第16話 『矛盾』という存在

 貞彦の確信に、カラスは納得を得た。


 今まで渦巻いていた違和感が、一つにまとまったような収束感。


「そうだな、貞彦。お前の言う通りだ。白須美さんが、俺や実根畑と一緒の学年のはずはないんだ」


「峰子先輩も、そのことを言いたかったんだと思う」


「俺はな、自分自身に違和感があったんだ。俺は基本、同い年か年下は呼び捨てで呼ぶんだ。色々な意図があってな。でもな、白須美さんだけは自然と白須美さんって呼んでるんだ。自分でもおかしいと思っていたんだ」


「峰子先輩が、澄香先輩の前だといじられまくるのも、なんだか威厳がなくなるのも、無意識の内に気づいていたからなのかもしれないな」


「そうだな。これではっきりした。白須美さんは、俺にとっても先輩にあたるんだ」


 峰子、来夢、カラス。


 現在の三年生組は、どこか澄香に対して一定の距離を置いた関係であるように感じる部分があった。


 それもそのはずだろう。


 白須美澄香は、現在の三年生にとっての、先輩にあたるのだから。


「なんだか不思議なことばかり起こるなって思ってたんだ。けどまさか、澄香先輩まで……」


 貞彦は言葉を失った。


 ずっと信じて歩いてきた道が、崩れ落ちたかのような喪失感を味わっていた。


 ネコの夢。サヤの存在。安梨の世界。


 風紀委員が起こした出来事や、紫兎の歌の効果についてまでも、不思議な力が働いたのではないかと、疑いすら抱ける。


 安寧で平凡だと思っていた世界が、蜃気楼のようにもやがかったような感覚。


「安梨との出来事の時に、澄香先輩は言っていたんだ。この世界には、どんなことだって起こり得るんだって」


 そして、だからこそ人生は、とっても楽しいんだと。


「今まででも、信じられないことは一杯起こったよ。けれど、これはなんだか、信じたくない」


 貞彦は、弱気に呟いた。


 カラスはまるで、タバコでも吸うようにポッキーを咥えた。


「昔、白須美さんに言われたことを思いだしたよ。なあ貞彦、最も多くのことを語れる言葉って、なんだと思う?」


「それは、言語についての話なのか?」


「どちらかというと、哲学的だな」


「ウィトゲンシュタインとか、マルクス・ガブリエルの話は、澄香先輩から聞いた。思考の限界が、世界の限界だって。そして、世界以外の全ての物は、意味の場において存在するって」


「まさにその、ウィトゲンシュタインの話だ。『思考の限界が、世界の限界だ』って論じる前に、当然悩んでいたわけだ。世界の限界規定の邪魔をする、決定的な言葉の存在にな」


「世界の限定を邪魔する、言葉?」


「その名は『矛盾』だよ」


 カラスは、記憶を辿るように、斜め上を向いていた。


「久田貞彦は、白須美澄香と同一人物である。あるいは、今日は久田貞彦であり、明日は唐島カラスである」


「どっちの言葉も、真実じゃないな。矛盾してる」


「そうだろ? ということは、矛盾という言葉は厄介だ」


「意味の通らないことや、真実じゃないことが厄介なのか?」


「厄介だろ。世界の限界を決めるのに、矛盾を認めちまったら、単純になんでもありになる」


「……そうか。矛盾って意味が通らないことだと思っていたけど、考え方によっては、なんでもありなことになるのか」


「ウィトゲンシュタインも悩んでいたらしいぜ。『なんてことだ。矛盾こそが、最も多くを語る命題ではないか』って苦悩を露にしていたって教えてもらったな」


「『矛盾』って話題をカラス先輩が出した意味は、澄香先輩のことと関係あるからなのか?」


「勘が良くて助かるぜ。貞彦たちの体験は、まさに矛盾の塊じゃないか」


 物理法則に則らない状態。


 実体がないはずの精神の分離。


 物語の中から、生まれた現実の存在。


 そして、曖昧な記憶と、それでも確かに存在する、澄香の存在。


 貞彦は何も言えなくなっていた。


 カラスは、貞彦の様子を見かねたのか、ため息をついた。


「現実と矛盾するからって、それがダメなことだって言っているわけじゃないんだ」


「でも」


「とりあえず俺が思うことはだな、矛盾があったとしても、この世に存在していてもいいんだってことだよ。本当はいないものだからって、消え失せなきゃいけないってことはないと思うぜ」


 カラスの慰めを聞いて、貞彦はわずかに顔を上げた。


 澄香はこの世にいてはいけない存在かもしれない。


 無意識のうちに、そう思い込んでしまっていた。


 貞彦は、すがるように聞く。


「それじゃあ、澄香先輩はいったい、何者なんだ?」


 カラス、ポッキーを再び咥えた。


 ポリポリとかじり終えてから、ようやく口を開いた。


「わからん」

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