羊を数えて2時間が経ちました
ためひまし
第1話 羊って今何匹?
「死にたい」
死ぬことで全てが解決するとそう思っていた。だから、いつもぼくはこの時間になると決まって『死にたい』と呟いてみるのだ。そうすれば何かが変わる気がして、でも何も変わらなくて、だからこうして毎日呟いての繰り返し、そのうち本当に死んでしまうのではないかと思うほどだ。
なぜ死にたいかなんて具体的なものは何もなくて、何もしなくても明日が来ることがただ怖かった。その恐怖からいつも眠れないのだ。この時間になると忙しいことがぼくの目の前から消え失せる。だから考えないようにしていたこともふと頭によぎってしまう。
劣等感の塊である自分が醜くて仕方なかった。そんな自分から逃げようと劣等感の根源である同僚と部下が嫌いになった。上司は元から嫌いだった。街中を笑顔で歩く家族や世の中の辛さを何も知らない子供たちにもこの憎悪は向けられた。
街中のすべてが憎い。そうなってしまったぼくはいつもぼくを作る。顔面に魔法を塗りたくって朝を迎える。
ぼくを慰めに3秒に1回やってきていた羊ももう7200匹を超えていた。6時間で集めた羊もこれだけの数がいるとうるさくて眠れない。もう考えるのはやめて仕事に行こう。
8時の満員電車。この乗車率200パーセントの人々が嫌になる。目の前にいるバーコードのおじさんもその通りだが、大きな荷物を背負う小学生さえも腹が立って仕方ない。目を閉じようが眠れない。電車の揺れと人の揺れに合わせてなびくだけの生活に嫌気がさす。
出社時間の15分前には到着した。課長が出社してきたぼくに向かって耳元でこっそり呟く。
「遅えよ。新人はもっと早く来てるぞ」
知ったことはない。この前もそれを言われて5分早めたというのに。今日もサービス残業付きの最高な仕事が始まった。
課長の今日初めての怒声はぼく宛てだった。納期がとか仕事がとかよくわからないことを言ったのちに最終的な結論は仕事を任せるだけだった。これでぼくの背中にはどれだけの仕事が溜まったのだろうか。新人を抱えながらこの量は人間であれば不可能だ。また怒られるのだろうな。そして新人は甘やかされぼくのように育っていくのだろうな。可哀想に。
課長の喜々とした笑い声と話し声が聞こえてくる。課長の前には例の新人が二人並んでいた。ひとつの仕事をやりきったことへの賞美のようだ。その刹那、ぼくの視線と課長の視線が交わる。とっさに視線をはずしたぼくらは別々の思考が走ったようだ。ぼくは仕事をしなければという焦り。課長は人をいじめる楽しさ。課長は朴に聞こえるような声で話し始めた。
「いやー、君たちは本当にすごいな。まだ入ってきたばかりなのにここまで仕事ができてしまうとはな。誰かとは大違いだ」
ぼくのパソコンに向かって打ち続ける単純作業も思わず止まってしまった。彼らに仕事をゼロから教えたのはぼくだ。何も分からなかった彼らにコツやオススメを教えたのはぼくだ。なぜ彼らが。理由はわからないが悲しくもないのに涙があふれてきたのだ。わからない。本当にわからない。とっさにトイレへと歩き出していた。
枯れたはずの涙が出てきてしまった。この涙はぼくの甘い部分だ。誰かに頼ってしまうダメな涙だ。涙だけを拭いて真っ赤な目のままデスクに戻った。
デスクに戻ると課長が腕を組んで待っていた。もの言いたげに口を真一文字に結んでいる。もう2歩ほど進めばあの封印は千切れるだろう。そうなればぼくは今日、帰れないかもしれない。もったいない一日だ。
「今まで何をしてた! 俺に何も話さず席を外して、一声かけてから離れろ!」
もちろん言いたいことはたくさんある。一声なんてかけられるわけがないってこと。もしかけようものなら一方的に怒鳴って終わりだ。それに、あのセリフを聞いてからまともに課長と話せるかどうかも疑問だった。課長には話す土台を作ってほしいものだ。高層ビルの屋上にいる人に地上から話しかけても通じないだろう。そういうことだと思っている。
しかし驚いたのはあの課長が残業という枷を課さなかったことだ。普段なら2時間程度のサービス残業を追加してくるものだ。それでも毎日3時間の残業をしなければ仕事など終わることはない。3時間で終わる毎日ならいい方だ。たとえ5時間を浪費しても終わらないこともしばしばある。今日は久しぶりに20時に帰宅が出来た。電車の込み具合も少し抜けてくる時間帯。大人でにぎわう大通りを無視して家まで直行する。
「死にたい」
そう呟いてみる。今日は誰かが助けてくれるような気がしてそう呟いた。時計の回る音だけがこの部屋には蔓延している。
時計が今日の仕事が終える頃、そして時計が新しい仕事を始める頃。ぼくには羊が飛び込んできた。ぼくの部屋に時計がいなくならないのは時計がぼくよりも大変であることが目に見えているからだ。ぼくの部屋にはそんな存在しか残っていない。テレビやエアコンはもちろん捨ててしまった。冷蔵庫や電球も日々常夜灯で付いている程度のものしか残っていなかった。そんな彼らがぼくの友達だった。
