レインコートと潜水艦

白井玄

レインコートと潜水艦

 雨が好きだ。


 窓から眺める雨が良い。


 ここにいて良いんだって、そんな許しをもらえた気分になるから。


 さあ、ご機嫌に歌おう。ららら、下手くそでも良いから、誰もいない教室の真ん中で声を張り上げよう。ららら、歌詞なんていらない。雨のハーモニーに負けないように。ららら、メロディを奏でよう。


 轟々、雨が降っている。


 風が唸り声を上げて、教室の窓を叩き続けていた。僕の歌を邪魔しているのかもしれない。実際、音痴だから仕方がない。それでも無視して歌う。しばらく頑張ったけど、疲れてやめた。暗い教室に、窓の揺れる音と雨音が撹拌して、静寂が訪れた。


 雨の勢いが強くなってきて、より暗くなった。椅子に腰かけていたけれど、窓には自分の顔が映るばかりで、外が見えない。仕方なく立ち上がり、顔が見えなくなるまで近づいて、ほとんど鼻がつくまで押しつける。昔連れていってもらった水族館を思い出す。薄暗い水槽にいっぱいいっぱい顔をつけて覗いた。あのときは目の前にシャチが現れて驚いたけど、四階の窓にはそんな面白いことは起きないから安心だ。


 グラウンドは波打っていた。雨はもう滴ではなく、水流といった具合。窓の外は水中みたいだった。荒々しくうねる様は海に見える。この教室は潜水艦だ。僕はただひとりの乗組員。想像するのは楽しい。誰にも邪魔されないのが特に良い。


 台風が直撃した。今朝のニュースはその話題で持ちきりだった。夕方にピークが訪れると騒ぎ立てて、早く帰れと注意を促していた。帰れと言うぐらいなら外出させなければいいのに、なんともままならない社会だ。


 お陰で学校は昼に終わった。みんなは素直だから足早に帰路についた。普段教師の言葉には反抗しているのに、どうして気象予報士の言葉に従うのだろうか。そんなことを考えながら、天邪鬼な僕はトイレに隠れたり空き教室に侵入したりして、夕方を待ち教室に戻った。


 台風を眺めたかった。ちょっとした好奇心だ。家でも悪くなかったけど、どうせなら教室の窓から眺めたかった。なにせ窓が大きいし、四階は遠くまで見える。これだけの大雨と暴風を、小さな窓で楽しむのはもったいなく思えた。


 待った甲斐もあって、教室の一面に広がる窓から眺める台風は、映画館さながらの大迫力だ。誰もいない学校は静かで、室内にいるのに雨と風の音しかしない。内と外の境界が曖昧になっていく。台風のなかを漂っている感覚があった。この臨場感は教室じゃないと味わえなかっただろう。


 視界はどんどん悪くなる。街の光が覆い隠されたようにぼやけている。海の底に沈むとこんな感じかもしれない。どこまでもひとり。それが当たり前なところ。


 ここには僕しかいない。


 許してもらえる気がした。


 だから、僕は歌う。


 ららら。


 ららら。


 ららら。


 歌でも歌っていないと、疲れる。べつに日々の生活に問題があるわけじゃない。悩みだって大したものはない。そこそこ明るく能天気に過ごしている。人が努力している十分の一も頑張っていない。それでも疲れるものは疲れる。だけど、それを口にするのは憚られる気がして、だから歌おう。人のいない教室で、意味のない歌詞を、適当なメロディにのせて奏でよう。


 ららら。


 ららら。


 ららら。


 寂しい。でも、誰かといるのは疲れる。面倒な感情が拗れている。楽しいことをしたい。でも、祭りのあとのような、あの空気が苦手だ。置いていかれてしまったような、そんな感覚が過ぎると途端に冷めていく。考えすぎなのだろう。どうやったら考えずにいられるのか、どうか教えてほしい。


