薄氷を履む  作・翅

「あたしはけいくんに、つめたい人になってほしいんだよ」


 恵くんの思う「つめたい」が、あたしにとっての救いだから。口のなかで喋って、あたしはそのまま目を瞑る。幼馴染でもあるセンセに寝顔を晒すことに、今更なんの抵抗もなかった。だから保健室のベッドに身を沈めるとき、あたしはこんなにも安らかなのかもしれない。無防備であることが、許されるような気がするから。

 それにあたし、死に場所くらいはじぶんで選びたいんだ。あたしがあたしのまま、譲れないものをきつく抱きしめたまま、もがいて、足掻いて、宙を掻いて死ぬことのできる場所。

 ふっと目頭が熱くなる。


「――恵くんには無理かな」

「ああ。つか、学校では先生って呼べよ、分かんなくなるから」

「境目ってヤツ? ほんとに繊細だなあ」


 おまえに言われたくねえよ、含み笑いを耳で感じなくても、あたしには空気でわかった。あるいは予感だろうか。センセは、恵くんはわらっていて、その口で、このあと狡いことを吐きだそうとしている。


「杏子。おまえは、とけないよ」


 ほらね。あーあ。ふたりきりの世界なんて我儘なことは言わないから、せめて、あたしたちだけの言語があればよかった。思いながら、逃げるように首を竦める。ささやかな衣擦れの音がする。「顔、隠したって分かるよ」センセがまだわらっていて、あたしは胸がざわついた。予感、ってヤツだ。あたしたちだけの共感覚みたいなものの存在が、じわじわと苦しい。襟の詰まりすぎているブラウスが、ゆるく、ゆるく首を絞めるような――そういう、纏わりつく苦しさだった。

 あたしはとけないよ、当たり前じゃん。でもそれを言葉にしてくれる大人はセンセしかいない。だから狡いんだ。


「でもやっぱり違う、センセ、春は絶望だってことじゃなくって」


 寒々しく澄んだ空気が、あの尖った眩しさが、おそろしい時間をかけて熱を持つ、理を。ほとんど原始的な感情で、その、温かすぎるなにかを拒みたいだけだ。あたしが、あたしの輪郭を保っておくために。それはどうしようもなく、絶望ではなかった。


「もういいから、寝ろ」

「あ。逃げたね」

「同じものを感じられるんだったら、言葉なんて無意味だろ」

 もう黙れって。不器用すぎる「おやすみ」をもらって、抗えなくなる。

「はあい。……おやすみ、」

 センセとも、恵くんとも言わないで口を噤んだ。眠りに落ちたあたしを静かに見下ろしている彼が、だれのつもりでその視線を携えているのか。あたしは決めつけたくなかったから。




 眠りは、あたしの深淵を覗く。それを自覚するのは、引き摺りこまれる瞬間ではなく、意識が浮遊しはじめる薄ぼんやりとした光のなかでだった。



 あたしが、じぶんの飼い殺せていない獣に――嗜虐性というものに気がついたのは、十四になったばかりの冬のことだ。あらゆる罪が潜み、許しを待ちわびていた、つめたい冬の朝。あの朝はとても鋭利で、氷みたいに冷え切った床を踏みしめた裸足も、結露で水浸しになった窓に寄せた手のひらも、指先から融けていく錯覚を覚えるほどだった。

 外界には、際限なく積雪が広がっていた。銀世界など望めないはずの、この町で。あたしは今でも、あんなにもお誂え(・・・)向き(・・)だった外界を思って、首を傾げてしまいたくなる。


「ね、雪だよ、テディ」

 つめたさを教えるように、濡れた手を伸ばした。

「真っ白。見える?」

 言いながら、縫いぐるみの両眼を窓に向けようとはしない。あたしはもう、惰性でテディと呼んでいるような生き物となにかを共有できるだなんて、微塵も思っていなかった。ただその悪癖だけは拭えなくて、話しかけることは止められないでいる。

