第3話「伊集院アケミ」

「特別な商品ですので、お届けは業者ではなく、しかるべき人間を使ってやります」


 そう言い残して、彼女は電話を切った。僕は、ユキと名乗る売主の少女と小一時間話しこみ、結局、この箱を買うことに決めたのだ。所有者に必ず、栄光と挫折をもたらすというこの箱を――


 翌朝、まだ真っ暗なうちに電話が鳴った。時刻はまだ午前六時を回ったばかりだった。


「伊集院アケミさんの携帯電話でよろしいですか?」

「そうですが」

「ご注文の商品をお届けに上がりました。大変申し訳ないのですが、ご自宅がわかりません。近くまで来ているとは思うのですが……」


 このヤサは標高九四〇メートルの山奥にある。一応、別荘地ではあるのだが、敷地がとても広いうえに道がかなり入り組んでいて、宅配業者でもなかなか辿り着けない。深夜なら猶更だ。


「管理事務所の場所は分かりますか? 別荘地の入り口にあるんですけど」

「はい、先ほど通過しました」

「あそこは終日管理です。この時間でも誰かしらいると思うので、預けておいてください。あとで取りに行きます」

「いや、報酬を頂かないと……」

「報酬?」と、僕は尋ねた。

「はい。僕らは通常の宅配業者ではありません。訳アリの商品を専門に扱う【運び屋】です。話は既に通っているはずですが……」

「おいくらですか?」

「五万円です」

「ちょっと、高くないですか?」

「大負けに負けて、この値段ですよ」と、男は不満げに言った。

「まあ、ユキさんはお得意様ですし、今回は自宅まで辿り着けませんでしたから、大幅に値引きしました。納得いかないという事であれば、持ち帰りますが……」


「お代は送料のみで結構」という、あの煽りの最初の文言を僕は思い出していた。しかるべき人間を使うことも、確かに聞いている。少し嵌められた気もするが、ここは素直に支払うしかないだろう。


「わかりました。すぐに伺いますので、管理事務所前で待っていてください」

「事務所の駐車場の隅に車を停めておきます。仮ナンバーの車ですので、すぐにわかるかと……」


 どうせ、その仮ナンバーも偽物なんだろうなと思いながら、僕は自分の車に向かった。今の愛車は、いつでも旅に出られるように改造した、車中泊仕様のモビリオ・スパイクだ。いつでも逃げだせるように、最低限の生活用品と保存食糧は積んであるし、ドアにも鍵はかけてない。


「んじゃ、行くか」


 勢いよく乗り込んでキーを回すが、エンジンがかからない。多分、バッテリー上がりだ。ルームランプでもつけっぱなしていたのだろうか? ただでさえ低くなってるテンションが、更に落ちていくのを僕は感じた。


「仕方がない。向こうのCR-Xを動かそう」


 このヤサには、少し離れた場所にガレージがついている。僕はそこに、若かりし頃の愛車であるEF7型のCR-Xを保管していた。車検はとっくに切れているが、私有地内で転がす分には問題ない。幸いなことに、そちらのエンジンはすぐにかかった。この車なら、事務所まで2分とかからないだろう。


 早朝の別荘地内に、CR-Xの爆音が木霊こだまする。まだハイシーズンではないとはいえ、在宅してる人間にはいい迷惑だろう。この車の売りは旋回性能の高さで、下りの山道でこの車より早い相手は、まずいない。久しぶりの愛車で駆け抜ける山道はとても気持ち良く、少しスピードを落とそうとした時には、管理事務所がもう目の前だった。


 事務所の前には、黒づくめの服装をした男が一人立っていた。相方がもう一人いるようだったが、運転席に座ったまま出てこない。顔はよく見えないが、ぱっと見は女性のように感じた。あれがユキさんだろうか?


