第6話 花火大会 Part2 前編

「そうそう、本当にここまで来る電車の中とかさぁ…ふふ、私達と同じ浴衣姿ばっかだったよ」

と紫が明るく笑いながら言うと、「うんうん」と麻里が続いた。

「いやぁ…えへへ、こないだの焼肉屋でも喋ったけど、名前こそ私ですら知ってるくらいの規模のものだし、それなりと思ってたけど、思ってた以上だったよ」

「ふふ、そうだったの」

と私は麻里の背後から返すと、しゃがんでいた体勢からスクッと立ち上がると、麻里の背中をポンっと叩いた。

「…よしっと。はい、麻里、終わったわよ」

と私が言うと、麻里はくるっと回って自分の姿を見渡し始めた。

「…ふふ、麻里ちゃん、あそこに姿見があるから、アレを使ってご覧なさい?」

と、紫の背後で作業をしていたお母さんにニヤケられつつ言われた麻里は、「はーい」と間延び気味な返事を返すと、言われた通りに部屋の隅にある姿見へと、歩幅も狭く歩み寄った。

そして、改めて姿見の前で色んなポーズを取ると、「おー…」と声を漏らしていたが、ある程度満足したのか、クルッと身軽に半回転すると、私の方を直接見た。

そのまま麻里は間を置く事なく、「えへへ、直してくれてありがとー」と言ってきたので、「いーえー」と疲れ顔をわざと浮かべつつ返したが、全く保つことが出来ずに、すぐにニコッと笑顔を零してしまった。

そんな私と麻里のやり取りを見て、紫とお母さんは勿論のこと、この場にいた藤花に律の二人も一緒になって明るい笑顔を浮かべのだった。


…さて、毎度のパターンと化してしまっているが、今回もまずは、今が一体どんな状況なのかから説明させて頂こう。

本日は裕美の退院を祝う打ち上げをした日から数日後の土曜日、現在の時刻は午後の三時ちょうどだ。

場所はまぁ…ふふ、今のやり取りを聞いて頂いたなら察せられた通りで、ここは私の自宅の一室だった。

…さてと、これまた前回と同様に、あまり話に関係が無いあまりに紹介する機会が無かったので、折角だしと少しだけ触れてみたいと思う。


まぁこれも何度かチラッと口先で軽く触れた事があったので、何となく分かられているだろうと思いつつも言えば、ここはいわゆるお母さんの”趣味の部屋”だった。

縦が3.5m、横が4.4mという、微妙に正方形では無い十畳の和室で、床の間まであり、掛け軸がかけられ手前には花が生けられている。

…そう、簡単に言えば”純和室”と言ってしまっても良いのだが、ここがまたしてもお母さんのこだわりというか、家を建てた時に注文したのであろう工夫があった。

というのも、先程は十畳あると言ったばかりだが、実際にそのうちで畳が敷かれていたのは半分の五畳のみで、もう半分はというと、木目が綺麗なヒノキの床となっていた。

ここは床の間ほどでは無いにしても、畳部分よりも少し高さがあるのだが、これを何様に設置しているかというと…うん、お母さんの趣味部屋という時点でお分かりの様に、一言で言ってしまえば日舞の稽古用舞台なのだった。

部屋全体の雰囲気、特にヒノキの部分などは絵里の”日舞部屋”にそっくりだったが、比べるものでは無いとはわかりつつも、敢えて言えば、一般的なマンションの一室である絵里の物とは広さの点でどうしても桁が違っていた。

…っと、そんな下世話な話はこの辺に終わらすとして、お母さんは暇を見つけると、私が練習部屋に籠る様に、この部屋に籠もって日舞の練習を今も続けており、練習が終わるたびに、ヒノキ舞台をメラニンスポンジや雑巾を使って綺麗に掃除をしているおかげで、聞いた話ではほとんど替えた事が無いとの事だったが、照明をテラテラと反射しない時を、たまにこの部屋に足を踏み入れる事がある私自身は見た事が無かった。

