第12章 家政夫と嫉妬と
第1話 女性作曲家
オペラの上演は3月31日に予定されていた。年度末に大きな事業を入れ込むスケジュールは、四月が年度代わりの市役所に取ったら、無謀なことだった。
しかし、このオペラ事業は突然降って湧いたような話で、全てにおいて強行に事を推し進めなければならない。これは澤井の教育委員会事務局長最後の功績になるからだ。
そのため、なかなか事は思うようには進まなかった。昨年度から依頼をしている楽曲が仕上がらないのだ。曲がなければ、出演者たちの練習にも支障が出る。
「先日、先生のところにお邪魔してきましたが、まだ序曲する仕上がっていませんでした」
「え! 序曲って最初の曲ですよね? それすら仕上がっていないって。大丈夫なんですか」
谷川が唖然とした顔をした。渡辺は腕組みをした。
「仕事が早い事で有名な先生だ。取り掛かってしまえはあっという間みたいなんだけど。テーマが決まらないとかで……」
10月になったばかりだが、出演者に楽譜を手渡す期限は今月末だ。これはかなり危機的状況だ、と田口は思った。
報告を受けた保住は考え込む仕草をした。職員が手伝える事はない。渡辺は毎日のように作曲家のところに通っているが、効果はないようだ。あやはり素人では、作曲家にやる気を出させたり、相談に乗ったりするのは難しいだろう。
「なにができるかわかりませんが、おれも顔を見に行ってみましょうか」
保住の言葉に、渡辺はほっとしたようだ。
「本当ですか? 助かります」
「明日、田口と市民合唱団長との打ち合わせがあるので、その帰りにでも寄ってみます」
「ありがとうございます」
「渡辺さんも立ち会ってくれますか」
「勿論です」
今回のオペラの作曲を依頼しているのは、
田口は音楽には詳しくないが、彼女の楽曲がCMで使われていることを矢部から聞き、すごく驚いた。そんなすごい作曲家が市内に住んでいたなんて、知らなかったからだ。
自分で仕事をするならなんとでもできるが、人に仕事をお願いするということは、とても難しいものだ。
みんなは仕事に戻るが、どことなしか緊張の面持ちだ。誰しもが「間に合うだろうか」と不安に苛まれているようだった。
***
翌日。市民合唱団との打ち合わせでは、やはり楽譜を早くよこせという内容だった。彼らはプロではない。それ相応の時間が必要なのだ。
「全部揃っている必要はありませんよ。できたところからで結構です」
中年男性の団長は渋い顔をして頭を下げた。
「早急にしないと。不満が出るな」
神崎の自宅に向かう車中、保住はため息を吐いた。彼がこんな弱った顔を見せるのは初めてで意外だった。流石の保住でも、神崎を思うようには動かせないのかも知れない。
「局長の進退問題ですから。失敗は許されませんね」
ある意味嫌味。保住は笑った。
「お前でもそんなことを言うのか? 笑えるな」
「別に局長のことは気にしていません。けれど失敗はしたくないじゃないですか。仕事です」
「その通りだな」
神崎の自宅は、駅近くの繁華街にある。田口は渡辺に指定された有料駐車場に車を入れると、そこに渡辺が待っていた。
「お待たせしました。すみません。市民合唱団も不満だらけでした」
「でしょうね。早く楽譜が欲しいですもんね」
「できあがっているところから、もらっていきますか」
「できあがっていればいいんですけど」
渡辺がインターホンを鳴らすと、可愛らしい声が聞こえる。
「神崎先生。渡辺です」
「渡辺さん? 待ってね。今開けるわ」
しばらくすると、マンションの大きな自動ドアが開く。渡辺に案内されて、二人は東側のエレベーターに乗った。彼女の部屋は15階だ。
田口のマンションとは比べ物にならないくらい高級物件だ。エレベーターが到着して、三人は神崎の部屋の前に立つ。再び渡辺がチャイムを鳴らすと、「どうぞ!」と声が聞こえた。
渡辺は慣れた手つきでドアノブを引くが、ふと「驚かないでくださいね」と言った。どう言う意味なのだろうか、と考えていたが、それもすぐに理解した。神崎の部屋は、足の踏み場もないくらい、物で覆い尽くされていたからだ。
「ごめんね。歩く場所なくて」
奥の部屋から、先ほどの可愛らしい声が聞こえる。置いてあるのは、日用品や化粧品、服……それから、保管しておける食品類など。
「先生、今日は係長も一緒です」
渡辺は物をかき分けて中に入った。保住と田口もそれに続く。神崎は、梅沢が誇る山々が一望できる眺めの良いリビングを作業場にしていた。
十畳以上あるであろう広々としたリビングの真ん中にグランドピアノと、複数のキーボードが置いてある。その中に彼女は物に埋まっていた。
頭のてっぺんで髪を丸め、赤縁の眼鏡をずり下げて振り向いた神崎は、保住と田口を見ると笑顔を見せる。
「あら! 係長さん。お久しぶりですね」
「神崎先生。いつもお世話になっております」
「やだやだ。いい男に笑顔向けられると創作意欲出ちゃう!」
「すみませんね。いい男じゃなくて」
渡辺は苦笑いだ。
「渡辺さんは、いい人って感じだもんね」
彼女は冗談を言うが、すぐにため息を吐く。
「ごめんね~。なんか、いいインスピレーションが湧かなくてさ。行き詰ってんの」
「そうですか。なにかを生み出す仕事は孤独ですからね。気分転換でもされてはいかがですか」
保住は頷く。
「そーだけど。私は外で作るより、ここが安心するんだよねー。あーあ。でも、それでできませんでしたってわけにはいかないしね~」
「先生は行き詰った時はどうされるんです?」
「う~ん……男遊び? かな?」
渡辺はぎょっとしたように目を見開く。田口も目を瞬かせた。しかし保住は苦笑いをするしかなかった。
「そうですか」
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