 疎外感がある。罪悪感も。自分のことで煩わせたくない。


 人間関係は苦手だ。相手のことを考えるふりをして、結局自分のことばかり考えている。そんな自分を見せられて嫌気が差すから。


 ため息をつく。呼応するかのように、一際強い風が吹いた。窓が大きく揺れる。グラウンドに白波が渦巻く。


 そして、海中に火が灯った。


 グラウンドに、赤いレインコートを着た誰かが立っていた。風に煽られてゆらゆら揺らめく姿は、海底に蝋燭の火が揺れているようだ。不思議な光景に視線を奪われる。


 その火はグラウンドの中心にいる。こちらを見上げているような気がする。気のせいだろうけど、じゃああの火はなにをしているのだろう。僕と同じで、大した理由なんてないのかも。教室に居残って、外を眺めている理由を考えてみる。他人を納得させられる答えはない。思いつきが理由にならないのだとしたら、僕たちは降参するしかないのだ。


 赤い火が唐突にくるくる回り出しても、僕は驚かなかった。踊っている。両腕を広げて、くるくる。赤い長靴はステップを刻む。とても楽しそうに、リズミカルにくるくる回るその姿に目を奪われた。


 しばらく眺めていると、風向きが変わった。風が唸る。窓を打つ雨音が強くなった瞬間、グラウンドの火は転んだ。あっと、自然に声がもれた。どうやら自覚する以上にのめり込んでいたらしい。


 暴風に煽られたのか。水に足を取られたのかもしれない。問題は、しばらく起き上がらないことだ。


 見えないだけで、なにか当たったのか。まずいな、と思う。気絶していたら溺れかねない。


 一瞬の逡巡。深呼吸。意を決して、教室を飛び出す。


 階段を一段飛ばしで下りていく。一階に着いた頃には息が上がっていたけれど、昇降口を駆け抜けて上履きのまま外に出る。


 雨が叩きつけてくる。向かい風のせいで立っているのもやっとだ。目が開けられない。片手を翳してどうにか視界を確保しながら、赤いレインコートに向けて進んでいく。


 赤いレインコートに辿りついた頃には、全身ずぶ濡れだった。上履きはグラウンドに足を踏み入れた一瞬で水没していた。気持ち悪い。なんでこんなことしなくちゃいけないんだ。屈んで、うつ伏せに倒れていたレインコートの腕を乱暴に取る。


 そいつは驚いたように顔を上げた。クラスメイトの女子だった。名前はたしか、三谷。あまり話をしたことはない。成績優秀で比較的おとなしいそいつが、教師と男子から評判が良いことは知っている。意外な人物に内心驚いたけど、いまは些細なことだ。


「起きろ!!」声を張り上げる。


 彼女は笑みを浮かべていた。口が微かに動いた。なにかを言ったらしい。ただ、なにも聞き取れなかった。独り言かもしれない。嬉しそうな表情に腹が立つ。無理やり起こし上げて、昇降口まで手を掴んで駆けた。三谷は抵抗せず、大人しくついてきた。


 昇降口につくと、少し寒かった。全身、水が滴っている。海に飛び込んだみたいに。顔の水を拭って払うと雫が飛んだ。僕は眺めたいのであって、飛び込みたいわけじゃない。心のなかで愚痴る。


 警備の人に見つかりかねないので、教室と告げて、彼女の手を離す。さすがに、いま帰すのも危ない。台風がではなく、こいつがなにかしでかしそうで。そのときに僕まで巻き込まれるのはごめんだった。


 ぐずぐずになった上履きを脱いで、手に持った。三谷もフードを下ろして、長靴を脱いで裸足になった。無言のまま教室まで歩く。足音がひたひた聞こえては、雨音にかき消されていく。


 教室に着いて、上履きを机に放る。それから僕は窓の前に立った。三谷も無言で隣にやってきた。手を少し伸ばせば触れられる、親しい関係の距離だった。雨音のなか、微かに彼女の息遣いが聞こえる。横目を向けると目が合った。にっこり微笑んだ彼女は、清々しい表情をしているように見えた。


 待っても言葉はなかった。残念ながら、僕から彼女に向けての言葉は持っていなくて、だから沈黙が続いた。てっきり三谷に話題があるのかと思ったけど、そういうわけでもないらしい。それならどうして隣にきたのだろう。彼女は微笑みを下げて、お澄まし顔で外を眺めている。


 いい迷惑だ。


 三谷は僕より頭半分ぐらい背が低い。華奢で、手は小さく脚も細い。あの暴風雨のなか、踊るのはかなり大変だったはずだ。そして、頭の上から足下までびしょ濡れ。ストレートの黒髪も、水滴がぽろぽろ落ちている。たぶん、レインコートの下も水浸しだろう。


