第5話 置いてきぼりの不安


 保住はふと目を開けた。外はまだ薄暗い。枕元に置いてあるスマートフォンを手に取ると、目覚ましアラームが鳴るまで十数分あった。


 目覚ましが鳴る前に目が覚めるなんてことは、ほぼない。珍しいことだった。それだけ眠りが浅かった、ということだ。


 昨晩。田口は「寄るところがある」と言って、先に職場から姿を消したが、帰宅をしたのは深夜を回っていた。田口が帰ってくるのを待っていたはずだったのに。いつの間にか眠ってしまったのだろうか。


 田口が帰ってきた気配と共に鼻をかすめたのはアルコールの匂い。田口の交友関係は狭い。飲みに行くとしたら、同期の仲間くらいの話だ。それならそうと、事前に要件を言うはずだ。


 子どもではないのだ。いちいち尋ねたり、とがめたりするのもおかしいと思う反面、どうしても気になって気になって仕方がないようだ。こうして目が覚めるということは、気になっているという証拠。


 なんだか気分が晴れないまま、寝ぐせだらけの頭をかいてリビングに顔を出すと、珍しく田口が起き出して朝食の準備をしていた。


「また、雪でも降りそうだな」


「そんなこと言わないでくださいよ。おはようございます」


「おはよう」


 届いている新聞を片手にソファに座ると、田口がいそいそとやってきた。


「今日は、残業なしにしてもらえませんか」


「え? 残業は自分の裁量でやれよ」


「違いますよ。保住さんです」


「おれ?」


 保住は目をぱちぱちと瞬かせた。


「そうです。今日の夜は仕事なしにして欲しいんです」


「そう? なにかあったか?」


「大ありですよ」


 自分とは正反対にご機嫌な田口。今度はなにが始まるというのか。なんだか心が晴れないおかげで、田口の上機嫌に付き合う元気もないらしい。特に問いただす気にもなれずに、そのまま返事をした。


「わかったよ。定時で上がればいいのだろう」


「よかった。そうしてください」


 腑に落ちない気持ちのまま、保住は立ち上がって顔を洗いに向かった。



***



 今日は定時上がり。そう思っているときに限って面倒な電話が入るものだ。終業5分前。内線の対応をしていた十文字が「係長、電話ですよ」と声を上げた。


 ——終業5分前に電話を寄越す非常識野郎は誰だ?


 保住が受話器を持ち上げると、向こうからは能天気な吉岡の声が聞こえてきた。


「お疲れ様! あのねー、悪いんだけど、おれの部屋に来られる?」


「今からですか?」


「そうそう。そんなに時間取らせないから」


「明日ではいけませんか?」


「ごめんねー。忙しいのはわかっているんだけど……。ちょっと来年度の件で話したいことがあってね。今日中なんだよね」


 保住は田口を見た。彼は気が気ではないという顔をしていた。今朝、残業なしの約束をしたのに破ることになるなんて。しかしいくらなんでも財務部長の命令をきかないわけにもいかない。大きくため息を吐く。


「手短にしていただけますか」


「もちろんだよ! じゃあ、すぐに来てくれる?」


「承知しました」


 保住は受話器を置いて田口を見た。


「すまない。吉岡部長からの呼び出しだ。至急らしい」


 それに答えたのは渡辺。


「もう仕事終わりの時間じゃないですか。なんでしょうか?」


「わかりませんけど、とりあえず行ってきます。みなさんは、時間になったら帰っていてくださいね。残業はなしで」


 申し訳のない気持ちいっぱいで田口を見ると、彼は「待っています」と言う顔。なんだか嬉しい気持ちも覚えながら、事務室を後にした。


 廊下に出ると携帯が鳴る。胸ポケットから取り出して見てみると田口からのメールだった。


『待っています。時間気にせずに』


「すまないな」


 ——ともかく早めに用件を終わらせる。


 階段を駆け下りて、一階財務部長室に足を向けた。年度末でどこもてんてこ舞い。怒声が響いている部署もある。これこそ役所の年度末。そんなことを考えながら、古びた扉をノックした。


「保住ですが」


「入って!」


 明るい声色は、仕事の件ではない気がしてならない。顔を出すと案の定、吉岡は仕事とは関係のなさそうな袋を持って待っていた。




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