荼八 十吾

第1話

私の父は毎日ピアノを弾いている。本当に毎日弾いている。母曰く、結婚式の時も父はピアノを弾いたそうだが、今では鬱陶しいと口にしていた。


私が音楽がすきになったのは他でもなく父が原因で、新居に映る際の車内でも父の好きなCDを聴きながら、下道を永遠とあーでもないこーでもないと言いながら男二人旅をしていた。


私は高校生のころそんな父をどういった目で見れば分からない時があった。理由としては、父の収入が少なかったのと母との会話が少なかったからだ。たしかに二十年も一緒に暮らすとなれば必要な会話は減るだろうし、それも納得していた。もっと云うと父は母との会話よりピアノとの対話のほうが長くかんじていた。帰宅したらピアノ、風呂上がりにピアノ、寝る前には動画サイトでピアノの演奏を聴き、早朝から庭の手入れとピアノ。正直碌でもないなんて思ってしまった、時もあった。


そんな父は、ピアノや音楽の話をすると上機嫌になる。父の好きなアーティストの話なんかを振ったら何時もニヤついていた様に記憶している。その割に自分の弾いている曲の名前を言ったりはしていなかった。ショパンだったり、坂本龍一だったり、東京事変が好きと云うのは知っていたのだが、父の弾く曲は其れだけでは無かった。父の一番のお気に入りの曲、私はその曲名を知らなかった。知らなかったのだ。


先日、動画サイトにて何時ものように下らない時間つぶしをしているとあの父の曲が流れ出した。ふと気付くと私は泣いていた。其れこそ、新居に越してから一人暮らしに慣れて丁度、両親の顔が思い出せなくなってきた頃にあの曲が流れたのだ。時刻にして深夜二時。またあの曲を聴きたい。そう思ってしまったのだ。幸いにも動画主様が、例の曲名を動画のエンドロールに記載していてくれた。私は、その曲名で検索を掛けると正しくあの曲が流た。いよいよ涙が止まらなくなり、越してきてから初めてのホームシックになってしまった。そして感じた。あの曲の懐かしさ、あたたかさ、そして、父へのあこがれ。


あの父が弾いていた、あの曲を曲名を知ることが出来たのだ。母はあの曲の同じフレーズばかりで飽きてしまう。と言っていたが、私は理解した。ハムレットの名シーン、生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。あの長台詞はなんど読んでも、聴いても、観ても素晴らしいと思うが、それに近いものがあった。本当に父が好き、お気に入りであったあのフレーズは知らぬ間に私のお気に入りのフレーズになっていたのだ。


父も、もう六十に近いが本当にいい趣味を持っていると思う。そして、この感情はきっとあこがれなのかもしれない。高校時代よりも私は勿論成長して、色々なモノの見え方が変わってきているのが最近は良くわかる。だからこそ、大人になっても自分の趣味は手離したくない、そう思えた。父の事を尊敬する。本当にいい人だ。


何の因果かはわからないが、父のよく弾いていた、例の曲の曲名は「あこがれ/愛」であった。なんとも、今の感情にしっくりくる曲だ。実家に帰ったら、まず父にこう言いたい。ありがとう。

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荼八 十吾 @toya_jugo

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