第6話 一つだけの花
素直とデートしてから一日経った。
結局、澄香がなんで貞彦と素直のデートを促したのかはわからなかった。
決して楽しくなかったわけではなく、素直の新たな一面を知ることもできて、少しだけ仲良くなれた気もする。
尾行だと子供っぽくはしゃぐ姿、叱るようにとがった瞳、パフェを食べている時にバタバタと動くせわしない手足。
組まれた腕から感じるぬくもり。過去を慈しむ憂いを帯びた表情。どきどき。
恋という恋をしたことがなかった貞彦にとって、お互いの歩幅、何かをしてあげたいという思い、感じた気持ち、何もかもが新鮮だった。
恋をする気持ち。楽しいっていう気持ち。
澄香が知って欲しかったことは、こういった気持ちなんだろうか。
考えているうちに昼休みとなり、貞彦は一人で図書室に向かった。
澄香の思惑はわからないし、考えても答えは浮かんでこない。
ヒントとして考えられるのは、おそらく『星の王子さま』という小説にある気がする。
貞彦は人並み以上に読書をする。流行りの小説や、気になった新書などをたまに読んだりする。
何か特定のジャンルに傾倒するわけではなく、その場その場で興味の湧いたものを読む、というスタイルだった。
『星の王子さま』という物語について、名前は聞いたことがあったのだが、まだ読んだことはなかったため、一度読んでおくことにしたのだ。
図書室には、数人程度しかいなかったので、スムーズに目的のものを見つけることができた。
図書室の一端、本棚が妨げとなって、目につきにくい端っこの席に、貞彦は座り、『星の王子さま』を読み始めた。
王子さまは、小さな星に住んでいる。
一日に何回でも夕陽が見られるくらい、ほんの数歩歩けば昼と夜が一周してしまう。それくらい小さな星の、王子さまだ。
王子さまは自分の身の回りのことをした後に、星の手入れもする。
火山から出た
ある時、王子さまはとても美しい花と出会う。
王子様は初めて花を見て、その美しさに心を奪われる。
しかし、花はとてもわがままだった。
トラがくるかもしれないとか、寒いからなんとかしてくれとか、王子さまにわがままを繰り返した。王子さまが嫌な言葉を言うと、咳をして自分がか弱い存在であるとアピールをするのだ。
王子さまはいつしか、花の言うことが信用できなくなってきた。
真っ赤に輝く花びらの美しさ、弱々しくヒツジにも効果がない四本の棘、近づいた時にふんわりとしたかぐわしい香り。
好きなところはいっぱいあるのに、言葉ではうまく付き合っていくことができなくなっていた。
王子さまは、自分の星を出ていくことにした。
花も王子さまを愛していたのだが、プライドの高さから王子さまを引き留めることはしなかった。
『さようなら』
王子さまは、こうして自分の星を旅だったのだった。
「ふふふ」
本に集中していた時、穏やかな笑い声で意識を現実に戻された。
蠱惑的で、見ているこっちも釣られてしまう。そんな心底楽しそうな声色。
貞彦は振り向いた。
「澄香先輩。どうして図書室に?」
笑い声の主は、やはり澄香だった。
口元に手をやり、貞彦を見つめていた。
「何か本を読みたいと思って図書室に来たのですが、貞彦さんを見かけたので、つい話しかけてしまいました」
「澄香先輩は読書家だもんな」
「それほどでもありませんよ。でも、本を読むということはとても好きですね。本を書いた人物の体験、思想、考えなどを追体験できます。他者の人生というものに、触れることができて、とても楽しいですね」
貞彦以上に、澄香は
歴史、哲学、小説からライトノベルまで、気になった本は片っ端から読んでいる様子だった。
「貞彦さんは、何の本を読んでいるのですか?」
澄香が言っていたことが気になって、『星の王子さま』を読んでいることが知られることは、なんとなく恥ずかしかった。
かといって、隠す理由も特に見つからなくて、貞彦は観念して表紙を澄香に見せた。
表紙を見た瞬間、澄香は嬉しそうにほころんだ。
「『星の王子さま』を読んでいるのですか。何回も読み直しているくらい、私も大好きな物語です。しかし、どうして今読み始めたのですか?」
澄香の質問に対して、うまくごまかせる言葉は見つからなかった。
貞彦は素直な気持ちで答えることにした。
「澄香先輩が黒田に聞いていたじゃないか。『星の王子さま』を読んだことがあるかって。だからちょっと、気になってさ」
貞彦の言葉を聞いて、澄香は相変わらず嬉しそうだった。
「貞彦さんのそういうところは、好ましく思いますよ」
「そういうとこって、どういうとこだよ」
「わずかなヒントから答えを探そうと努力をする。そして必死に考える。そんなひたむきで、一生懸命なところ、ですよ」
飾らないストレートな言葉に、貞彦は少し恥ずかしくなった。
非難めいた言葉は使わず、褒める時はまっすぐ褒める。
この人には敵わないな、貞彦はそう思った。
「どの辺りまで読みましたか?」
「王子さまが自分の星を旅だったところだ」
「なるほど。あそこの場面も、とても印象的ですね」
澄香は一瞬目を閉じた。
物語を反芻し、抱いた感情を言葉へと変換している様子だった。
「貞彦さんは、王子さまの好きだったに花に対して、どのような印象を受けましたか?」
貞彦は、花が言っていたことについてを思い返していた。
風よけが欲しいだの、お腹がすいたから早くご飯が欲しいだの、自分の立場がまずくなるとわざと咳をしだすだの、とてもわがままであまり良い印象をもつことはできなかった。
「わがままでめんどくさい奴。本当は王子さまのことを愛しているのに、それをお別れになるまで言わなかったところが、更にめんどくさい」
「貞彦さんはとても正直で、純粋な心をお持ちなんですね」
褒められているのはわかっているのだが、なんだか子ども扱いされているようで、居心地が悪かった。
「それでは、想像してみてください。わがままを言わずに、大人しく言うことを聞く子供。わがまま放題で、嫌なことは嫌だったり、したいことをして欲しいという子供。どちらの方が手がかからないですか?」
「そりゃあ、大人しい方だろ」
貞彦は即答した。簡単すぎて、考える間でもなかった。
「ふふふ。それでは、質問を変えますね。前者の子と後者の子。どちらの子の方が、相手に対して心を開いていると思います?」
「それは……」
貞彦は少し考えた。
考えたけれど、初めから答えは決まっていた。
「多分だけど、後者のわがままな子供の方だろうな」
「それは、どうしてそう思うのですか?」
「大人しいことが悪いんじゃなくて、こんなことを言っていいんだろうかとか、言っても聞いてくれないんじゃないかみたいな、遠慮とかを感じる。でもわがままな方は、好きなことを言ってもいいんだ、あなたになんとかして欲しいんだっていう、甘えている感じがするんだ」
都合がいいことと、実際に良い関係を結べていることは違う。
貞彦は自分で言葉にすることによって、そのことに気づくことができた。
「別に大人しい方が心を開いていないとか、悪いとかそういうことではないのです。どのような表現の仕方であってもいいと思います。けれども、貞彦さんが言うように、わがままが言えるということは、相手に甘えたいから、ということが言えるかもしれません」
「そうかもしれない」
「甘えても大丈夫なんだ。わがままを言っても聞いてくれるんだ。それはきっと、お互いにしかない信頼関係の現れだと、そんな気がするのです」
わがままが言えるということは、裏を返せば、わがままを言っても良いんだと認識していることなんだ。
王子さまの花も、きっと誰にでもわがままを言うわけじゃないんだと、想像させられた。
水をあげてくれる。風から身を守るついたてを作ってくれる。うんざりとするほど話を聞いてくれる。
そんな王子さまだからこそ、花はきっととびきりいじわるで、わがままなのかもしれない。
「もう一度、一緒に読み返してみましょうか」
ふわっとした甘い芳香。肩にかかるわずかな重みとぬくもり。文庫本に添えられた、澄香の細く線の通った両腕。背中に感じる温かさとやわっこい感触。
気づいた時には、澄香に後ろから抱きしめられていた。
「ちょっ、澄香先輩! 何を……」
「こうすれば、二人で一緒に読めるじゃないですか」
それなら隣に座ればいいじゃないか。という言葉も出なかった。
体温が上昇して、頭が沸騰するようだった。
揺れる髪が首筋をくすぐる。言葉を乗せた吐息が、よくわからない感情を連れてくる。
肩にあごを乗せているようで、澄香の表情は貞彦には見えない。自分の顔も見えないけれど、どのようになっているかはわかる。
きっと、情けないくらいに真っ赤になっていることだろう。
『そうよ、わたし、あなたを愛してる』
澄香は、花のセリフを朗読した。
そんなことがないことは知りながらも、自分に向けられている言葉のようで、貞彦はドキドキしていた。
『知らなかったでしょう、あなた。わたしのせいね。どうでもいいけど。でも、あなたもわたしと同じくらい、ばかだった。幸せになってね……』
澄香はひとことを大切にするように、ゆっくりと抑揚をつけて読み上げた。
愛しているのに、うまくいかない悔しさ。
自分の気持ちを、素直に表現できないプライドの高さ。
相手に対して恨みと同時に、愛情も抱いている複雑さ。
様々な思いが流れてくる。二人のやり方は間違っていたかもしれない。もっとうまい関係があったのかもしれない。
後悔と諦念。
それでも、相手の幸せを願う愛情。
本当は、自分と相手とで、幸せになりたかったはずなのに。
それでも最後には、相手の幸せを願っていたんだ。
貞彦の瞳から、涙がこぼれ出した。
「泣いているのですか?」
澄香に泣き顔を見られたくなくて、貞彦は顔を伏せた。
「男の子ですものね。貞彦さんは恥じてしまうかもしれませんが、私はとても嬉しいのです」
澄香は、そっと貞彦の頭に手を添えた。
「王子さまの気持ち、花の気持ち。お互いの視点から見ると、どちらにも言い分があります。どちらも正しく、間違っているわけではないのに、うまくいかない。気持ちは、自分にとって最も大切なものだからこそ、うまくいかないものなのです」
貞彦はうつむきながら、頷いた。
「そんな人の気持ちを受け止められる。相手のことを考えて涙を流せる。自分以外の気持ちをわかってあげられることは、人と繋がるためにはとても大切なことだと、私は思います」
相手の気持ちを考えること。
貞彦は今、誰の気持ちについて考えなければいけないのかと、思いを巡らせた。
幼馴染と付き合うべきだという、黒田の気持ち。
付き合うことに不安のようなものを感じて、誓いを立てている太田の気持ち。
そして、幼馴染に助けられていたけれど、今は太田と付き合っている、大見の気持ち。
まだまだ知らなければいけなことはたくさんある。そう感じていた。
「人には自分だけの大切な花があるものだと思います。それを見つけるための旅路の一つを、恋なんて呼ぶのかもしれませんね」
恋というものは、貞彦にはまだよくわからない。
素直に対して感じたドキドキも、澄香に感じているドキドキも、恋と呼べるかはわからない。
名前なんてどうでもいいのかもしれないが、まだ確証はもてないし、もちたくもなかった。
ただ、少しだけ楽しい。
その気持ちだけで、今は十分だった。
「人生って――楽しいですね」
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