第3話
『こんな時間に声を張ると近所迷惑になるので、メールで伝えます』
美冬のスマートフォンにメールが来る。秋人からだった。彼は相変わらず部屋の前にいるようで、ドア越しに足踏みの音が聞こえてくる。体操でもしているのだろうか、足音が近所迷惑になりそうだ。
『長崎に行くことになりました』
音が吸収されるかのような静寂を、足踏みの音が邪魔する。間違っても、美冬の心臓が早鐘を打つのではない。
『入社予定の会社、本社は東京なんだけど、長崎の事業所に配属されることになりまして……』
秋人は、大手飲料メーカーに入社が決まっている。
美冬もその企業の採用試験にエントリーしたが、書類選考で落選した。それはさておき。
その企業は、入社1年目の新人を、全く縁のない土地の事業所に配属させるのが習わしのようになっている。
東京生まれ東京育ちの秋人は、もちろん東京の本社や事業所の配属にはなり得ない。やはり、とばされた。
しかも、配属先である長崎事業所は、新規に立ち上げられる事業所である。
事業所開始は、来月、3月。4月に長崎事業所に放り込まれても、現場は余裕を持った新人指導が難しいかもしれない。いっそのこと、3月はアルバイトとして他の従業員と切磋琢磨しながら仕事を覚えてもらい、4月から正式に社員として働いてほしい。
そのように本社から言われた。
秋人はそれに応じるつもりだ。
『3月って、随分急だね。もう2月も終わっちゃうよ』
美冬は、すんなりとメールを送ることができた。対面でなければ、秋人に変な壁をつくらずに済むようだ。相変わらず、部屋の前から足踏みの音は聞こえるが。
『荷物はほとんど新居に送ってあるんだ』
まさか、服全部送ってしまったのでは。
『東京でのアルバイトは、今日が最後だった。近々、出発するつもり』
いつ、と美冬が訊ねると、数日後の日付を答えられた。美冬がフリマイベントに参加する日だ。
『あのさ、ずっと美冬に誤りたかったんだけど』
美冬はタイミング悪くコーヒーをすすり、吹き出しそうになった。誤字を発見してしまった。
『高校生のときは、美冬に酷いことをお願いしてしまった。ずっと誤りたかった』
美冬は、口の中に苦味を感じた。コーヒーに砂糖を入れたのに。
『裸エプロンなんかお願いして、ごめんなさい。断ってくれて、やらないでくれて、ありがとう』
裸エプロン。それ、メールに明記してしまったか。
秋人が何か続ける前に、美冬は返事をする。
『もう気にしてないよ。あれは、秋人も無理矢理巻き込まれたようなものじゃん』
秋人から返信はなかった。足踏みの音は聞こえる。あれは、ステップを踏む音だ。
『長崎でも、頑張ってね。おやすみなさい。温かくして寝るんだよ』
美冬がメールを送信すると、すぐに返事が来た。
『ありがとう。実は、エアロのAステップとVステップを繰り返していたんだ。体の芯から温かいよ(笑)』
違う、そうじゃない(笑)。
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