読書感想文『怒りの日を超えて』――[06/25/23:36]
この浄化の光騒動を予言したものとして注目を集めている書籍、『怒りの日を超えて』(アンドリュー・L・タイター著)を読んだのでその感想文をば記していきたく思います。
まずは本書の概略紹介から。とはいえ、テレビやネットで大いに話題になったのでもうご存知の方も多いでしょうから、さらっと流す程度にやっていきましょう。
『怒りの日を超えて』は人類史の流れを、その終端に「怒りの日」があると仮定した上で一冊にまとめた「少し変わった」歴史書です。ええ、出版当時の2015年はそのような扱いだったのですから、そう記述するべきでしょう。
言うまでもないことでございますが、現在は「近年頻発する聖水の
さて。
端的に感想を言ってしまいますと、9割は退屈な書物にございました。なんといっても西洋の歴史に偏り過ぎでございます。世界史の教科書だってもう少し東洋の事情に触れているというのに一体なんなのでしょうかあの偏りようは。
いえ、基督教的観点に立つのですからそうなるのもやむなし、ということは理解しているつもりにございます。本当です。しかし、あれではまるで、基督教文化圏の人間に向けて記述されているかのよう――ええ、「人間」にです。我ら人ならざるもののことなどは眼中にないかのような、そんな雰囲気を感じます。あれは一体どういうことなのでしょうか。
と、不満や疑問を申してはみましたが、答えはもう出ているのです。ここまであからさまならばもう、そうとしか考えられません。すなわち、
この本は基督教文化圏の人間にのみ書かれているのです。
著者のアンドリュー氏がどこぞの過激派テロリストに殺害された、という話もこの本を読んだならば納得するほかにない――そんな代物にございました。
先述のように、著者はすでにテロリストの手によって神の御許に送られてしまったので真意は推し量るほかないわけですが、まあ事実でしょう。それを象徴する一節にして、これから先の未来を予言するとも噂される一節を引用します。
怒りの日を超えても、我々の世界は継続するだろう。問題は、その先の世界に我々の生きる場所はないかもしれないということだ。
著者は実際に起こるであろう怒りの日は『ヨハネの黙示録』に予言されているようなものではないとことわりを入れています。しかし、それでも、何らかの選別や裁定、審判が下されることは間違いないでしょう。
そして、基督教文化圏の者に向けて本書が記されているということを踏まえて考えるならば、この一節の意味するところとはこうなのではないかと、私は思うのです。
敬虔な信徒たれ。心を入れ替え、聖なる者となれ。さもなくば、怒りの日の先の世界で生きることはできないだろう。
もっとも、私のような人ならざるもの(天使のたぐいならば別かもしれませんが)には関係のない話ですし、おそらく非基督教徒にとってもどうしようもない話でしょう。ゆえに私は、こんな本の記述など笑い飛ばしたく思うのでございますが、……浄化の光は現実に起こってしまいました。
一応、今は収束しましたが、昨年12月から度々発生の報告されている浄化の光がこの怒りの日と無関係であると考えることはできません。
このままでは、そう遠くない将来、塩となって消えてしまうかもしれないと思うとどうにもいても立ってもいられません。
どこかの偉い学者様が怒りの日の止め方なんて研究してくださるとありがたいのですが……まあ、今は八百万の神様に祈るしかありませんね。
――『つれづれなる日々』[06/25/23:36]投稿
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