関係ひとつ

あざらし

僕らの関係

 外回りから帰ってきた営業の顔を見た時点で、もう嫌な予感はしていたのだ。

 彼は僕の席のそばまで来ると、まず天気の話題を口にした。今日はいい天気だったよ、益体のない話を繰り出しながら、にこやかに口角を上げている。それだけで予感はもはや確信めいたけど、僕はわずかな希望を胸に秘めながら相槌を打った。迂遠な言い回しで話の長い彼に、とっとと本題に入ってくれとは言えない。部署が違うとはいえ、先輩で、いちおう上司だ。

 当たり障りのない話題にひと通り手を付けたあと、彼はとうとう「新システムの開発についてなんだけど」と核心に触れた。

「前に納期の関係で却下した顧客の要求あるだろ? 演算処理のやつね。あれ、やっぱりどうしてもお願いしたいって、あちらさん食い下がるもんだからさ」

「まさか引き受けたとか言うんじゃないでしょうね?」

 僕の声はやたら刺々しいものになった。

 彼は僕から目線をそらして、それだけでもう答えはわかってしまった。営業を天職とする彼の口はたいへんに達者で、言い訳を並べさせると右に出るものがいない。「もういいです」と僕は言った。どれだけ不平不満を連ねたとして、受注したものはやり遂げられなければならない。時間を無駄にできる余裕はどうせないのだろう。

「……必要なことだけ教えてください」

「いや、ホント申し訳ない。納期はその分ちょっと遅らせてもらってるからね!」

 彼が残して行った概要を見て、僕はこみあがるため息を飲み下した。追加にかかる工数と延長した締め切りが釣り合っちゃいない。

 隣のデスクから、隠そうともしないため息が聞こえた。同じチームを組んでいる同僚は僕がエンジニアとしてこの会社に雇われたときからの同期で、関係性はまるで戦友のようだった。

「あたし、いつかあの男を手にかけるかもしれません」

 限りなく本心から出たと思われる冗談に、僕は苦笑しながらも小さくうなずいた。

「そのときは手伝いますよ」

「無茶振り食らうの何度めでしょうかね、もう」

「覚えてないですねえ。今回は珍しく優良な案件だと思ってたんですけど、いまになってこれだもの」

 PCモニタのすみでは少し前からカレンダーが師走に入って、日に日に新年のプレッシャーが強まっている。伸びた納期は年をまたいだけど、順調だった進捗から逆算しても余裕は到底ない。

 今日もすでに、定時は近づいている。

「今日からまた残業ですかね」

 僕が呟くと、彼女はおもむろに立ち上がった。彼女は僕よりふたつ年下だけど、その勇ましさといったらこの会社ではほかに類を見ない。早々と覚悟を決めたのだろう。迷いなく財布に手を伸ばし、続けて「なに食べたいですか」と僕に訊ねてきた。

「なんだかデートに誘われてるみたい」

「ただの買出し、です。……残業デートって、そんな色気のかけらもない」

 気の置けない軽口を交わして、僕は適当に腹に溜まるものをと頼んだ。

 彼女がフロアから出ていくのを見届けてから、僕は携帯端末のスリープモードを解除した。ブックマークからイルミネーションイベントのホームページを削除すると、残念な気持ちこそ芽生えたものの、一方で肩からは荷が降りた気分になって、僕はひとり苦く笑った。

 窓の外側には張りついた冬が軋んでいた。北風がずいぶん好き放題をしているようで、見下ろした街を行くミニチュアの徒歩はみな、童話のようにコートのすそを引っ張っている。

 僕が彼女に親しみを持つようになったのも、たしかこれくらい風の強い日だった。


 僕はけっこう人見知りで、彼女は基本的に無口だった。要するに二人そろって上司の指示に異論を挟むことが少ない人種だったせいか、定時に終われるわけがない量の作業を振られては、よく一緒に終電までの時間を共にしていた。

 その日も僕たちは残業をしていた。窓枠が時おり震える音と、冷却ファンの熱心な唸り声だけが煌々とした夜を充たしていた。呼吸をする風に紛れて沈黙を裂いたのがどちらからだったかは忘れてしまったけど、とにかく僕は彼女からカロリー飲料をもらって、お礼にと少しだけ彼女の作業を肩代わりした。

