第5話 閻魔大王、現る
田口が教育委員会文化課振興係に配属になって一か月が経った。
この部署は、文化系の施設の運営管理や、イベントの開催などを扱う。
文化系イベントと簡単にくくることもできるが、その実、音楽と美術という特殊な案件ばかり。どちらも
それなのに、その分野の企画立案や、予算どりをしなければならないのだ。正直、業務内容には不安しかない。
焦る気持ちを持て余しながら、この一か月は雑用のような仕事をこなす日々だった。
「田口、外勤」
ある日の午後。資料の整理をしていると、保住に声をかけられた。田口は手を止めてから、すぐに腰を上げる。
「どちらに?」
外勤の多い職場話だ。渡辺と矢部は不在だ。残っていた谷川はパソコンを打つ手を止めた。
「記念館に行ってきます」
「ああ、顔合わせですね。いってらっしゃい」
記念館。田口の頭の中に、一つの施設が浮かんだ。書類に度々登場する「星野一郎記念館」のことだろう。保住は谷川に留守番をするように指示をした。
***
廊下に出ると、教育委員事務局長の澤井と出くわす。田口たちの上司。平の自分が彼に出会うのは、異動してきてから二度目だ。
彼は大柄でがっちりした体躯を持っている。田口たちよりも随分と年上であるはずだが、からだは引き締まり、スーツの上からでも鍛えていることが伺える。
堂々たる体つきに似合う
彼は田口たちとは廊下を挟んで向かい側の個室で仕事をしていた。だから余計に、姿を見かけることは少なかったのだ。
「保住」
重低音の少し嗄れた声が保住を呼ぶ。彼は知らんぷりを決め込むつもりだったようだが、軽く溜息を吐いてから視線を澤井へと向けた。
「なんでしょう?」
「外勤か」
「ええ。なにか問題でも?」
澤井は長身だ。そのおかげで足も長いのだろう。間合いを詰めてくるのが早い。ぐんっと目の前に立たれると、大きな壁みたいで威圧感を覚えた。同じくらいの身長の田口ですらそう感じるのに、保住は臆することなく、面倒だと言わんばかりに視線を逸らした。
「例の企画。全く音沙汰がないのだが」
「詰めている段階です」
「そんなことは、おれがやってやる。早く出せ」
「ご冗談を。本当にお持ちしたら、ゴミ箱行きでしょう」
「拗ねるな。ちゃんと見てやる」
ちらっと澤井を見た保住は、また溜息。そして肩を竦めた。
「承知しました。明日、お持ちいたします」
「今日だ」
「帰りは、定時を過ぎますよ」
「何時でも構わないぞ」
澤井はそう言うと、踵を返して自室に消えた。
「ち、面倒だな」
保住は心底、嫌そうな顔を見せる。いつもは
「課長飛ばしで企画書を見るというのですか」
——そんなこと、聞いたことがない。しかも、局長が係長に直接指示? ありえない。
田口の疑問をよそに、保住は歩き出しながら答えた。
「いつものことだ」
「いつもって……。そうなんですか」
「あの人のやり方。おれは好きじゃない」
——あの人?
なんだか棘のある言い方に聞こえた。田口が不可解な表情をしていると、言いたいことをくみ取ったのか、保住は口を開いた。
「あいつの部下になるのは、二度目だ。——全く好かん!」
「二度目——ですか」
「そうだ。入庁して初めての部署で一緒だった。澤井は課長だったが」
田口は首を傾げた。
「課長と新人では、あまり接点がなさそうですが……」
——よほど嫌われるようなことがあったのだろうか?
「おれは見ての通りの人間だからな。根に持たれるような事をしたのかどうかはわからないが、それでもあまりにしつこい嫌がらせばかりだ。悪いな。おれの部下になったばかりに、澤井には、なにかと嫌な思いをさせられるかも知れない」
保住は申し訳なさそうに顔をしかめた。しかし、そんなことは問題ない。
——上司からの嫌がらせなんて、いつものことだ。
田口は首を横に振った。
「上司の嫌がらせなんて日常茶飯事ではないですか。別に直属の上司を恨んだりしませんよ」
「そうか? お前は、今まで随分な部署にいたようだな」
「おれも悪いのだと思います。火のないところには煙は立ちません」
公用車に乗り込んでから、保住は笑った。
「田口が火の元になるようなキャラには見えないが」
「いえ。こんな無愛想な男、扱いにくいと思われる人が多いでしょう」
「無愛想かな……」
保住の呟きは良く聞き取れないが、エンジンの音がして、車が走り出したので、特に聞き返すことはなかった。
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