第8話 上司としての器



 ハモンドオルガン奏者と、女性のヴォーカルが古き良き音楽を奏でる。それを聞いている子供からお年寄りまでの市民は、ニコニコして身体を揺らすイメージが。田口には見えた。


「誰のためのものか」


 保住の声は、まるで夢現のように聞こえてくる。田口は夢と現実の狭間で答えた。


「市民の……星野一郎を好きな人や、まだ知らない人たちのためです」


 田口はゆるゆると現実に引き戻された。古びた会議室が見え、そして目の前に保住が見えた。


 いつもの自分だ。自分にはまだまだ経験しなければならないことがあると確信した。


「少しは見えるか」


「見えます。イメージとして理解しました。今まで物事をイメージとして捉えるという方法が自分にはなかったので、少し戸惑っていますけど……」


「やれるか?」


「書きます」


 イメージがつけば、後はそれを文章におこすだけだった。田口は頷き立ち上がった。


「夕方までに書き直します」


「期待している」


 資料をかき集めて、田口は静かに会議室を出ていった。


 ——まだやれる。おれにだってできるはずだ……!



***



 田口が出ていくのを見送ってから、保住は椅子に持たれた。


「疲れた……」


 彼は埃臭い室内を見渡してからため息を吐いた。周囲からは何事にも動じない、肝の座った新人だと思われていることは知っている。しかし、その実、保住はそう神経が図太いわけではない。


 たくさん傷つくし、心痛めることも多いのだ。


 田口は学ばなければならないことがたくさんある。しかしそれは、自分にも言えることだった。


 今まで前線部隊で戦ってきた保住は、なに一つ苦労することがなかった。彼の能力を思う存分に活かせたからだ。その結果、その管理者としての能力を買われたから、ここにある。


 しかし実務とはまた別の話だった。係長というものは、ずいぶん特殊な立ち位置だった。新しいことの連続で、苦労をしているのは確か。人を育てる難しさ。係長としての立ち位置、振る舞いについては、課長の佐久間が色々教えてくれる。


 佐久間には感謝しかない。こんな若輩者の係長なんて、鼻につくはずなのに、彼もまた、保住を育ててくれているのだ。


 佐久間の優しさ、期待……色々な気持ちがわからからこそ、田口にも伝えたいことがあるのかもしれない。


 ——殻を破った時のあいつの目。曇りのない、まっすぐな瞳。あれは、おれにはないものだ。あれは、田口自身が持つ可能性。


 そんなことを考えて。じっとしていると、扉が開いた。


「サボっているな」


 ドス黒い重低音に、苦笑いをして顔を上げる。


 ——よく部下の動きを見ているものだ。


 保住のところで一悶着があった事を把握しているのだろう。扉を隔てている部屋にいる癖に。部下の動向には目を光らせている嫌な奴だと、保住は思った。


「少しぐらい勘弁してくださいよ。澤井さん」


保住の言葉に澤井は、ニコリともせずに口を歪ませた。


「局長だ」


「すみません。局長。……で、なんです?」


「なんです? じゃない」


 澤井は煙たそうに言う。


「後期の演奏会企画を新人にやらせているそうだな」


「試行錯誤中ですよ」


「締め切りギリギリだ。お遊びみたいなことやっているな。お前がやれ」


「遊びかどうかは、締め切りに決めてくださいよ」


「大きな口を叩くものだ。このざまで」


「こんなことは日常茶飯事じゃありませんか」


 保住は肩を竦めて立ち上がる。休む暇も与えてもらえないらしい。立ち上がってパイプ椅子を戻した。


「しばしお前には、きっちりとした教育をしていなかったな」


「勘弁してくださいよ。十分ご指導いただいています」


「六時に東口だ」


「仕事が——それこそ、後期の企画書が夕方にできあがるのですが」


「明日でいい」


「話が矛盾していますけど……」


 澤井に一瞥をくれられると、さすがの保住でも減らず口は叩けないようだ。言葉を切ってから、「承知しました」と答える。


「よろしい」


 澤井が出て行くのを見送って、ますます大きくため息だ。


「サラリーマンなんて、辞めてやろうか……」


 澤井との付き合いは入庁してからずっとだ。


 最初の部署で、彼は課長の椅子に座っていた。入庁時から保住はこんな調子。自分の能力が高いだけに、好き勝手なことを言い放ち、上司の言うことはあまり聞かないという始末。

 

 しまいには、係長に食って掛かって連日の大ゲンカだった。課長である澤井の目に留まらないはずがなかった。


 事あるごとに呼び出されては、説教を食らう毎日だったのだ。澤井が先に異動となったが、その時に呼び出されて釘を刺されたことも覚えている。


『貴様は市役所にとったら爆弾だ。好き勝手なことをして組織を脅かす存在になりえる。おれが在任中は、お前のことはよく見させてもらう。それがおれの責任だ』


 彼はそう言った。面倒で深くは追及しなかったけれど、なぜ澤井がそこまで自分の行動に責任をもたなくてはいけないのだろうかと疑問だ——。


 そう思っていた時に、こうして再び彼の元に配属させられた。これは、人事に澤井が手を回したのではないかと思わずにはいられない。二千人以上いる職員同士で、上司と部下になるのは、そう何度もあることではない。


 確かに、片方が偉くなればなるほど、部署は集約されてくるので、またこの人の部下になった、なんてことはあるのかもしれないが。入庁して八年で二度もということは珍しいことでもある。 


「気が進まないが」


 あの時の意味深な言葉の真意も知りたい。


「今日こそは吐かせてみせるぞ」


 今晩の澤井との晩餐を好機と捉えることで、気持ちを上げようと努力した。



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