 ため息がもれる。本当にこいつは。


「なにやってんだよ」


 視線を窓に戻す。思わず愚痴が口を出た。独り言だ。実際返答なんて求めていない。理由を知るつもりはない。自殺だって言われても大した感想はない。ただ、見えないところでやってほしい。お陰でこちらもずぶ濡れだ。


「子供っぽいこと」


 澄んだソプラノボイス。顔を向けると目が合った。どうやら独り言ではないらしい。彼女は首を傾げた。


「篠田は?」


 そして、予想通りの質問。僕はなんでもないように答える。


「子供っぽいこと」


 きっとこれも予想していたのだろう。彼女はふうんと応えた。お互い、それ以上言葉は続かなかった。だけど、なにか確信めいた雰囲気があって、そっかと納得した様子でもあった。


 確認したかったのかもしれない。


 三谷は笑った。僕は笑わなかった。


「嘘。ほんとは篠田に会いにきたんだよ」


「だったら、僕は三谷を待ってたのか」


「そうだね。私を待っていたんだと思う」


 三谷はもっともらしくうなずいた。本当に待っていたのだと、錯覚するような説得力があった。約束をした覚えはない。それなのに、約束した気がしてくるから不思議だ。


「帰らないの知ってたんだ。なにをしているのかなって。だから会いにきたんだよ。台風、見てたんだね」


 彼女の口からぽつりぽつりと言葉が溢れて、答えを合わせていく。


 どうやら、隠れているところを見られていたらしい。告げ口されなかったのは嬉しいけど、どうせなら見なかったことにして欲しかった。そこまで求めるのは厚かましいか。でも、思うだけなら許されるはず。ため息がもれた。


「途中からは三谷を見ていたよ。そのレインコート、火みたいだから」


「うん、見て欲しくて選んだの」


「じゃあ踊ってたのも?」


「そうだよ。あっでも、転んだのは偶然。まさか、きてくれるとは思わなかった。きて欲しいとは思ってたけどね」


 彼女の言葉は軽かった。水素でも詰まってるのかも。全部が冗談に聞こえる。真に受けたら燃え上がる気がする。可燃性ガスだから、取扱注意だ。


「もし、本当に会いにきたのなら、教室までくればよかったのに」


 そうしてくれれば、僕はずぶ濡れにならずに済んだのに。戯けつつそんな愚痴を込めると、三谷に真っ直ぐ見据えられた。


「もし、教室に行っても、一緒にいてくれないでしょ」


「そうだね」


 もし、教室にこられたら、濡れない代わりに歌を聞かれていただろう。調子外れの歌を聞かれて、それから楽しく談笑できるほど、僕のメンタルは強くない。


「それじゃあ、意味ないから」


「だったら今日じゃなくてもいいんじゃない」わざわざこの大雨のなか、一度帰ってまで会いにこなくてもいいのに。「声かけてくれたら合わせたよ」


「嘘。雨じゃなかったら声かけられないでしょ」


「声はかけられるよ」応えるかはべつにして。


「ううん、きっと独り言になる。篠田、あんまり誰かといるの得意じゃなさそうだし」


「そうだね得意じゃない。つまりあれだ、三谷は嫌がらせがしたいわけ」


「そうかもしれない。篠田にとったらね。でも、私にしてみたら違う。篠田と話をしたいと思うのに、悪意なんてない」


 三谷は心底不服そうに口を斜めにした。


「冗談」僕は吹きだす。


 この台風のなか嫌がらせにくる感情は、もう悪意の域を超えて、憎悪とか殺意と呼ぶべきものだろう。僕は三谷と親しくない。そもそも関わりが少なかった。だから恨まれるようなことはない。……はずだ。そう思うのに、実際に彼女が現れたことを考えると、自信がなくなってくる。


 僕の物騒な被害妄想を看破しているらしい。三谷はむっと眉間にしわを寄せた。


「私、か弱いと思うけど」


「冗談だよ」


「どっちが?」


「さあ」


 僕は笑った。三谷はため息をついていた。どうやら彼女は僕の思考を読み取れるようだ。それも結構な正確さで。きっとこれが普段の教室なら、身震いしていただろう。大して親しくもない相手に思考を読まれるなんて、ストーカーじみている。それなのに、いまは楽しいと思った。


 気負わなくていいからかもしれない。自発的な行動とはいえ、びしょ濡れにさせられたのだ。気を遣ってやるつもりはないし、いまさら取り繕っても手遅れだ。


「篠田が笑ってるの見れたからいいや、許してあげる」


「それは嬉しいね」


「篠田も、許してくれる?」


 なにを、とは訊かなかった。潤んだ瞳がこちらを見上げていた。上目遣いではなく、身長差から見上げる形になったのだろう。そこに余計な思惑はなさそうに見えた。あまりにも、切実に見えたから。


 ああ、一緒なんだ。僕が雨を眺めて許された気分になるように、三谷も許しを求めている。それはたぶん、僕のよりもっと具体的で、明確なものなのだろう。


 その許しは、自分で見つけるものではなく、誰かに与えられるもの。


 もしかしたら、三谷は本当にか弱いのかもしれない。僕に許しを乞うのは、きっと都合がいいからだ。僕は人との繋がりが薄い。だから、弱みを見せても吹聴される心配が少ないと考えたか、あるいは、僕がひとりだから離れる心配がないとか、そんなことを考えたのだろうか。


 責める気はない。僕にとっても都合がいい、とはいわないけれど、悪い気はしていない。ちょっとだけ寂しさが紛れたから、その分ぐらいは役に立ってもいい。


 ただ、上辺だけの言葉はきっと意味をなさないだろう。三谷が求めるのは、もっと本質的な、言葉より実感的なものだと思う。そもそも僕が許しを与えるなんて、そんな大それたことはできないのだ。だったら、僕にできる方法で、隙間を埋めるしかなさそうだった。


「本当は、台風を眺めながら歌ってたんだ。メロディも歌詞もめちゃくちゃな、そうだな、奇声を発していたと言ってもいい。とにかく、僕はひとりでちょっと馬鹿馬鹿しいことをしていたんだ。だから子供っぽいことってのも、あながち嘘じゃあない」


「え、なに」三谷は俯いた。きっと誤魔化されたとでも思っているのだろう。


「雨が好きなんだ。窓から眺めるのがいい。ここにいて良いんだって、許してもらえた気分になるから。気分が良くなれば歌いたくもなるし、どろどろとした気持ちも吐き出せる」


 俯いたまま頷いた三谷には、どこか重い雰囲気が漂っている。いまにも泣き出しそうなくらい。面倒だ。泣かれてしまうと話どころではないし、逃げ帰るのもなかなか厳しい。気持ちの問題として。致命的な問題。おそらく二度と会話をすることはなくなるだろう。そういう重しを避けたいのだ。僕も、三谷も。


 それに、泣きたいなら歌えば良い。


「だから、一緒に歌おう」


 下手でもいい。誰も気遣わなくていい。周りは海だ。ここには僕と三谷しかいない。聞かれるのが恥ずかしいのは我慢してもらうしかない。なんなら僕が先に歌おう。それで少しでも楽になるのなら、その手伝いぐらいはしてもいい。


 三谷は顔を上げた。驚いているような、戸惑っているような、表情だった。ただ、悲しそうではなかったから良しとしよう。


 それから、すぐに言葉の意味を噛みしめたのだろう。嬉しそうに微笑んだ。赤いレインコートが火みたいで、僕は改めて視線を奪われる。


「うん」三谷はゆっくり頷いた。


 さあ、ご機嫌に歌おう。歌詞なんていらない。メロディも適当だ。


 僕が歌うと、三谷は笑った。失敬なやつだ。でも、笑ってくれるならいいかと思う。


 僕の調子外れのメロディに、三谷の澄んだソプラノボイスが合わさってハーモニーが生まれた。僕ひとりなら奇声だろうけど、三谷の声が入ることで、ちゃんとした歌に聞こえる。


 気づくと、風は静かになっていた。きっと三谷の歌声に聞き惚れているのだ。僕のときとは随分対応が違う。文句を言いたいけど、その相手がいないのだから、諦める。


 轟々、雨が降っている。


 許してもらえた気がした。


 暗い教室に歌声が響く。


 ららら。ららら。


 ららら。ららら。


 ららら。ららら。

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