第2話 蒸し風呂の悲劇




 気分が乗らない。沈んだ気持ちで出勤すると、他のメンバーたちもすっかり軽装になっていた。


「いやあ、クールビズなんかクソ喰らえだね。全然涼しくないもんね」


 矢部は魔女っ子マジョリーヌのうちわでパタパタとするばかり。


「渡辺さーん。お願いだからクーラー下げましょうよ」


「だめだめ。施設管理課に怒られるぞ。鬼の局長が乗り込んでくるぞ。っつかさ。お前、暑苦しいんだよ! もう少し離れてくれ」


 渡辺は朝からイラついているようだった。矢部はムッとして言い返す。


「離れてって。この肉厚ですからね! ああそうですか。悪かったですね」


「まあまあ。お二人とも。喧嘩はよしてくださいよ。朝から暑苦しいです」


「クソ野郎! 骸骨だからって涼しげにしちゃってさ」


 今度は谷川がムッとする番だ。


「矢部さん! 八つ当たりはいい加減にしてくださいよ」


 三者三様に怒り出した様子を眺めながら、田口はため息を吐いた。喧嘩の仲裁をする気持ちにもならない。クールビズの格好で気持ちが下がっている上に、この暑さ。


 まだ始業前だと言うのに、事務所内の気温は二十五度を超えていた。


 すると、元気な声が響く。はったとして顔を上げると、保住が笑みを浮かべて「おはようございます」と言った。彼は自席に座った。


 クールビズが適応されてから、終始この調子だ。余程ネクタイが嫌いなのだろう。ネクタイがある時だって、ほぼクールビズみたいな男だ。


 揉めていた一団のことなんて無視。いや気がついていないのだろう。保住は上機嫌だった。まだまだ言い足りない一同だが、保住の清々しい表情に笑うしかなくなり、諍いは治る。


「渡辺さん。昨日の企画書返します。矢部さん、今日の午後は市民展の打ち合わせ。おれも一緒に行きます。それから谷川さん、昨日の件、課長に打診済みです。進めてください」


 みんなが仕事をしたく無いモードだと言うのに、保住はさっさと指示を出す。


「それから、田口。お前は……今日は何も無いな。電話当番、しっかりな!」


「は、はい……」


「では今日も一日中、頑張りましょう」


 保住の声と共に、始業のベルが鳴り響いた。長い1日が始まった。


 庁内の気温は施設管理課が決める。クーラーの設定温度は20度になっているものの、2階は特に暑い。ジリジリと焼き尽くすような太陽で熱せられた建物は、そう易々と冷えるものではないからだ。


「暑い、暑い」


 渡辺は無意識に「暑い」と言う。朝よりもボタンを一つ外した。


「本当に暑いですね……」


 さすがの田口も手を止めた。必死にパソコンに向かっても、頭の中は「暑い」の二言しか思い浮かばない。

 矢部はすでに戦意を失い、ひたすらうちわで自分を扇ぐことに専念している。谷川は、比較的痩せているので暑さには強いようだが、それでも汗を拭いてばかり。集中力が欠如しているのが見て取れた。


「暑い……」


 朝から食欲もないくらいの暑さ。どんなことでも、我慢できる精神力を持っている田口ですら、仕事に向き合う気力が持てない。売店で買って来た水をほおばる。


 ——今日は何本目だ?


 午後になって、二本は飲んだのだろうか。自分の企画も大詰めで、こんなことをしている場合ではないし、新しい企画書の提出期限も迫っている。時間がないのに、まだ初稿があげられていない。みんなが集中力切れで仕事にならない中。保住だけが、下を向いて黙々と書類を見ている状況だった。


「係長ってすごいですね。文句ひとつ言わずにやってますけど」


 普段はそんな話題を自分から振ることない田口だが、つい言葉に出る。仕事をしたくない気持ちがそうさせているのだろう。


「文句ひとつも言わない」


 谷口は復唱した。


「え?」


「文句ひとつも?」


 矢部も同じ。田口を除いた三人は、ぱっと顔を上げてお互い「しまった」という顔をした。


「やばい」


「係長の面倒をみるの忘れていた」


「渡辺さん……」


 田口には意味がわからない。瞬きをしていると、谷川につつかれた。


「売店行って水買ってこい」


「了解です」


 そう言って立ち上がったのと同時くらいに、渡辺が保住に声をかけた。


「係長、あの、水分とらないと……」


 彼が触れた瞬間。黙々と仕事をしていたはずの保住が、机に崩れ落ちた。


「係長!?」


「係長ー!!」


 部屋を出ていこうとした田口は、慌てて駆け戻る。


「昼飯食べているの見た奴?!」


 渡辺の言葉に、一同は首を横に振った。今日は大人しいと思ったら。


「係長……」


 そばに駆け寄ると、保住は赤い顔をして息を荒くしていた。


「おれ、病院に……」


「どうした?」


 課長の佐久間が駆け寄って来ると同時に、文化課の扉が豪快に開く。


「うるさい、なにを騒いでいる」


「局長」


 ——怒られる?


 田口はとっさにそう思ったが、澤井は保住を見つけると、さっさと歩み寄ってきて彼を抱え上げた。


「局長」


「熱中症だ。馬鹿者。いつも言っているだろうが。自己管理くらいせんか」


 保住はかなり朦朧としているらしい。声の主である澤井を見上げようとしているのだろうか。保住の睫毛まつげ痙攣けいれんしていた。


「すみません……」


 そう聞こえただろうか。田口はだだ呆然として立ち尽くすだけ。


「局長、あの」


 手が出せなかった。どうしたらいいのかわからなくて、じっとその場に立ち尽くすだけ。


「おれが連れていく。佐久間、後はお前に任せる」


「了解しました」


 澤井がさっさと事務所から姿を消すのを見送って、不安げな一同に向かい、佐久間が声を上げた。


「ほらほら。仕事、仕事。保住ほうちゃんの分まで頑張るよ~」


 ざわざわしているフロアは少しずつ落ち着つきを取り戻した。


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