んー…ふふ、我が母親ながら、いくら他に目立つ趣味らしい趣味を持たないからと言っても、また幾ら子供の頃から今に至るまでずっと続けているとは言え、自宅にこんな本格的な日舞の稽古用舞台まで作ってしまうのはやり過ぎだと、ふと冷静になって考えると思わないでも無い。

だが…自分が毎日使用している防音が完璧な練習部屋を思い返すと、これは以前にも言った様に、家を建てるに当たって亡き私のお爺ちゃんが大事にしていた、今ではというか小学二年生から今までずっと私が弾き倒し続けてきたピアノを保管するための部屋だったので、私が頼んで作ったわけじゃ無いのだしと、毎回ふと思う度に自分のことを棚に上げるのだった。

因みにこの部屋は一階にあり、すぐ隣が私の練習部屋という配置となっている。

…って、そんな話はおいといて、ついでと言っては何だが、実は今の今までこれまた話さなかった…うん、話に関係ないので話さなかった事をごく簡単に触れてみよう。

というのも、ここ一、二年くらいになって、これまでも有った事は有ったのだが、しかしある事の頻度が増したからだった。

ここはお母さんの趣味部屋と紹介したばかりだが、その通りで、この部屋にはお母さんの所有する着物全てを入れてある、見るからに重厚感たっぷりな桐箪笥が幾つか置かれており、その側にはさっき麻里が歩み寄った姿見や、もちろん衣紋掛けなども幾つか置かれている。

…のだが、それだけではなく、この部屋にはある隠し収納があった。

それは床の間の下にあり、床の一部を外すとそこには”炭手前”で使う炭を収納するスペースとなっていた。

…ふふ、聞いておられる中で”その道”の方がおられたなら、”炭手前”で既にお気づきかも知れない。そう、結論というかまず初めにバラしてしまうと、今まで触れてこなかったが、日舞以外のお母さんの趣味に”茶道”があった。

まぁこれも、何故お母さんが茶道をしているのかというのも、大方予想が付くだろう。何せ、お母さんが通っている日舞の教室は、言うまでもなく目黒にある絵里の実家がそうなのだが、日舞の家元である絵里の父親とは別に、茶道家であるという絵里の母親も、同じ家の中で茶道を教えていると、娘本人から説明があったからだ。

絵里が師範試験に合格したという報告を受けるまでは、絵里の母親が茶道家だというのを私は一切知らなかったのだが、教室を開いていると聞いてすぐに、何でお母さんが茶道まで趣味部屋でしているのか初めて納得がいっていた。

…って、ふふ、『何でこんな急に、自分の母親が実は茶道も趣味なんだと、とってつけた様に紹介するんだ?』と思われてしまうだろうし、実際にそう言われてしまいそうだが、これに関しては軽く言い訳をさせて頂きたい。

まぁ単純な事で、茶道は趣味といえば趣味なのだが、ご存知の通りお母さんにとっての”日舞熱”と比べると、茶道などの他のは格段に落ちるので、同じ趣味と括るには、娘の私としては紹介するのに何だか腑に落ちないというか、抵抗があったので、これまではお母さんの唯一の趣味が日舞だと言い張ってきたのだった。

…ふふ、こんな言い訳が万人に通じるとは微塵も思っていないので、まぁ一応説明したから責任は果たしただろうと身勝手に自己満足して、話を少し戻そう。

…うん、本当は軽く部屋を紹介するつもりが、何だかお母さんの話までしてしまっているせいで、またしても長話になっているのは自覚しているので、もう暫くだけお付き合い下さい。

…コホン、さて、十畳とは言いつつも、茶道道具一式を入れてある備え付けの収納なども壁に埋め込まれていたりするのだが、何故今こうして紹介したのかを漸く説明したいと思う。

というのも、さっきもチラッと触れた様に、ここ一、二年ばかりになって、以前と比べて格段に我が家で人の出入りが増えているのと関係があった。

お父さんの仕事関係、仕事付き合いのある人が時折自宅にお呼ばれして、その度にお母さんが着物をビシッと完璧に着こなして接待をしていたというのは、私が小学生時代にも話した通りだったが、それはあくまでもお父さんの仕事相手限定で、毎回来る人も大方決まっていたし、人数は多くても片手で数えられる程度だった。

