第34話「田中きくゑ」

「ああ、アケミさん。ボクの事はソラと呼び捨てしてくれて構わないよ。周りの人間は皆そう呼んでる」と、ソラさんが言った。


「その方が良いかい?」

「うん。まあ、父さんはボクの事を溺愛してるから、目の前で呼び捨てにすると、ぶっ飛ばされるけどね」

「君の父さんも、この給油所に顔を出すの?」

「普段は会社の研究所に詰めてるけど、たまにフラッとボクの顔をのぞきに来るよ。こんな格好なりしてるけど、一応は一人娘だしね」


 そう言うとソラさんは、オイルで少し汚れた作業服ツナギを指さしながら笑った。


「ぶっ飛ばされるのは嫌だから、ソラさんのままにしとくよ」


 多分、いいお父さんなんだろう。僕は母に手をあげられた事はないが、怒ると手当たり次第に物を投げつけてくる人だったから、余計に始末が悪かった。鍋釜辺りは日常茶飯事で、金魚鉢を投げつけられた時には流血騒ぎになって救急車で運ばれた。勿論、金魚も全部死んだ。


 母は泣きながら僕に謝っていたが、「だったら、最初から投げなきゃいいのにな」と幼い頃の僕は何度も思った。勿論、そんな気持ちはおくびにも出さなかった。会うどころか、声も聞かなくなって十年以上になるけれど、今だに母は僕にとって恐怖の対象でしかない。


「ところで、誰に会いに行くの?」

「田中角栄という名前の事業家だ。この辺じゃ結構有名だと思うんだけど、知ってるかい?」

「いや、知らないな。『かくえい』ってどういう字を書くの?」


「角栄」と、僕はメモ用紙に記した。


「んっ? これって、もしかしたら、菊栄きくゑさんの写し間違いじゃないかい?」

「きくゑ?」

「ああ。直接の面識はないけど、とても綺麗な女の人だって聞いてる。時々、お付きの人がガソリンを入れに来るよ。うちのは混ぜ物をしてないからね」

「女だって?」

「ああ、元々は東京の生まれで、こっちの人じゃないらしい。成り上がり者だって嫌ってる人もいるけど、うちにとっては良いお客様さ。確か、今度の総選挙にも出るって聞いたな……」

「……」


 角栄の妻は、確かに東京の生まれだ。だが、名前は『はな』だし、取り立てて美しい女性でもない。彼女は出戻りで、角栄が借りていた事務所の家主の娘だった。彼女の父は土建業者で、角栄は結婚によりその事業も受け継ぐ。その事務所を改組して出来たのが、今も現存する田中土建工業である。


 史実の角栄は、理研コンツェルンの総帥である大河内おおこうち 正敏まさとしに見いだされ、大きく飛躍を遂げる。事業を受け継いでから僅か二年足らずで、年間施工実績で全国五十位入りするまでに、田中土建工業を急成長させたのだ。


 もし、きくゑという女性がこの世界の角栄だとすると、元々の角栄は一体どこに消えてしまったのだろう?


「それにしても、きくゑさんと繋がりがあるんだったら、まずは彼女を頼れば良かったじゃないか。心配して損しちゃったよ」


 ソラさんは少し拗ねたような顔をして、僕に言った。


「ところが、そうもいかない事情があってね」

「どういうこと?」

「字は角栄で間違いない。そもそも、僕は彼の事をよく知ってるけど、向こうは僕の事を全く知らないんだ。勿論、きくゑさんともまったく面識はないよ」

「じゃあ、会いに行っても無駄じゃないか」

「かもしれないね。でも、それが自分の性分なんだから仕方ない」

「君はなんだか、少し父さんに似てるよ……」


 ソラさんは呆れた声でそう言った。勿論、門前払いは覚悟の上だ。それでも角栄を探してみるしか、僕の若き日の闇歴史を現実にする方法はない。とにかく動いて、何かチャンスを掴まなきゃ、ソラさんに借りたお金だって返せないのだ。


「紹介状でも書けたらいいんだけど、お付の人しか見たことないしね。払いはしっかりしてるから集金にも行けないし、次にいつ給油に来るかもわからない」

「そんなこと気にしなくていいよ。要するに僕は、君がお金を貸してくれて、本当に助かったんだ」

「それこそ気にしなくていいよ。ボクは自分のお金を使って、このコンロを少しいじってみたかっただけだ。これは正当な取引であって、どっちが恩に着るとかそういう話じゃない」


 そう話す彼女の口ぶりは、どこかDJ君に似ている気がした。彼は自分の損得よりも、フェアであることを大事にする男だった。彼はいつも周りに気を使い、いつだってニコニコしていたのだ。


 今にして思えば、もっと感情を露わにしてくれれば良かったのにと思う。笑顔は究極のポーカーフェイスだ。だから僕は、【あの事件】の後、彼の心が静かに壊れつつあることに気づかなかった。



「じゃあ、行ってくるね」


 車に乗り込み、エンジンをかけようとした瞬間、僕は急に嫌な予感に襲われた。ソラさんという強力な援軍を得た今、無理してきくゑさんの元に顔を出す必要はないかもしれないと、ふと思ったのだ。


 勿論、角栄を探すことを諦めた訳じゃない。だが、この世界での角栄が女性である事は、ユキさんにとっても想定外の事象のはずだ。ユキさんの助力を得るためにも、彼女に一度報告してから事を進めた方が良いかもしれない。


「どうしようかな……」


 きくゑさんが、角栄に繋がる可能性が一番高い人物であることは間違いない。なにしろ彼女は、史実で角栄が最初に出馬した選挙に立候補しているのだ。いくら性別が違うからと言って、新潟二区から出馬する田中性の人物を、他人だと決めつけるのは無理がある。


 もう既に選挙は公示されていて、選挙戦は終盤になればなるほど激しくなってる。アヤを付けるなら一日でも早い方が良いはずだ。僕は少し考えて、箱と全力さんを、ソラさんに預けてから行こうと決めた。


「ねえ、全力さん。悪いけど、今日はこの事務所で留守番しててくれないか?」

「なして? ゼニはもう手に入ったんやろ? アサリの味は悪くないけど、同じものを二度も連続で食うのは嫌やなぁ……」

「いつも、同じカリカリばっか食ってるじゃん」

「カリカリは別格やけんね……。あんたの相場と同じよ」

「わかったわかった。ちゃんと何か、おいしいお土産を持って帰ってくるからさ。とりあえず、今日のところは頼むよ」

「絶対やでー」


 僕がこの場所を明かさなければ、どんな事態に巻き込まれようと箱は無事のはずだ。ソラさんが、猫を嫌いじゃなければいいけど……。


「今からソラさんに、君の事を頼んでくる。その辺で少し遊んでてくれ」

「ほな、腹ごなしでもしてこかー」


 全力さんは車から飛び降り、藪の中に消えた。僕も車を降り、もう一度、事務所に向かった。

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