雨天とミルククラウン  作・水彩度

少し曇った路面電車の窓の向こう。薄暗い雲のかたまりからとうとう雨が降り出したのを見て、はあ、と私は一つため息をついた。




社会人数年目の春。いや初夏。梅雨も始まるというこの時期。私はいつも通り路面電車で帰路についていた。会社の最寄から一つ手前のさびれた電停でのっても、今日は席に座ることはかなわなかった。デスクワークでパンパンにむくんだ足が痛み出すのを、頭のどこか遠くでぼんやりと感じながらつり革を力なく握っていると、数分とたたずに繁華街にある整備された電停で一度電車は止まった。むっとした車内の空気が一瞬逃げたかと思うと、どっとそこから人が流れ込んできた。ぬるっとした汗のにおいに、ツンとした整髪料のにおいが混じる。私は人の波に端へ端へと追いやられ、運転席のすぐ後ろ、車内広告板に左肩を預けるようにしてやっと自分の居場所を見つけたのだった。


電車内はいつのまにか歩くことすらかなわない程の混雑状態になっていた。相変わらず嫌になるほど人が多い。背の低い私はすっかり人ごみに埋もれてしまっていた。定時上がりの会社員と部活帰りの学生が混み合うこの時間帯はどうにも好きになれない。好きになれないが、この時間帯が一番都合がいいので避けられない。これで車でも持っていたら違うのだろうが、あいにく免許も車も持つタイミングを逃してしまっていた。


「次は新天街、新天街」


 日を浴びすぎて薄黄色く変色したつり革に体重を預けると、そのまま体が重く沈んでいくようだった。無性に疲れた。今日はまだ週半ばだというのに、明日が始まることをこれっぽっちも喜べそうになかった。体にまとわりつくけだるさのままに目線を下げると、目の前の座席に座った女性が簿記検定の本を熱心に読んでいるのが見えた。その姿に、ふっと数年前の私の姿が重なった。


 なんだかぼんやりと、今までの人生を過ごしてきてしまったようだった。


 めまぐるしい就活の波の中に数年前までは確かにいたというのに、それもなんだか随分と昔のことのようだった。学生時代に頑張ったこと、キャリアプラン、などを目に光をいれながら口にして、資格試験の本にかじりついていたはずだが、実際私はそれにどれだけ本気だったのだろうか。就活をするものだから、就職するものだから、という「なんとなく」の渦の中に私はうまく没入できていたのだろうか。


 本気という名のなんとなくのまま、私は第一志望という名のなんとなくの会社に入り、新社会人としての数年をなんとなく過ごしてしまっていた。


「次は陣中町、陣中町」


 お昼休みのときから怪しいと思っていたが、ぼんやりながめる窓の向こうではとうとう雨が降り始めていた。まだ夕方だというのに辺りはくすんだような暗さに包まれていた。ガードレールの向こうで急いで鞄から折りたたみ傘を取り出そうとするサラリーマンの姿が、ゆったりと右から左へ視界を流れていく。


 このあたりで視界に入るコンビニも、もうすぐ到着する次の電停の赤黒くさびた時刻表も、すっかり日常の一部になっていた。毎日毎日、コンビニのあとには少し待ち時間の長い信号があって、道向かいにある歯医者の隣の定食屋はいつだってシャッターが閉まっている。今の私のようだと、まわらない頭のどこかでじんわりと感じた。


ドラッグストアの外の陳列棚ではいつだってじゃがりこが山のようにつまれていて、ビルを三つ挟んだ先には年中のぼり旗がでている地方銀行があるのだ。少しも変わらない、その繰り返し。そしてそのどれもが私にとっては関係のないもので価値のないものだった。定食屋のシャッターが半年ぶりに開こうが、ドラッグストアの外に今度は制汗剤が積まれようが、私の心はちっとも動かないだろう。そしてその逆もそう。私の爪の先の色が変わったところで、髪が明るくなったところで、地方銀行は地方銀行のままだ。


「はぁ」


 私はまた一つため息をつく。今日はいつにもまして良いことがなかった。いやきっと、ほかの人からみたら取るに足らない出来事なのだろうけど。そのはずなんだけど。


 今日のグループミーティングで、私の発言の順番を飛ばされた。


 たったそれだけ。自分でも笑えてきちゃう。いやまあこれは日頃のモヤモヤがあふれ出てきてしまうきっかけにすぎないんだろうけど。いつものミーティングでいつも通り一人ずつ発言していく。順番だって決まってた。いつも、いつもの決まった順番。それで、飛ばされた。飛ばされて、何事もなかった。ここで私も「あ、私の番飛ばしてますよ」なんてにこやかに切り出せたら良かったのだろうけど、あいにくそんな人間ではなかった。なにか理由があるだけなんじゃないか、最後にまた当てられるんじゃないかとかうじうじ考えていたら、結局当てられずにミーティングは何事もなく終わってしまった。


