第4話「剣乃さんの遺品」
そもそも何故、僕がこの箱を購入しようと思ったのか? それはこの箱が僕の師匠、つまり剣乃
にわかには信じがたい話だが、師匠は確かに政治家の裏金を運用をしていた。中でも、田中派は一番のお得意様だったそうだ。僕がこの世界に入った頃には、角栄は既に故人であり、彼に反旗を翻した
どうして、仕手筋と政治家がつながるのか? それは、この国で合法的に大金を稼ぐには、株が一番楽だったからだ。政治家とヤクザから金を集め、大相場の絵図を描き、彼らに金を戻すのが僕の師匠の仕事だった。
勿論、金を回すだけの彼らと違って、実際に相場を『作る』師匠は何度もお上から狙われた。数えきれぬほどのガサを喰らい、小菅暮らしをしたことすらあったが、師匠に金を回してる政治家たちの支援と、堅気の金は使わないというポリシーのお陰で前科者になる事は無かった。
その全盛期を僕は知らない。師匠の昔話を聞くたびに、僕は何度も、『あと十年早く生まれていれば……』と思ったものだ。晩年の師匠は、表と裏の世界をつなぐフィクサーみたいなところがあって、角栄が脳梗塞で言葉を失った後も、田中派の復権のために私財を投じることを惜しまなかった。
角栄は自分の身は守れなかったが、約束通りに師匠の身は守った。もし、箱の力が本物だとすれば、子飼いの政治家の大半に裏切られた彼が、後事を託して師匠に箱を譲ることだって、あり得ない話じゃない。
角栄は議員生活一年目にして、法務政務次官になり、三十三本もの法律を議員立法で通して、戦後最年少の五十四歳で首相に就任した男である。そして見事、日中国交正常化を成し遂げた。彼の奇跡のような業績と、その後の転落の陰に箱の力が作用していたとすれば、この話は俄然、信ぴょう性を帯びてくる。
だが、師匠がその箱を受け継いだという話は、僕にはどうも腑に落ちなかった。師匠の晩年は、決して幸福とは言い難いものだったからだ。政治資金規正法の改正で政党助成金が生まれ、合法的に国の金を流し込めるようになってから、政治家と仕手筋がつながることは、ほとんどなくなった。
用済みになった相場師たちは、
僕はそんな古い時代の政治家と相場師たちの両方を知る、最後の世代だ。師匠は箱を受け継いだが、相場師の意地として、その力は使わなかった。そう考えれば、一応のつじつまは合う。
「何としてでも、師匠の遺品であるという、この箱を手に入れよう」
僕がそう心に決めた時、ヤサにある古時計の鐘がなった。時刻はちょうど午前零時を回ったところだった。箱の力が本物か否か――それはもう、僕の中では重要な議題ではなかった。師匠の遺品でありさえすれば、それでいいのだ。
僕はメインの証券口座の資産残高のスクリーンショットを撮り、連絡先のメールアドレスに添付した。そして、手早く短文を打ち込む。
「箱を購入したいと思います。成功報酬の一千万円も既に準備出来ています。つきましては、受け渡しの方法を教えてください」
数分後、すぐに返信が来た。
「貴方がこの箱を持つにふさわしい人間であるか、簡単な審査をさせていただきます。つきましては、ご連絡先を今から十分以内に返信してください。これが最初の試験です」
「冷やかしはお断り」という事なのだろう。時間制限をかけて慌てさせ、個人情報を抜く手口かも知れないとは思ったが、師匠の遺品の魅力には勝てなかった。
僕は携帯番号とヤサの住所を入力し、名を【伊集院アケミ】と記した。勿論偽名だが、僕にとってはそれなりに思い入れのある名前だ。普段からこの名前を名乗っているし、もはや本名で呼ばれても自分の名だと思えないくらい、思い入れの深い名前になってしまっている。
コーヒーでも入れて、少し落ち着こうかと思った瞬間、非通知で携帯が鳴った。どうやら売主は、僕に勝るとも劣らないくらいのせっかちな人間らしい。
「伊集院アケミさんの携帯でよろしいでしょうか?」
「はい、そうです」
声の主は、意外にも女性だった。もの静かだが、まだ十代といっても不思議じゃないくらいの若々しい声だ。
「この度は、箱の購入申し込みをいただきまして、ありがとうございます。既にご存じかと思いますが、あれは色々といわく付きのものです」
「はい。買う方にも、相応のリスクがあるという事ですよね?」
「その通りです。これからいくつかご質問をさせていただきますが、購入後のトラブルを避けるためですので、正直にお答えください」
「わかりました」
「では、始めさせていただきます。まず最初に、伊集院アケミというのは、貴方の本名ではありませんね?」