「伊集院さんですか?」と、男が僕に声を掛けた。

「はい、そうです」

「お届け物はこちらになります。少し重いので、気を付けてください」

「分かりました。ではこれで」


 僕は五万円を運び屋の男に手渡し、箱を受け取った。施された蒔絵は本当に美しく、一流の品であることに間違いはないように思えた。箱の上面はA3程度の大きさだったが、深さはそれなりにあって、男が言ったようにかなり重い。多分、中に何か仕込まれている。


「同梱物があるとは聞いていませんが、中に何が入っているのですか?」

「それについては、ユキさんから手紙を預かっています。箱を開ける前に、必ず読むようにと言付かりました」と男は言い、僕に手紙を渡した。


「ありがとうございます。では、あの女性はユキさんではないのですね?」

「あれは私の部下です。車を転がすのは天才的なんですが、それ以外に特にとりえもありません」と、男は少し苦笑しながら言った。


「そうですか。ユキさんとは一度お会いしてみたかったので、とても残念です。それにしても、この箱はえらく重いですね」

「中身については、本当に何も知りません。まあ、僕らに頼むくらいですから、いわくつきの代物なんでしょうが、何も知らない方がお互いのためですしね」


 男はそう言い残し、助手席に乗り込んだ。運転席の女が、僕に向かってほんの少しだけ頭を下げ、二人はあっという間に青白みつつある空気の中に消えていった。僕は申し訳程度についているCR-Xの後部座席に箱を置き、運転席で渡された手紙を読み始める。


「拝啓 伊集院アケミ様


 この手紙を読んでいるという事は、無事に箱を受け取ったという事だと思います。突然で申し訳ありませんが、今すぐこの箱を持って、その場所から離れてください。行く先はどこでも構いません。遠ければ遠いほど良いです。


 現在、貴方の身には危機が迫っていますが、今ならまだ回避できますし、箱の力が貴方を守ってくれることでしょう。箱は既にその力を発揮していますので、開封する必要はありません。それは、最後の手段です。


 何らかの事情で貴方自身が束縛を受けそうになったり、第三者に箱を奪われそうな事態に陥った時のみ、この箱を開封してください。幾ばくかの後悔と引き換えに、貴方の願いは叶えられることでしょう。こちらにも少し手違いがあり、栄光より先に挫折が迫る事態になったことをお許しください。貴方ならきっと、切り抜けられると信じています。


 繰り返しになりますが、箱の開封は最後の手段です。

 そうなることを、我々は望んではいません。


 貴方の安全が確保されたと判断した時点で、必ずこちらからご連絡いたします。またお話しできる日を楽しみにしています。ユキより」


 話が全然違うじゃないか、とは思ったものの、手紙の内容を疑うことはなかった。相場を生業とする僕は、人の恨みなら死ぬほど買っている。心当たりならいくらでもあった。それにこの箱は、単純な京漆器だとしても十万以上の価値はありそうにみえる。深夜に人を二人動かして、受け取ったのが五万円じゃ、愉快犯にしたって割が合わなすぎるはずだ。


 ユキさんが何者なのかはわからないが、彼女や彼女の背後にいる人たちは、なんらかのきっかけで僕を知り、僕に迫る危機も知った。そして、この箱を使って何かしようとしている。それだけは間違いないだろう。


 僕は少し考えて、一旦ヤサに戻ることに決めた。恩人から、猫を一匹預かっているからだ。猫の名前は全力さんという。やや太り気味の三毛猫で、名付け親は僕だ。本名は、デーモンコア・将門まさかどというのだが、余りにも呼びづらいので、僕が全力さんという通名を付けたのである。


 ちなみに強そうなのは名前だけで、全力さんはエサも自分じゃとれないし、たった半日、家を留守にしただけでもメンヘラ化するダメ猫だ。たとえエサがあったところで、三日も放置すれば、きっと孤独死してしまうだろう。全力さんは、今の僕にとって、たった一人の家族ともいえる存在だ。放っておく訳にはいかない。


 僕は、数分前に下ってきたばかりの山道を全速力で駆け上がりながら、これからやるべきことを冷静に考えていた。


 全力さんに死ぬほどエサを食わせて、居眠りしてる間に車に詰め込む。とりあえず、知り合いの車屋まで逃げて、そこで他人名義の車を調達しよう。その後の事は、それから考えればいい。


 とりあえずは、そんなところだろう。僕はガレージの前にCR-Xを停め、小走りにヤサに向かった。

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