「おまえ、ほんとに縫い目だらけだね」

 ふ、と吐いた息が、部屋のなかにいるのに白く燻る。

「あたしが与えた傷ばかり……」

 口にした瞬間、わからなくなった。無感情に弄っていたはずの縫いぐるみが、急激にぶれる。テディの左目にかかった、いちばん酷い裂傷を見下ろしながら。あたしは気づいてしまった。ざらついた裂傷を撫でる感触が、ふれなくてももう、想像するだけでこの手に宿ることに。あたしの手がもう、あたしが満足できるくらいの生々しさを抱えていることに。

 いつの間にかあたしは、その生々しさに仄暗い悦びを覚えていた。


「あ、」

 おまえ、くべてしまってもいいかな。

 ちょっと震えた。真白い雪景色のなかで、テディに火をつける映像が明滅する。突き落とされるような眩暈がした。

 あ。あたし、だれかを傷つけたかったんだ。そしてその嗜虐を、あたしのものにしたかったんだ。なにかが燃える音に交ざって、あたしの吐露が、つめたい空気に呑み込まれていく。それはあたしの根幹を揺るがすような、強烈な原体験だった。



 あ。違う、あたし、くべられたいんだ。

 胸のうちを食い破ろうとする獣に嗜虐と名をつけて、手なずけたつもりでいた、あの朝と。同じ眩暈がして、同じ真白のなかにいて。あたしは、獣の真名に気がついた。気がついてしまった。そうしてたぶん、一瞬は気絶していたあたしのことを、花子はわらいながら見下ろしていた。


「あんず」

 べったりと愉悦に浸った瞳が、あんまり柔らかくて怖じ気づいてしまう。あたしは花子のことがすきだったし、花子の口にする「あんず」の響きだって、きらいではなかった。頸動脈にかぶせられた手のひらはぬるかった。心地いいくらい。「ね、いいよね」あんずは子ども体温なんだ、いいなあ、無垢にわらっていた花子の指先が、ぱらぱらと首筋を叩く。

 つられるみたいにして、顔を歪める。上手くわらうことはできなかった。

「いいけど」

 ちゃんとくべてね。目だけで頷いた花子が、あたしの首を絞める。ちゃんと頸動脈を押さえこむだけの、気道を塞いだりしない感じの、ひどくて穏やかな施しだった。ころしてくれるかもしれない、そういう浅ましい欲を育てながらも、やさしく宥めるような。

 血がまわらなくなっていく感覚に、本性をむきだしにされた被虐趣味が、満たされていく感覚に。あたしはぞっとした。ぞっとしながら意識は遠くなって、眠るように死にたいと思う。いつの間にか獣はあたしを食い潰して、あたしに成り代わるんだ。あたしは被虐そのものに生きて、それはつまり、死にながら生きていくみたいな、不気味で、幸せで、どうしようもなく誰かにあいされることに思えたから、だから。




 ゆるく目蓋を押しあげたのに、センセと目線が交わってしまう。そのまま「杏子」と呼ばれるのがあたしを正気に戻すための呪(まじな)いだと知っていて、あたしはいつも応えられない。


「やっぱり、センセがくべて」


 だってセンセしか知らないんだ。強すぎる光が影を濃くするように、あたしが、真白いところで決壊してしまうこと。花子に首を絞められた十六の冬、あたしが人生でいちばん幸せだったこと。


「やだよ」

「死体に火をつけてなんて言わないよ? 火葬場でボタンを押すだけ」

「でもおまえは、殺されたいんだろ」

 だって恵くんがセンセとしてあたしを殺せるのは、この春までだから。

 殺さねえよ、と、言われるかと思った。だけどセンセは口を結んだまま、目だけでわらってみせる。支配者然とした顔だった。そうしてセンセの手の甲が、あたしの頬に軽くぶつけられて、あたしはばかみたいに緊張する。

「もう認めろよ、杏子」

 あたしに忘れられない感触があるように、ひとの首を絞めた感触に、花子はしばらく取り憑かれていたらしかった。殺意のない、ぬるくて柔い手のひらなんかで、あたしは死ななかった。

「瀬川が学校に来なくなったときの、おまえの顔。自覚してんだろ」

 センセの手はつめたくて、変わらず華奢だ。その手に身体を起こされて、あたしは花子のことを花子と呼ぶ人間が、学校にはいないことを思った。瀬川、瀬川さん、花ちゃん。あたしは「花」。心の中では呼んでいたと知れたら、花子は怒ったのだろうか。あるいは怯えたのかもしれない。


