第16話 最高の人生とは

 澄香は、ずっと眠り続けているらしい。


 摂取した毒は、とっくに抜けきっている。


 動いていないことで、筋肉量の低下は著しく見られる。


 しかし、現在では命に別状はないらしい。


 発見が早かったこともあり、神経へのダメージや脳自体への影響も少なかったそうだ。


 自律神経系、甲状腺機能も、取れるデータを見る限りは問題ないらしい。


 脳波の乱れも、血流の乱れもない。


 不随意運動も司る、錐体外路にも異常は認められない。


 つまり、概ね健康な状態であるようだった。


 にも関わらず、澄香は眠り続けている。


 まるで生きることを拒否しているかのように、ずっと。


「今日は寒いな、澄香先輩」


 返事がないことはわかりつつ、貞彦は澄香に話しかける。


 返事どころか、何の反応も返ってはこない。


 ほんの少しでも、なんらかの動きを期待したが、無駄に終わってしまったようだった。


 それでもめげずに、貞彦は澄香の側に居続けた。


 時に窓を眺め、冬風に吹かれる落ち葉を見る。


 木が枯れてしまった時に、命が散ってしまうのだろうと言った、病気の少女がいたという。


 そんな感傷に浸ってしまう。


 寂しさから逃れようと、窓を開ける。


 海に乱反射して、キラキラが灯っては消える。


 潮風に肌が痛む。けれど、この痛みが教えてくれる。生きていることを。


 カモメの声。楽しいのか、悲しいのかもわからない。いや、本当はそんなことは、きっとどうでもいいことだ。


 いつも見ていたような、いつか見たような光景。


 そう感じるのも、積み重ねた時間があるからだ。


 そしてこれからも、積み重ねていけるものが、あるはずだ。


 一人ではなく、みんなと。


 その中には当然、澄香も一緒にいて欲しい。


「澄香先輩……いつまでも寝ていると、楽しいことも過ぎ去っちゃうぞ」


 からかうように、貞彦は言った。


 言葉はただ、振動を止めて消えゆく。


 意味として残らずに、ただただ無へと帰る。


 澄香はやはり、目覚めなかった。


 貞彦は、一人でいる時よりも、孤独を感じていた。


 おかしいな。一人じゃないはずなのに。


 本当は、わかっていた。


 今の心は、温かさを知ってしまった。


 好きな人と想いを通じる、喜びを知ってしまった。


 冷えた心はもう、同じ冷たさには耐えられない。


 ぬくもりを知らなかったあの頃には、戻れない。


「澄香先輩」


 いけないとは思いつつ、貞彦は澄香の手を握った。


 冷たくなっているが、血は通っている。


 華奢でしなやかな、女性の手だ。


 考え事をする時には、しきりに親指を回している。


 コミカルでかわいらしい、とても好きな手。


 両手で握りながら、祈るように、額の前に持っていった。


 澄香から前に教わった、幸福についての教え。


 念仏でも、祈りでも、規則正しく過ごすことでも、ポジティブに活動することでも、なんだってやってやる。


 だから、澄香先輩を目覚めさせてください。


 そう願うのも、今日で何度目かはわからない。


 その願いが叶えられたことは、一度としてない。


 わかっていたとしても、願うしかなかった。


 貞彦の決死の想いもむなしく、澄香は今日も眠り続けていた。






 貞彦は今日も、澄香の側に居続けた。


 聞き逃しそうなほどの、かすかな呼吸音。耳をすませながら、貞彦は本を読んでいた。


 アランの『幸福論』。澄香が唯一、読んでいないと言っていた本だった。


 詩的な言い回しも多く、意味を吟味することに時間がかかるため、ゆっくりと読んでいた。


 美味しい料理をゆっくりと咀嚼するように、一文字一文字の、響きの羅列をなぞる。


『幸福はいつもわれわれの手から逃げていくといわれている。


 人からもらう幸福については、それは正しい。


 人からもらう幸福などは、まったく存在しないからだ。


 しかし、自分で作る幸福というのはけっしてだまさない。


 ――真の音楽家とは、音楽を楽しむ者のことであり、真の政治家とは政治を楽しむ者のことである、と』


 貞彦は、以前澄香が『論語』から引用していた言葉を思い出していた。


 道を極めるために最も必要なことは、出来事そのものを楽しむこと。


 幸福論で言われていることと、似通っているように感じた。


 貞彦は、ハッとしていた。


 澄香が見つけた、最高の人生についての答え。


 それは『最高に幸せな瞬間に、人生を終えること』だ。


 貞彦はまだ、納得が出来ていなかった。


 人生に意味なんてない。


 それはきっと、正しい。


 生まれた瞬間に『久田貞彦が生まれた意味とは』なんてことを、ヒゲを伸ばしたいかにもな神様にでも教わったりなど、していないからだ。


 そしてそのことが、救いとなる。


 果たすべき使命も、やらなければいけないことも、人生にはない。縛りや果たせなかったことの苦しみなど、全て幻想と化す。そのことはきっと、とてつもない救いとなるだろう。


 その理屈は、貞彦にも理解ができた。


 幸福はこの瞬間にしかない。


 それはきっと、正しい。生きている瞬間は今なのだから。


 恒久的な幸せなど、ありはしない。


 おそらくはきっと、正しい。


 幸せが続くことなどはありえない。


 幸せがまるでボーナスのようなものだとしたら、貰えた時は幸せだろう。


 けれど、毎日ボーナスを貰えるとしたのなら、それはきっと、ただのお小遣いと変わらない。


 特別な幸福も、日常に格下げされる。


 幸福も続けば、それはもう幸福ではなくなってしまう。


 そう考えた時、澄香の言うことは、やはり正しいように思えてならない。


 澄香が見出した幸福論は、いずれも間違ったことを言っていないように感じる。


 それではなぜ、納得がいかないのだろうか。


 その答えに、貞彦はようやく辿り着いていた。


「最高の人生ってきっと、人生そのものを楽しむこと。終わりを望むことなんかじゃないんだ」


 貞彦は一人、呟いた。


 そして、澄香を見つめた。


 穏やかな表情。


 もう亡くなっていると言われても、すんなりと信じてしまえそうだった。


 貞彦は、澄香の頭を撫でていた。


 サラサラと、愛しさを零さないように。


「澄香先輩――見つけたよ。俺の幸福論」


 この発見を、共有したいと思った。


 正しいだったり、間違っているだったり、くだらないことで議論をしたかった。


 言葉を交わして、心を通わせたかった。


 まだ、貞彦の願いは叶わない。


「ん? おかしくないか」


 貞彦はまた、出来事に関する違和感を感じ取っていた。


 澄香の父親が自ら命を絶ったという、悲痛な出来事。


 残されていた言葉。傍らには幸福論。


『幸福を求めることで、幸福を見つけることはできないといった宣告がなされる。私たちの求めるところに、幸福などありはしない』


 とても後ろ向きに感じる言葉だが、違和感はまさに、その内容にあった。


 実際にアランの『幸福論』に触れて、貞彦はその知恵としての考え方や、ポジティブな心持を知った。


 人生というものを楽しく考え、ちょっとした不幸や行き過ぎた考えについて、簡単な処方箋を渡すかの如き語り口。


 そんなアランが、このようなネガティブな結論を出したのだろうか。


 幸福について真剣に考えた結果、命を閉ざした澄香の父親。


 彼は一体、何を読み取ったのだろう。


 答えが見つかるのかはわからない。


 ただ、貞彦は知るべきだと思った。


「澄香先輩……先輩が知らないことも、俺がきっと見つけるから」


 貞彦は宣言し『幸福論』を読み進めた。

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