第12話 名前で呼ぶのか

 触れたくて触れたのに、自分の中の自信の無さが声を上げた。


 ——バカか、そんなことをしてなにになる?


 触れてどうするのだ? と問うてくるのだ。


 ——そうだ。触れてどうする? なにがしたいのだ? 自分は。お前の欲求を満たすだけの度胸もないくせに!


 田口の大きな手は行き場を失い、保住の頬をそっと伝った。その間、保住はじっとしていた。彼の真意を図るかの如く、じっと黙っていた。


 田口を真っ直ぐに見据える瞳は熱を帯びているように見受けられて、余計に動悸が加速した。田口にとったら、ものすごく長い時間なのかもしれないが、ほんの数秒の出来事だったのだろう。


「……田口?」


 掠れたような保住の声に、はっと我に返った。


 ——やってしまった。


 言い訳なんて立たない。「触れたかった」なんて、唐突で変態すぎる。そう判断した彼は、猛烈に下手くそな嘘を吐いた。


「は、すみません。保住さん、ゴミ付いてますよ」


 田口は慌てて手を引っ込めて誤魔化した。アルコールのおかげなのか、保住は田口の言葉に疑問を抱いている様子は見受けられなかった。


 少し細められた瞳に見据えられると、余計に視線が外せない。一人でドギマギしている田口の心中など知る由もない保住は、急にスイッチが入ったかのように、ムッとした顔をして田口の肩を人差し指で突いた。


「お前は——人の話を聞け! 話を逸らそうとしたな」


「すみません。わかっています。わかりましたから」


 話の途中なのに、と保住は不満げな表情をしていた。


 ——ああ、やっぱり好き。おれは保住さんが好きだ。怒った顔も可愛すぎる。


 保住は怒っているというのに、田口の表情は緩みっぱなし。保住は馬鹿にされていると思ったのか、さらに怒り出した。


「馬鹿にしているな。せっかく、話しているのに」


「違います。保住さんって可愛いことを言うのだなと思って」


 「可愛い」呼ばわりをされた保住は、今度は違う意味で顔を赤くした。


「お、おい! よくそんな恥ずかしい事が言えるな!!」


「だって、本当のことじゃないですか」


「来るんじゃなかった!」


「待ってくださいよ」


 立ち上がる保住の腕を思わず摑まえる。


 ——待って。


 田口が強引に引き戻した反動で、細身の保住は容易にバランスを崩した。田口は思わず彼を抱えて体を反転させた。このまま倒れたのでは、保住が自分の下敷きになると判断したからだ。


 二人は縺れ合う。なんとか体勢を逆転させた瞬間。田口の背中を衝撃が襲った。田口は腕の中にいる保住を確認してほっと胸を撫でおろした。


 まさか上司の上に倒れるわけにはいかないし、なによりこの体格差だ。自分が覆いかぶさったら潰れてしまうかもしれない。


「……すみません」


「イタタタ……」


「大丈夫ですか?」


 自分の胸の上で、顔をしかめる保住との距離は近い。掴んでいた彼の肩は思ったよりも細くて折れてしまいそうだった。


「お前な……」


 彼は文句タラタラだ。


「すみません」


 田口は口では謝罪をするが、腕の中に収まっている保住の感触に感じ入った。


 ——温かい。だけど。


「保住さん」


「え?」


「本気で、身体鍛えたほうがいいみたいですよ」


「うるさいな」


「このままでは、そのうち骨折するのでは……」


「田口は小姑みたいだ。それに」


「なんでしょう?」


「名前で呼ぶのか」


「え?」


 田口は瞬きをしてから初めて気がついた。


 ——いつから?


 顔が熱くなった。


 ——なんてこと。


 人に対する敬意を忘れたことがないのに。


「あ、あの……。失礼いたしました。係長。なんてことだ。おれは……。上司を名前で呼ぶなんて。こんなこと、したことないのに……」


 頭を抱える。しかし、保住は上から田口の顔を覗き込んで満面の笑みを浮かべていた。


「別にいいではないか」


「そんな。失礼なことできません」


「そうか? おれはいい。係長なんて堅苦しいこと言われていたくない」


 保住の笑みは大変嬉しそうに見える。


 ——そうか。嫌じゃない? なら……。


「でしたら。職場ではないところでは、よいのでしょうか? お名前でお呼びしても」


「そんなことに許可はいらないだろう? おれなんて、大して年齢も違わないお前を呼び捨てだ。大変失礼な話ではないか」


 彼はそう言うと、はっと表情を変える。


「というか、いつまでも掴むな。体が起こせない」


 ずっとこのまま、くっついていられたらいいのに。そう願うのはいけないことなのだろうか。田口は保住をぎゅっと抱きしめた。


 しかし彼はからだを起こすことに四苦八苦してきるようだ。保住は一気に飲み干したビールのおかげで、かなり酔いが回ってしまっているようだ。田口が抱きしめていることにもよく気がついていない。


「おかしいな。思ったよりも酔いが回るのが早い」と言った。


「お手伝いしますよ」


 田口は彼の肩を掴まえてから、そっとからだを起こす。名残惜しい気持ちを押し殺し、保住を床に下ろすと、彼の温もりが消えた。触れていたい。ずっと感じていたい。そうは思っても、この幸せな時間は続かない。


「すまないな。こんなところまで甘えるのか」


「いいではないですか。嬉しいです」


 彼は自分に対して、少しは心を動かしてくれているのか。


 ——嬉しい。


 保住は自分のことをどう思っているのだろうかと疑問になった。友人か。部下か。それは彼にしかわからない。けれどそれでもなお、少しでも自分のことを気にかけてくれているのなら嬉しいと思った。


 田口はテーブルに置き去りになっていたビニール袋に手を伸ばし、ビールを取り出した。


「今日は飲みましょうか。飲み会のやり直しです。保住さん」


 名を呼ぶと、彼は嬉しそうに目を細める。まるで猫みたいだと思った。


 ——保住さんにとって、おれの存在はなんであるかはわからない。けれど。おれは。おれはあなたが好きです。そばにいます。あなたのために、おれは全てを捧げましょう。


 田口は、そう心に誓っていた。










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