羊はすでに2400匹も柵を超えていた。今日のこいつらはいつになくうるさい。ずっと鳴いているだけの存在だ。ぼくの部屋にはこんなやつらはいらない。そう思って勢いよく怒鳴った。すると隣の部屋から勢いよく『ドン』と音が聞こえた。これでぼくの嫌いなものが増えてしまった。害のなかった隣人と羊だ。ぼくは数えることをやめて2日分の疲れからかすぐに眠りにつくことができた。嬉しい日へと変わったのだ。
朝日が眩しくて嫌気が射す。また嫌いなものが増えた。
今日も乗車率200パーセントの電車でもみくちゃにされる。これにはもう慣れたから何も思うことはないのだけれど、今日はどうも違う。大きなランドセルを背負った小学生がその大きすぎる荷物を気にもせずにぼくの足にぶつけてくるのだ。これは蹴り上げてもいいのだろうか。そう思っているうちにぼくが降りるべき駅へと着いてしまった。今日はお預けのようだ。
いつもの通りに仕事が始まり、いつものようにぼくが最初に怒られる。というよりも最近ではぼくだけが怒られる。一方的に言われ、それでぼくの何もない一日は幕を閉じるのだ。
「使えねえ奴だな。ちゃんと働けよ。くたばれ」
こうも簡単に悪口が人から出るのかと少し関心もした。毎日毎日同じことを繰り返すのはぼくだけではない。そのぼくの物語に出てくる人々も同じ日々を過ごしているのだ。課長は毎日同じ悪口を垂れ流して生きている。
「遅えよ。何度言ったら分かんだよ」
今日の課長の初めての言葉はぼくにとってこれだった。残念そうにぼくは『すいません』とだけ言い残しデスクへと向かった。椅子に座り、パソコンを理由もなく眺めると納期が近づいている付箋が5枚。今週中に終わるだろうか。いや、終わるわけもないか。そうこうしているうちに規定の退社時間になった。もちろん退社などできる訳もない。新人の2人は何も考えずに帰っていく。家庭があるから。彼女がいるから。趣味があるから。そんなことを言っていた最初のうちは良かった方だ。今では『お先失礼します』という定型文だけを振りまいて帰っていく。
ぼくも今日は早めに帰りたい。理由は一切ないけど今日はぐっすり眠れる気がする。課長には怒られるだろうけど、それでも今日は帰りたい。今週中にすべての仕事を終わらせれば課長も何も言わないと思う。だから今日はもう帰ろう。乗車率200パーセントの電車で帰ろう。すかすかの電車も魅力的だけど、今日はそんなことも言ってはられない。家に帰ってお風呂にはいって寝るのだ。
たしかにこっぴどく怒られた。『仕事を舐めてんだよ!』なんて言われたけど、ぼくはもうめげない。電車を降りれば、大通りを抜ければ、小さい路地を通ればもうぼくの家だ。だけど、どうしてだろう。つり革を握るぼくの頭には羊が飛びこんできた。うざったらしい。あと一駅足らずだったのに。
無意識のうちにぼくは最寄り駅のホームのプラスチック椅子に腰かけていたようだ。
何匹きたかは分からないけれど、うざったらしく思い、手で強引にどかして、そのままぼくも逃げたところまでは覚えていた。そこから目が覚めるとここにいた。
まだ少し脳内は眠気が混ざってぼんやりとした世界が広がっているが、このまま家に帰れそうだ。
この時間の商店街は夜と違って活気に若さがある。健やかな若ささえもこの老体にはうざったらしく感じられた。もう心も身体も擦り切れていたのだ。
ぼくは商店街を歩いていたはずだ。しかし、突然に睡魔のような意識に襲われ、羊の世界へと迷い込んでしまった。もう少しで帰れたのにということに対して強く憤慨した。憤慨した挙句、なぜか手に持っていた大型ハンマーで柵を超えてきた羊に向けて大きく振り下ろした。血がぼくにまとわりつく。息をつく暇もなく次の獲物がやってくる。今度は足元に転げていたチェーンソーで四股を切り落とした。声もなくつぶれていく羊を他所に次の獲物はアイスピックで両目をたこ焼きの要領で抉り取った。次はどんな殺し方をしようかと悩む間に柵を飛び越えてくる。その羊を蹴り倒してチェーンソーで頭を切り落とした。次に羊がやってくるまで少し時間が空き、1度に2匹来たので少し驚いたが1匹は皮を剥いでマントにした。もう1匹は心臓を突き刺して息の根を止め、肉を喰らった。表しようのない快感がぼくの全身を走った。気持ちがよかった。そこからの記憶はもうない。ただ少しも動けなかった。
「速報です。今日夕方ごろ、向井ヶ原駅前の路上で男がナイフで次々と周囲の人を刺す通り魔事件があり、6人が死亡し12人が怪我をしました」
「突然奇声をあげた男は手に持ったサバイバルナイフで通行人を刺し始め、警察官2人を含む18人を切りつけました」
「現場にはあちらこちらに血痕があり、その凄惨さを物語っています」
羊を数えて2時間が経ちました ためひまし @sevemnu-jr
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます