第149話 呪言
その夜、霧深い崖の底は、寝息で静まり返っていた。
月の光もあまり届かないワイバーンの巣にテントを張って、ハーミス一行は眠りについていた。飛竜に囲まれての睡眠は慣れない様子だったが、一度夢の世界に旅立ってしまうと、そこから先は誰も目覚めなかった。
ただし、それは人間と魔女の話。巣から舞い上がり、崖の端に座る彼女は別だ。
月の灯りを浴びながら、赤い尾を揺らし、ルビーは空を眺めていた。
憂いを含んだ目は、じっと星々が流れゆく様を捉えているだけだ。時折揺らす足は素足で、赤い鱗が生えそろった足裏を、誰にも見せることもない。
尤も、これもまた、人間が相手ならば、の話だ。
「――何か思い悩むところでもあるのですか、ドラゴンよ」
霧を破り、ゆっくりと飛んできた黄玉色のワイバーン、トパーズを除いては。
ルビーは自分よりも少し大きな体躯の飛竜が、隣に座り込むのを黙って見ていた。そして彼女が口を開くよりも先に、トパーズが彼女の思考を読み取った。
「どうして分かったのか、でしょうか。自分達の押しつけがましい盟約を、好機とばかりに快諾すれば疑いもするでしょう。逆も然り、仲間の考えが、普通は正しいはずです」
よくよく考えなくともおかしな話の流れを、当の本人が指摘する。
ルビーを見ただけで王と認め、伝承に狂信的な種族。彼が言う通り、ハーミス達のように疑うのが正解だろうし、こんなに都合よく物事が進むとも思えない。
「だったら……」
「我々ワイバーンは、ただ王に従うのみ。事情など鑑みはしません。この戦いで滅びようと、単なる定めの一つに過ぎないのです」
と言っても、王の提案への快諾、その理由は単にワイバーンの習性だ。
ならば、逆はどうだろうか。トパーズは俯いたルビーの顔を見て、言った。
「ですが、功を焦るような理由を胸のうちに留められないのであれば、ここで吐いていくと良いでしょう。私が聞きましょう、明日には忘れる程度にですが」
「……ありがとう、トパーズ」
黄玉色の飛竜に顔を向け、力なくはにかみながら、ルビーは話し始めた。
「ルビーね、ドラゴンだけど、皆の中じゃ一番何も出来ないんだ」
彼女の根幹にあったのは、自分の無力感だった。
「ほう、ドラゴンであるのに?」
「うん、ドラゴンだけど皆よりダメな子なの。クレアは困った時に頼れて、ハーミスの持ってるアイテムを誰よりも使いこなせるんだ。エルはいつでも落ち着いてて、魔法で敵をやっつけたり、仲間を助けたりしてくれるの」
多くのところで、多くの事態で、自分は迷惑をかけた。浅い考えと、無知のせいで。
「ハーミスは……凄いよ、もう全部が凄いの。ルビーを助けてくれて、エルフや獣人街を守って、でも誰よりも優しくて……」
獣人街での戦いを、時折ルビーは思い出す。
爆撃で敵を倒した。ニコを街まで運んだ。だが、そのいずれも、自分一人の力ではない。爆撃機としてくれたのはハーミスだし、ニコの輸送を指示したのはクレアとエルだ。その仕事だって、二人が守ってくれなければどうなったか。
「……皆は凄いのに、ルビーはただ飛ぶだけ。ただ壊すだけ。どうしたらいいんだろうって、自分にしかできないことって何だろうって、ずっと思ってた」
「普通の人には、飛ぶなどできまいでしょうに」
「エルは飛べるよ、魔女だから。ハーミスもきっと飛べる。何かを思い切り壊すのなら、三人とも簡単にできるんだ」
三人にはできないこと。ルビーだけができること。ずっと、ずっと望んでいた。
「――けど、今回は違うの! やっとルビーにしかできないことを見つけられて、皆に伝えられる! ルビーは、ルビーにもできるんだって、こんなことがって!」
そんな暗い悲しみを取り払う――仲間への恩返しを、今度こそできる機会が来たのだ。ルビーは逃すはずがなかったし、やや強引にもなるはずだ。
ここまで聞いて、全てを察したように、トパーズは深く頷いた。
「……強い願いと覚悟、王として相応しい。きっと皆を鼓舞するでしょう」
彼女に逆らいはしない。ワイバーンである以上、反抗は許されない。
だが、教えるべき事柄はある。年長者として、警告しなければならない事柄はある。
「ですが、強く願えば願うほど、失敗した時――手痛く、取り返しのつかない過ちとなった時、それは呪言となるのです。背に大きく、重く圧し掛かるのです。苦しみに転じ、逃れられない凶器にもなるでしょう」
予言者の如く、トパーズは語る。
「貴女に必要なのは誰にも持てない力ではなく、闇に心を蝕まれない意志です。いずれ気づくでしょう……私の下に貴女が来たのも、それを伝えるべく……」
ところが、そこまで言って、トパーズは口を噤むように閉じた。ルビーが首を傾げて、およそ理解しているようには見えなかったからだ。
「……やめておきましょう。明日は早い、おやすみなさい」
だから、彼は静かに羽ばたき、霧の中に消えていった。
「……? おやすみなさい、トパーズ」
ルビーは終ぞ、トパーズが伝えたかった何かに気付きはしなかった。
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