 窓の外をまたふいと見る。幸い雨はそこまで強くはなさそうだった。傘を差した人が半分。もう半分は、頭の上に手をおきながら歩道を足早に歩いていた。傘の色はまちまちだ。透明、黒、赤、青、水玉。たまに背の低い黄色がビニール傘の隙間を縫うようにして走りさる。その中でも特に黒色は他の色に紛れて、元の色より一層くすんで見えた。花柄の傘や、チェックの傘が楽しげに揺れているのが嫌に目立っていた。


 その様子をみて、また頭の中をぐるぐると嫌な考えがめぐる。私の意見はそんなに重要視されていないのだろうか。まあ日頃から価値のある意見が言えていたかというと微妙だけど。今年度入った新入社員の方がよっぽど的を射た発言をしてる。大学でサークル長をしていたと言っていたか。そうか、私に足りないのは経験か? そうか。うん、そうか。私は所詮、少し待ち時間の長い信号で、道向かいの歯医者なのだろう。取るに足りないルーチン。ああそうかい。


「次は食場。食場です」


 その声にはっとして、慌ててポッケから定期入れをだす。タッチに少し手間取りながら私は電車を降りた。それに数人が続く。


 路面電車の電停とは厄介で、道路の真ん中にあるものだから、電車から降りられても一度信号を待たなければならない。暗く沈むような思考にまわりの薄暗さも相まって、鞄から傘を取り出すのすらもおっくうだった。


なにもかもおっくうだった。


雨脚の弱いのをいいことに、私はぼうっと横断歩道の前でたたずんでいた。




すると、ふと、気がつく。




勢いは弱いとはいえ、確かに雨が降っているというのに全く体がぬれる感触がない。頭にも、少しまくった腕にも、雨があたる気配は一向になかった。なにか上に、雨を遮るものがあっただろうかと、すっと視線を左上に向ける。




視界の先に、黒色の傘の先が見えた。




私はびっくりして、思わずごまかすように下を向いた。あれは確かに傘だったような? しかも私がきちんと収まるようにさされていた。体がぬれなかったのはそのおかげか。と、思うと同時に「それをさしている人がいる」ということに気がついて、私はびびっと体が固まってしまった。傘の差し方的に偶然ではない、意図的だ。いやでも何かの間違いかも知れない。お礼を言ったが良い? でも間違いだったら……




「~♪」




 そうまたうじうじ考えていると、青信号のメロディーが流れ出した。はっとして頭をあげると、視界の横から黒いスーツが足早に通り抜けていくのが見えた。


「あ……」


 しかしその姿も、すぐに色とりどりの傘に紛れて見えなくなってしまった。


 私はそのままぼんやりとその様子を見ていたが、信号が点滅し始めたのが見えて慌てて横断歩道をわたった。


 結局、あの人はなんだったのだろうか。雨の中、ぬれるのも気にせずぼうっと立つ私を見て、(おそらく「彼」は)傘を差してくれたのだろうか。自分が濡れるのも承知で? 私のために?




 こんな私のために?




 横断歩道をわたり終えた私は一度立ち止まる。そしてもう一回だけ向かい側の歩道の方を振り返った。相変わらずカラフルな傘たちだ。透明、赤、青、水玉、そして黒。どれも忙しなく、目の前の歩道を過ぎていく。私はくるりと向きを変えて、大股で家への道を歩き出した。少しだけ、足が軽くなったような気分だった。私は確かにここにいるのだと、自分自身に知らせるように、まわりに知らせるように一歩一歩踏みしめながら歩いた。なんだか久しぶりに、大学時代の仲良しグループの声が聞きたくなった。今何してるか聞いてやろう。一人一人全員に。もちろん私のことも話すんだ。そうしたらきっと、昔みたいに彼女らは「あんたらしいわ」って笑ってくれるのだ。


 雨はいつの間にかやんでいて、鞄にしまいっぱなしの黒色の折りたたみ傘はもう必要ないようだった。私は鞄から、折りたたみ傘ではなくて携帯をとりだす。一生懸命に履歴をたどって、懐かしい名前をなんとか見つけ出して、ひとつ深呼吸、そしてタップ。




「……あ、咲良? 元気してた? ちょっとみんなと通話したくなってさ、今あいてたらみんなでしゃべろうよ。聞いてよ今日さぁ……」

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