つめていると、ふとカウンターの中に立っている桜と視線が合った。保住は気恥ずかしい気持ちになって頭を下げる。


「今日はありがとうございました」


 桜は「ふ」と軽く笑った。


「いいじゃん。こういうの。好きだよ」


「そうですか」


「もっと素直になったほうがいいよ。人の気持ちってさ。言葉にしないとわからないものだ。大事な人なら、なおさらだよ」


「——そうですね。そうだと思います」


 桜は桃色のカクテルを差し出した。


「ですから」


「あんたにお似合いさ。また遊びにきなよ。銀太と二人でね」


「——わかりました」


 桜は手元にあったグラスを掲げる。保住は桃色のカクテルが揺れるグラスを持ち上げると、それに軽く当てた。


 4月からは言葉通りの茨道が始まる。だが、ちっとも悪い気にはならない。むしろ、心は踊っていた。



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