「あの子に怒ってほしかったの」

 あんず、あんず。顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣いた花子を、組み敷きたかった。そうして、嫌ってほしかった。だけどその口であたし、花子にごめんねと謝ることができてしまう。

「あたしのまわりには、ぬるいものばかり集まるから」

 センセの手首に爪を立てる。されるがままのふりをしてセンセは、あたしを抉るための言葉を吐き出した。「おれたちは同じ穴の狢だよ」思わず力を込めた爪が薄皮を抉っても、顔色ひとつ変わらない。化けの皮が剥がれる音を、衣擦れのように聞いた。

 恵くんは幻想のなかで、恋人の腕を切り落としたことのあるひとだ。あたしはそれを黙認していた。凝視していた、のほうが正しいかもしれない。恵くんの描く欠損はとても耽美で、あたしは幼いなりに、その絵画に陶酔していた。交ぜてもらうことは、叶わなかったけれど。

「あたしは恵くんとは違う」

 センセと呼ばないことを咎められなくて、保健室の空気が、すこしだけ異質なものになる。

「杏子だって瀬川のこと、精神世界で虐げてただろ」

 ゆるやかに壊れていた花子の背中を押したのは、間違いなくあたしだった。いまにも剥がれ落ちてしまいそうだった自我を、あの子の皮ごとべろりと剥がしたのはあたしだ。でも確かに花子は、ひとをころしたいと唸っていたし、あたしは殺されたかった。そんなふたりが出会ってしまったんだから、仕方ないことなのに。


「あたしはただ、生きて春を迎えたくないだけだよ」


 恵くんがそうっと細めた双眸には、いろんなものが渦巻いていた。彼は眉を顰めているようにも、愉悦に戸惑っているようにも見える、仄暗い表情をしていた。ねえ恵くん、気づいてる?

「恵くんが。センセがしてくれないんだったら、あたしはセンセの知らないところで、それを求めつづけるだけだよ」

 被虐を望む人間は、その根底に嗜虐の生々しい悦びを知っているのかもしれない。すくなくともあたしは、すっかり自我が剥がれ落ちてしまいそうな、そういう顔がすきだった。あたしが殺してほしいと口にするとき、追い詰められて揺らいでいる、自我のとろけていく姿形が。

 つう、と、あたしのほうが恍惚に呑み込まれそうになる。ゆっくりまばたきをしていると、彼は思い出したようにわらって、そのまま首を振った。

「杏子。おれも、自分のなかの嗜虐性を切り捨てたわけじゃないよ」

「おれのなかの化物と殴り合いながら、春になってもとけない、尖った感情をねじ伏せたりねじ伏せられたりしながら、まともなふりして生きてんの。それって案外簡単なことだよ」

「だったらどうして恵くんは、絵を描かなくなったの? 切り捨てていないんだったら、まだ、腕を切り落としたりしたいはずなのに」

「おまえだってもう、縫いぐるみをひらかないだろ。燃やすこともない。それと同じ。補完できるから」

 恵くんはとうとつに、あたしを立ち上がらせた。なんとなくでも二本足で自立できることに、あたしは安堵したし、安堵したことに罪悪感を覚えもする。

「おれたちは傷つける側の人間だけど、化物じゃない。優しいものにほだされて、なあなあに生きていけばいい。それでも杏子、おまえはとけないよ。──あと、学校では先生、な」

「……わかってて言ってるでしょ、それ」

 恵くんがふつうになってしまったから、まともに思えたから、センセばかりに獣を晒した。彼の言葉でいう、化物を。そうして悪意を込めていたのに。

「でもね、センセ。やっぱりあたしは許せないよ。あたしが、ほだされて生きていくこと」

 あいされたくて泣く子どもみたいだ、逸脱していたいのに溶け切ってしまいそうなあたしを、センセはそう言って宥める。あいって? まともってなんだ。優しさとか、そんなのって怖い。



‪ 保健室のとびらに手をかけるたびに、春が近づいた。「センセ、春が来る前に、あたしほんとに死ぬからね。ちゃんとくべてね」センセはたぶん、もう余裕綽々という顔をしていて、その日もそう言った。「また明日」‬‬‬‬‬

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