会心の反撃

あざらし

驚きの倍率

 まるで錬金術だ、と思った。

 バレンタインというやつはとんでもない。たった二十円ぽっちの駄菓子が、銀座千疋屋の高級キャンディになって返ってきたのだから。


 茜さす教室で目をすがめながら、わたしは手の中の重みを信じられない気持ちで見つめた。そのお上品な包装紙、シンボルマークには、自分では手を出そうと思ったこともない。せいぜい親宛てに届くギフトで見たことがあるくらいだ。

「きみさあ、何やってんの?」目の前の友人の顔を伺うのに、つい伏し目がちになってしまう。「これめちゃめちゃお高いやつじゃん」

 彼はきょとんとした顔になって、なんてこともないように言う。

「何ってお返し。くれただろ、一ヶ月前に。バレンタインのチョコレート」

「いや、あげたけどもさ」

 わたしはたしかに一ヶ月前の今日、彼にチョコレートをあげた。恋人の記念日に誰からも何ももらえなかったと嘆く彼を見かねたところ、たまたま制服のポッケにおあつらえ向きのブツが入っていたのだ。

 しかしそれはお昼を買った購買部で、お釣り調整のために会計に加えたかなりしょぼいやつ。

 わたしは頭を掻いた。

「……わたしがあのとき何あげたか、ちょっと言ってみ?」

「何って、チョコレート」

「どんな」

「チロルチョコだったな。なんか変な味の」

「期間限定めんたいチーズ味だっけ」

 エンターテインメント性にパラメータを寄せた、というか、ほとんどジョークグッズみたいな珍しい商品だった。飢餓状態の学生が入り浸る購買部でさえ売れ残っていたおそろしさたるや。レジ横のスペースを陣取る異様な存在感に、わたしは好奇心を大いにくすぐられた。

「ちなみにお味はどうだったの」

「わりと食えるレベルではあったぞ」

 とはいえまあ、おいしくはなかっただろう。もとより美味なわけあるまいと踏んでいたし、誰かにくれてやるつもりだった。だから巧く処理できたと思っていたのに、いったいどこで何を間違えばこうなるんだ。

「きみねえ。チロルチョコっていくらで買えるか知ってる?」

「ひとつぶ二十円くらいだろう」

「だよ。……これいくらだろ?」

 携帯端末で千疋屋のウェブページを開く。貰い物の値段を調べるなんてお行儀が悪いったらないけど、気になって気になって仕方なかった。商品カタログを指先でめくりめくり、辿り着いたキャンディの値段に絶句する。

「いやだって、あれだろ。ホワイトデーは三倍返し以上ってのが相場なんだろ?」

「三倍で充分なんだよ。ガリガリ君とかでよかったよ。誰が百倍以上のお返し求めるってのよ?」

「いやいや、まださみいのにアイスはないだろ」

 もののたとえだ、ばかやろう。こっちの気も知らずに彼はけたけた笑い声を上げた。


 夕方はいくらか傾き始めて、校舎はわりに静かだった。グラウンドの声やブラスバンドの遠鳴りも、窓ガラスにぶつかっては砕け、コンクリートの壁に吸い込まれてしまう。彼の大げさな笑い声ばかりが耳に残る。品がいいとは言えない彼のあけっぴろげな笑い方が、わたしは結構好きだった。

 くだらないことが好きなわたしと、笑いの沸点が低い彼。たぶん相性はよかったのだと思う。同性同士ならまず間違いなく白けるような冗談でも、彼はばかみたいに笑ってくれた。つまり居心地がよかったのだ。遠慮をする必要は感じなくて、だからわたしは、その日にだってふざけることができた。

 出会ってから数年――友だちになるまではあっという間で、でもお互いに、それ以上踏み込もうとはしてこなかった。

 たぶん、わたしの顔には困惑が浮かんでいたのだろう。彼は軽くにやつきながら小首を傾げた。

「さてはあんま喜んでねえな?」

 わたしはぎくりと肩を震わせた。

 いや、もちろん嬉しいのだ。お菓子の中でもキャンディは好きなほうだし、嬉しいっちゃ嬉しい。ただこれを手放しに喜べるほどわたしの肝は太ってないし、なによりまだ気持ちの整理に手こずっている。

「喜んでは、いるんだけども……」

「素直に受け取れない?」

「そりゃ、ほら、だってねえ」

「あんがい気にしいだよな、お前。知ってたけど」

 知ってたんならもうちょっと妥当なものよこしなさいよ。だいたいそんなような気持ちを視線に込めてぶつかってやると、彼はへたくそな口笛を吹いてそっぽを向いた。

「まあ、取っとけよ。どうしても気になるってんなら、来年ちゃんとしたやつくれりゃいいじゃん」

 彼は話題をたたみにかかり、帰り支度を済ませた鞄を肩に提げる。わたしは受け取った紙袋を丁寧に折りたたんで自分の鞄にしまい、返事をしようとして、少し迷った。

 迷ってから、冗談を言う。

「……来年まで覚えてられるかなあ」

「嘘だろ。お前それは記憶力が貧弱過ぎるぜ」

「いや、そんなもんでしょ。きみだって、去年のバレンタインにわたしが何あげたか覚えてないでしょう?」

「……去年もらってねえよ。覚えてるわ。誰からももらえなかったの超覚えてるわ」

「わあ、悲しいね」

「うるせえよ!」


 彼は電車を使って通学していて、わたしは駅から近い住宅地に住んでいる。どちらかに特別な用事があるとき以外は駅まで一緒に帰るのがたいていで、今日もそうだった。

 当たり障りのない雑談を転がしながら駅のそばまで来ると、彼はおもむろに「大事に食べろよな」と言った。

 わたしは、飴はついがりがり噛んでしまうタイプだ。最後までちゃんと味わえたことはほとんどない。このプレゼントだって、意識しなければあっという間に噛み砕いていただろう。

 だけどそれを正直に言うことはできなくて、私は小さく頷いた。

「ありがと」

 気の利いた冗談なんて、もう言えやしなかった。


 家に帰り着いたわたしはお母さんにただいまと言うのもおざなりに、自分の部屋に直行した。入るやすぐさま扉を閉め切る。ぶはあ、と勢いよく吐いたため息は、ここ数年で最大級だったかもしれない。人との会話でこうまで疲れたことって、たぶんない。

 動悸がうるさい。いまになって熱を持ち始めた耳をきゅっと握りしめる。

 帰り道、いつもどおりに話せていた自信はあんまりなかった。口はカラカラ、頭はぐるぐる、動悸は激しくって、メタルバンドのドラムみたいだった。会話の発言権がこっちに寄越されるたびに苦心した。どんな話題にどう応えたか、ほとんど思い出せないくらい。

 鞄のジッパーをあけると出てくる紙袋に、教室のやりとりが思い浮かぶ。

 ――ホワイトデーの過剰なお返しとか、キャンディの意味とか、遠回しな来年の催促とか。わたしが色気に乏しいのは自分でわかってるし、向こうがどんなつもりかなんて正確にはわからないんだけど、こんなことされたらさすがに邪推のひとつもしてしまう。

 頭をからっぽにして軽口を叩く友人関係が、その関係を進めようと思わないくらい、わたしにとっては魅力的だったのに。

 ドレッサーの鏡に映るわたしの顔は、夕焼け色に染まっている。

 それなのに遮光カーテンはちゃんと窓を覆っていて、なんとなく、ちくしょうと思った。

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