第18話 虚空に捧げるうた

 ベッドの片隅。貞彦は今日も、澄香の側にいる。


 穏やかすぎる呼吸。まるで変わらない表情。


 いつも向けてくれた笑顔が、一切見られない。


 嬉しそうな笑顔、裏に不満を抱えていそうな笑顔、なんだか得意げな笑顔。


 笑顔であることが、澄香の中での処世術だったのだろう。


 そんな笑顔の中に、万華鏡のような感情を見つけた時、とても嬉しかった。


 もう一度、笑って欲しかった。


 また近くで。何か一言言いながら。安心を連れてくる声で。


 澄香はいつか、目覚めるかもしれない。


 そのいつかというのは、いつになったら訪れるんだろうか。


 それは今すぐにかもしれないし、明日なのかもしれない。


 お日様が昇って降りて、幾千もの追いかけっこを繰り返した挙句の出来事になるのかもしれない。


 その貞彦はふと、また不安に襲われる。


 澄香との思い出は、確かに燻っている。


 回想にもたらされたぬくもりで、愛しさを忘れないでいられている。


 一体いつまで覚えていられるのだろうか。


 永遠の愛を誓うといった物語を思い出す。


 永遠という言葉はとても美しい。


 けれど、生きるのにはとても長すぎる。


 永遠の愛を繋ぎとめるものはきっと、思い出と義務感でしかない。


 更新されない思い出に、いつまですがっていられるだろうか。


 貞彦は、澄香の額に、顔を近づけた。


 今すぐ、キスしてしまいたい。強引にでも、奪い去ってしまいたい。


 お姫様の眠りを覚ますのは、王子様のキスと決まっているのだから。


 愛しさと、欲情がせりあがる。


 眠り姫の唇を奪い、姫は悠久の眠りから帰還する。


 誰もが認めるであろう、ハッピーエンド。


 貞彦は、熱に浮かされたように、唇を近づけた。


 そして、触れる寸前で、思い留まった。


「くそっ」


 貞彦は、悔しさを口にした。


 澄香にキスをすることができなかった、臆病さを思ってではない。


 眠っていることを良いことに、自分の欲望をぶつけようとしてしまった、弱さについて嘆いた。


 王子様のキスは美しいものかもしれない。


 けれど、動けない相手の唇を奪うという行為は、アンフェアだと思った。


「澄香先輩」


 貞彦は澄香を呼んだ。


 それでも、澄香は動かない。


 いつも通り、反応がない。


 もしかしたらこの世にいないのは、実は自分の方なんじゃないだろうか。


 そんなバカげた考えが浮かぶくらいに、澄香は何も反応しない。


「澄香先輩……起きてくれよ。まだまだいっぱい、話したいことがあるんだ。澄香先輩はまだ、アランの『幸福論』を読んでないんだろ?」


 空気を押すように、感触がない。


 その虚しさを払うように、貞彦は続ける。


「あれは素晴らしい本だよ。澄香先輩もきっと、気に入ると思うんだ。いつもは教わってばかりだったけどさ、今度は俺が教えるよ」


 投げかける思いは、空ぶってばかり。


 そうだとしても、貞彦は続ける。


「澄香先輩へのプレゼント、まだ渡してなかったな。これでもけっこう、悩んだんだ。それに、去年は祝えなかった澄香先輩の誕生日も祝おうよ」


 なぜだろう。涙がこみ上げる。


 まだ澄香先輩は、生きているというのに。


 なぜ悲しいのかなんて、まるで理解できない。


 感情を誤魔化すかのように、貞彦は続ける。


「乙女座ってことはさ、澄香先輩の誕生日は多分、体育祭をやってた時くらいなんだろ。あの時は余裕がなかったけど、今度は大丈夫だ。恥ずかしがっても、無理やりお祝いするからな」


 貞彦は、無理やりに笑みを作る。


 澄香ならきっと、こうすると思った。


 どんな時でも、笑顔を絶やさなかった。


 笑顔の効能って不思議だ。


 嬉しいから笑顔になるんじゃなくて、笑顔になるから嬉しくなる。


 澄香が笑っていたから、きっと乗り越えてこられた。


 楽しく過ごせていた。


 今度は自分自身で笑う。


 笑顔で日々を、過ごして見せる。


 そしたらきっと、澄香もまた、笑ってくれるのかもしれないから。


「そうだ、最近のことを報告してなかったな。黒田たちはなんだか、三人で仲良くなってた。恋のライバルだったと思えば、今度はあの二人にとっての兄貴分になってるみたいなんだ」


 言葉に詰まる。


 けれど、吐き出すように言葉を紡ぐ。


「風紀委員は相変わらずだけど、なんと竜也とまりあ先輩がちょっといい感じなんだ。あのまりあ先輩が誰かと付き合うなんて、すごいことが起きるかもな」


 嗚咽がまじる。


 こらえて飲み込み、それでもしゃべる。


「光樹とネコは……まあ爆発すればいいよ。瑛理とサヤとカナミと、この前遊びに行ったんだけど……瑛理だけ爆発しろ」


 視界が滲む。


 澄香の姿が不鮮明となる。


 何をしゃべってるのか、自分でもよくわからない。


 それでも、話し続ける。


「『りあみゅー』のメンツは、みんな元気だよ。なんだかノエルだけじゃなくて、紫兎まで二人を見る目が怪しくて……やっぱこれ以上はいいや」


 声がでなくなってくる。


 かすれて、響きが弱々しくしおれていく。


 絞り出すように、貞彦は話す。


「吉沢くんも元気だ。なんか物陰で見かけることが多くて怖いけど……安梨だって、時々秋明と遊んでいるみたいなんだ。物語の感想とか聞かされて、なんか好き勝手言ってるらしい。笑っちゃうだろ?」


 項垂れる。


 地面しか見えなくなり、雫が零れる。


 どれだけ言葉を尽くしても、想いをぶつけても。


 それでも、澄香は目覚めない。


 こんなにも近くにいるのに、心は触れ合わない。


 ガラス越しのキスのような、悲しすぎる隔たり。


 満たされない乾き。


 音の伝わらない虚空に、歌をぶつけるような虚しさで、貞彦は言った。


「みんなもきっと、会いたがってるよ。だから――目を覚ましてくれよ、澄香先輩」


 切実な祈りを捧げても、今日も澄香は目覚めなかった。

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