だが、私が中学生になり、それに伴ってお母さんも本格的に社交の場に顔を出す様になってからというものの、奥様同士での付き合いが以前より増して活発となったらしく、それと同時に、これは流石に本人は言っていなかったが、人伝に聞いた限りでは、お母さんの凛とした佇まいやら立ち居振る舞いに対して、男性陣だけではなく女性陣からも憧れを持たれたらしく、その源泉は実は幼少からの趣味が大きく関わっていると察知したのと同時に、皆してお母さんの趣味に興味を持ったというのだ。

どんな動機からなのかは本人は今だに知らないらしいが、それはともかく自分の趣味に興味を持ってくれた事それ自体に気分を良くしたお母さんは、頼まれるままに彼らを自宅に招待して、そこで着物の着付けから、また希望があればそのまま日舞も少々教える事もあるらしい。

だが大体は着付けが終わると、そのまま茶会となるのが通例の様だった。

…ふふ、とまぁ毎度の如く長い長い前振りとなってしまったが、繰り返し言えば以前、つまりは私が小学生時分には無かった事が、こうして今では起こっており、私が学校から自宅に帰ると、ちょうど茶会が終わったらしい社交場に集まる面々の奥方数名と鉢合う事が、稀とは言えあったので、一応今後の話にもしかしたら関係してくるかも知れないので触れた次第だ。

…さて、一体何が本編だったか忘れてしまいそうな程に話し込み過ぎてしまった。もう話を戻すことにしよう。


…っと、ふふ、そういえば、何故今そのお母さんの趣味部屋に、私だけではなく、裕美を除く学園組が勢揃いしているのかを説明しなきゃだった。

本日は、裕美の退院を祝う打ち上げをした日から数日後の土曜日と先に言ったと思うが、今日が何を隠そう、地元の花火大会が開催されるというのが大きく関係していた。

そう、約束通りというか、こうして当日に紫たちは自前の浴衣を自宅から着て来てくれたのだった。

ここまでの事の経緯を説明しよう。

例の焼肉屋で打ち合わせした通りの待ち合わせ時刻に、地元の駅へと迎えに行くと、先ほど紫が口にした通り、改札口は浴衣姿の男女でひしめき合っており、すぐには見つけられなかったのだが、そこは…ふふ、本人は実は結構気にしているらしいのだが、その中でも周囲よりも頭一つ高い律の姿が見えたおかげで、それなりに早めに鉢合うことに成功した。

会ってすぐに私たちはというと、打ち合わせ通りにまずは私の家へと向かった。

…何故まず私の家へと向かう羽目になったのかを話そう。とその前に、今、そしてこれまでの話でもお分かりの様に、私たちの中で一名の姿が見えないのがお分かりになられるだろう。

そう、この場にはまだ裕美の姿が無かった。というのも、理由としては単純にして明快で、裕美は午前中は腰のことでお父さんの病院に行かなくてはいけないと言うので、都合が合わなかったのだ。

なので、診察を受けた後で裕美は自宅で浴衣に着替えてから私たちと会う手筈になっていたのだが、まだ怪我が完治していないというのに、普段とは比べ物にならないくらいに混雑している駅前や駅ナカ、改札で待ち合わせるのは大変だろうと、その代替として集合場所が裕美の通い慣れた私の家となったという経緯があった。

因みに皆を迎えに行った時には、まだ私自身はまだ浴衣に着替えていなかった。

別に浴衣は着慣れていたし、恐らく家に着くなりお母さんが皆を居間で歓待してくれるだろう事は想像出来ていたので、その短い合間を使ってササっと着替えれば良いだろうと考えての事だった。