「お互い大変ですね」

 味気ない間食を空腹に落としながら僕が言うと、彼女は憮然とした様子でエンターキーを叩いた。

「残業代満額出なくなったらすぐ労組呼んでやりますよ」

「それは……できれば、思いとどまってほしいですね」

 引き止めると、彼女は凝りをほぐすように首を回した。

「会社の名前が大事ですか?」

「いや、そんなのはどうでもいいけど。もしあなたがクビにでもなったら、僕の負担が増えるじゃないですか。それだけは御免です」

 溜まった疲労や眠気のせいで、飾りっけのない本音が喉から滑り出た。あんまりあけすけな言い方をしたので、ともすれば不快にさせたかもしれないと言ったあとで思ったけど、彼女はむしろ相好を崩した。思えば、彼女の明朗な笑顔を見たのはそのときが初めてだったかもしれない。日頃の無口な様子から雰囲気を変える、人懐っこい笑い方だった。

「じゃあ、約束をしましょうか」

 僕たちふたりだけのフロアで、彼女はまるで内緒話をするように、声を潜めて言った。唐突に近づいた顔と顔。約束、と僕が反芻しかできないでいると、彼女はピースサインを作った。

「約束です。会社に噛み付くときは、ふたりがかりでやりましょう。それなら痛み分けでいいでしょ」

 僕は別に、給金に対してそれほどの頓着もなかった。ただなんとなく働いて、無理なく生きられるだけのお金があればそれでいい。残業代がきちんと付かなかったとしても、抗う意思なんてなかったと思う。

 なのに、彼女が提案した勇敢な約束は、どうしてか僕を自然に頷かせた。

 たぶんその夜から、僕にとって彼女はただの同僚ではなくなったのだと思う。


 社員の心を知ってか知らでか、経理部はいまに至るまで残業代を正確に計上し続けた。約束は、いまだ履行されていない。

 彼女はビニール袋をふたつ提げて戻ってくると、片方を僕に手渡した。

「ありがとうございます」

「いえ、ついでですから。適当に買ってきたので、お好きなものをどうぞ」

 袋には二人分のパンとジュースと、それから僕たちにふさわしく栄養ドリンクが二本入っていた。

「なんと新商品だそうです」ドリンクを指さして彼女が言った。「新しいものって、惹かれませんか」

「よくわかりますけど……」

 どす黒い細身のビンに貼られたラベルは妙に凶々しく、製造元を見ると国産ながら聞いたことのない企業名が記されている。

「大丈夫ですかこれ」

「そこは死なばもろとも、ということで」

 同じものを二人分買ってきたらしい。やはり気っ風が勇ましい。よく見ればパンも惣菜ものばかりで、ジュースはコーラとジンジャーエール。

 袋を小脇に置いて代金を手渡そうとすると、彼女は小銭入れを開いてこちらへ向けた。何も言わずにレシートの半額分よりいくらか多めに入れてみたのは、僕なりの感謝と見栄のしるしだった。

 自分の椅子に腰を下ろした彼女は、おもむろにデスクの上を片付け始めた。不要な書類を抽斗へ、資料のたぐいを机上の小棚へ突っ込むと、キーボードの横にスペースが空く。

 そういえば彼女は袋をもうひとつ持っていたな、と僕はふと思い出した。僕に渡した袋に二人分の夕食が入っていて、彼女が自分で持っていた方からは手のひらに乗るくらいの小さなツリーが出てきた。細やかなスワロフスキーで装飾されたそれを設置すると、彼女は満足げにうなずいた。

「きれいですね」

「いいでしょう。コンビニで売ってたんですよ」

 クリスマスか、と僕がつぶやくと、彼女もクリスマスですね、とささやいた。

「僕たちにありますか?」

「クリスマスは誰にだって等しく訪れますよ。受け取り方が違っているだけ」

 僕たちの抱えている案件がその日までに終わるかというと、まずそれは無理だ。無理になった、誰かのせいで。

 僕が彼女を誘う機会は失われてしまった。絢爛なイルミネーションを眺めたあと、ちょっといいレストランで舌つづみを打ち、それなりのシャンパンでグラスを鳴らす――なんて、ガラでもなかったのだろう、きっと、はじめから。もちろん、そもそも彼女が誘いに乗ってくれる確証だってなかった。

 クリスマスもイヴとやらも、おそらく僕たちはここにいて、おもちゃみたいなツリーを眺めながら、焼きそばパンやコロッケパンを晩餐に、ジャンクなドリンクで乾杯をするのだ。いまと同じ関係のままに。

 ――それはそれで悪くないと思ってしまうあたり、僕は相当やられている。

 ミニツリーをためつすがめつする彼女は、かすかに微笑んでいた。

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