「……!」
僕は少し動揺した。確かに女性的な名前ではあるが、「本名ですか?」と問い返されることは滅多にないからだ。
「はい、その通りです。しかし私は、仕事でもプライベートでも、常にその名前を名乗っています。本名を使うのは役所と病院くらいです」
「郵便物は、この名前でも届きますか?」
「まったく、問題ありません」
「わかりました。では、それで結構です。我々に対して誠実であってくだされば、貴方がどんな名前を使おうが、我々は関知しません」
「ありがとうございます」
どうやら話の分かる女性のようだった。僕の本名を検索すれば、全く身に覚えのない過去の話が幾らでも出てくる。名乗らずに済むなら、それに越したことはない。
「では次の質問です。貴方が箱の所有者として相応しくない行動をとった場合、我々はいかなる手段を使っても箱を回収します。そのことを、ご了承いただけますか?」
「一千万をお支払いした後でも、箱を没収されることがあるということですか?」
「その可能性はゼロではないという事です。但し、貴方があの箱の力を悪用しない限り、そういう事は絶対にありません」
「悪用?」
「あの箱は、所有者に権力をもたらす箱です。ですが我々は、その権力を濫用することまで認めている訳ではないのです」
「なるほど。過去の所有者の中には、それをして身を持ち崩した人がいるということですね」
「残念ながら、ゼロではありません」
「大いなる力を持つ者には、責任が伴う」という事が言いたいのだろう。元より僕は、権力が欲しい訳ではない。
「一つ質問させていただきたいのですが、宜しいですか?」
「返答の確約は出来ませんが、どうぞ」
「その権力を第三者に譲渡することは、箱の所有者として、『ふさわしくない行動』に当たりますか?」
「譲渡ですか……」と彼女はつぶやき、しばらく間を置いた後、こう続けた。
「箱の力は所有者のみに作用するものです。ですから、箱のそのものの譲渡でなければ、問題ないと思います。ところで何故、そんな質問を?」
「僕は昔、ゲーム会社を経営していましたが、うまく行きませんでした。正直に言って、余り責任を負う立場にはつきたくないのです」
「会社の事は存じております。それで、アニメ映画に出資しようと思ったんですよね?」
「どうしてそれを? 表には一切出てない話だと思いますが……」
「購入希望者の経歴と、人間性について調べるのが私の仕事です。念のために申し上げますと、この面談は、我々が既に調べあげたことを確認するための作業にすぎません」
どうやら、こちらの素性はバレバレらしい。
「権力に執着がないことは、箱の所有者としてはむしろ望ましい事だと思います。ですが、箱の力を他人に明かすことだけは、絶対にやめてください」
「何故ですか?」
「貴方の身の安全のためです。また、箱の秘密の漏洩は、所有権の剥奪の可能性を高めると思います」
「分かりました。箱の秘密を守ることについては、お約束いたします」
「では、所有権の譲渡後も、箱の没収の可能性があるという事はご承知いただけますね?」
「はい」
権力の譲渡に問題がないのであれば、箱の秘密を洩らさない限り、箱を没収される事も無いはずだ。そもそも、たとえどんなに過酷な条件を課せられようと、『受け入れる』以外の選択肢は僕にはない。師匠の遺品かも知れない品を、他人に渡す訳にはいかないからだ。
「ここまでのやり取りに、特に問題はありません。次の質問の返答次第で、箱の所有者は貴方になります。逆に言えば、もし購入を取りやめたいと思うなら、今が最後のチャンスです。本当に購入でよろしいですか?」
言葉こそ警告の形だが、やはり彼女は、僕に箱を所有させたがっているように思える。ならば何も遠慮することはない。正直にいこう。
「相場師は人間のクズですが、絶対にやらないことが一つだけあります」
「なんですか?」
「一度、成立した注文は、絶対に【なかったこと】にはしない事です。その一点においてのみ、僕は彼らを尊敬しています。平気で約束を反故にする堅気の方が、よっぽど怖いと僕は思ってる。だから、その点についてはご安心ください」
「わかりました」
僕の返事に苦笑しながら、彼女はそう答えた。僕は、最初は冷たさしか感じなかった彼女に、少しずつ好意を感じつつある自分に気づいた。
(続く)
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