まぁでも、それだけではなく…ふふ、何故まだ着替えていないのか、その理由を今から話そうと思うが、それが一番初めの光景と関わってくる事となる。


さて、私がまだ浴衣に着替えていなかった理由とは、ただただ単純なのだが、早くにして着替えると着崩れしてしまうのが嫌だったのが大きかった。

別に着替えてからもシャンとしていれば良いだけの話ではあるのだが…ふふ、私はお母さんと違って、着物や浴衣などの和服を着た時の所作がまだ完璧には身に付いていないらしく、人がどう見えるかは別にして、自分を客観視してみて少しでも着崩れが起きていると、どうしても気になってしまい、そんな風に始終神経を張らせているのが大変だと、大抵和服を着るときには直前まで待つのがデフォルトとなっていた。

…ふふ、普段着というか私服には何の気配りもしないのだが、これが”呉服屋の娘の娘”たる所以か、こと和服となると普段の反動か、お母さんに似て自分で言うのも何だが仔細に至るまで気を配るタチなのだった。

でも…ふふ、ついさっき大変だとか色々と口にして、それが愚痴っぽく聞こえてしまったかも知れないが、別にそんな事は微塵もなく、むしろ和服を着るのはこの上なく、非日常的な点からしても面白味があって楽しく、着ている時はテンションがついつい上がってしまうのが常だと事だけは付け加えさせて頂こう。


「何であなたはまだ着替えていないのよー?」と、自宅までの道すがら紫や藤花から突っ込まれたり、「琴音ちゃんの浴衣姿を生で見れると思ってたから、混んでる電車の中を揺られて来たっていうのにぃ」と麻里が愚痴っぽく言いながら、わざわざ手提げ袋からカメラを取り出すと、私をファインダー越しに見つめてきたので、こんな時でもカメラを持参しているのかとツッコミを入れたりしていると、自宅玄関前に到着した。

私が玄関を開けてドアを支えて促すと、「お邪魔しまーす」と紫たちは声を上げながら中に入って行った。

「はーい、いらっしゃーい」と居間で作業をしていたお母さんは直ぐに玄関先に姿を現したのだが、その姿を見た次の瞬間、「おー…」と皆が一斉に感嘆の声を漏らした。

まぁ…ふふ、実の娘だから言うのは何だか抵抗があるのだが、実際にそうだったし、この場だからと素直に恥じらいもなく言えば、そんな反応を紫たちがしてしまうのも無理はなかった。

何故なら、お母さんもビシッと浴衣を身につけていたからだった。

お母さんが着ていた浴衣は、涼しい風合いが特徴のしじら織で、一見真っ白なのだが、そのシンプルの中にも艶やかさと純粋さを見ている周囲に感じさせ、よく見ると白一色ではなくグレーの糸が織り交ぜられているのが見える代物となっていた。

その基本純白な色合いに、品のある紫の帯がまた良いアクセントとなっており、頭も普段は私と同じ前髪ありのクラシックロングヘアーなのを、簪で綺麗に纏めた見た目だったり、それ以外の立ち居振る舞いも相まって、我が母親ながら和服姿がピカイチに決まっていた。


因みに…別に浴衣を着ているからといって、お母さんは今回は私たち同行はしないのだが、では何故浴衣を着ているのかと言うと、私たちとは別件で、同じ花火を観ることになっていたからだった。

場所は私たちの様に土手ではなく、何とというかお父さんの病院の屋上との事だ。

なんでも、毎年この時期になると、病院では関係者だけに屋上を解放しているらしく、そこで花火を観るのが恒例となっているらしい。

関係者とはもちろん、その病院のという意味だが、大体そこには非番の医師以外は、大抵はお母さんの様な奥さん関係が出席者の大半だということだった。

この会はだいぶ前からあるらしいのだが、お父さんも例外なく毎年の様に参加していたのだが、お母さんはこれまで頻繁には参加してこないでいた。

というのも、私が小学生の頃は、毎年の様に浴衣を新調しては、それを母娘で着て、ヒロの家族と一緒に土手まで行って観ていたからだった。

中学受験の期間に私が入ると、花火大会に観に行く事その機会自体が無くなり、中学に上がってからは、一年時は絵里の所で裕美たちと私が観ている裏で、お母さんはチラッと病院に顔を出していたらしいが、二年時は私のコンクールがあったために、何だかゴタゴタしていた為にやはり観に行けなかった。

…というわけで、今回お母さんは病院の方には久しぶりの参加となる。


「…ふふ、どうしたの?」

と、中々反応を見せない皆に向かってお母さんが微笑みながら声をかけると、「あ、い、いやぁ…」と紫たちはお互いに顔を見合わせ始めた。

だが、いつまでもそうしていられないと、空気を読んだらしい紫が代表して口を開いた。

「あ、いやぁ、その…琴音のお母さんって、本当に浴衣というか、和服が凄くお似合いなんですね」

と、自分で言ったくせに自分で照れてしまいながら言うのを聞いたお母さんは、「…え?」と一瞬だけ照れて見せていたが、「うんうん」と藤花から始まる他の皆の反応を続けて受けると、クスッと小さく笑った。

それから「ありがとう」と微笑みながら返すと、「い、いえ…」と皆がほぼ同時に辿々しげにまた返していたが、既に靴を脱いで上がっていた私は、皆がまだ下にいるままなのに気づくと、「ふふ、挨拶も済んだ事だし、いつまでもそんな所にいないで上がったら?」とニヤケながら声を掛けた。


「あ、うん。じゃあ改めてお邪魔しまーす」

と、普段からすると素直に私の言葉に従い、浴衣に合わせた下駄を脱ぐと、皆はお母さんに先導されるままに居間へと入って行った。

居間に入ると、「ゆっくりしていてねー?」と声を掛けながら、お母さんはそのままキッチンへと入った。

「今日も外は暑かったでしょう?」

と慣れた様子で襷掛けをしながら、お母さんは居間の方を見つつ言った。

「まして、今日みたいな花火がある日なんかは、駅とか凄いことになってたでしょう?」

「…ふふ、うん、例年通り凄い人の数だったよ」

と私は、お母さんにそう言われたというのに、全く落ち着かない様子で居間をウロウロする皆の様子に思わず笑みを零しながら相槌を打った。

「あはは、この時期は仕方ないわよねぇ…って、あら?」

と、冷蔵庫から自家製のアイスティーの入った容器を取り出しかけたその時、目に何かが止まったらしく、お母さんはその容器を一旦冷蔵庫に戻した。

そして冷蔵庫のドアもバタンと閉めると、そのままツカツカと一直線に紫と麻里の元へと歩いて行った。

その突然の行動に二人は驚いた様子だったが、まるで蛇に睨まれた獲物の様に、身動きせずにただジッと突っ立っていた。

そんな二人の様子に構う事なく、すぐ側まで近寄ったお母さんは、到着した途端にジロジロと二人の様子を眺め始めた。

「な、なんです…か?」

と二人がそれぞれ口籠もりながら聞き返すと、お母さんは今度は顔だけグルッと藤花と律の方へ向けた。

二人もやはりドキッとした様子を見せつつ、ジッと黙って立っていたが、そんな四人の緊張した面持ちとは対照的に、フッと力を抜くと同時に優しい笑みを浮かべたかと思うと、お母さんは口調も柔らかく言った。

「…ふふ、その前に、みんなちょっと着崩れしているから…少し直そうか?」


…ふふ、そう、ここでようやく一番初めに話が近付いていくのがお分かりになるだろう。

そのままお母さんに案内されるままに、例の趣味部屋に通された私含む五人は、お母さんに一人ずつ着崩れを直してもらう流れとなった。

「じゃあ私は着替えて来るから、お母さん、みんなをよろしくね?」

と階段の踊り場で声を掛けてから、私は自室のある二階へと上がった。

自室に入ると、早速衣紋掛けに掛けてあった自分の浴衣にササッと着替えた。

今回は深紫が下地の、それに合った控え目な色合いの百合の花が散りばめられた浴衣に、少し桃色がかった薄紫の半幅帯という組み合わせだった。


因みに今回の浴衣も新調していた。まぁ毎年新調しているとは先程触れた通りだし、これまでも触れてきた通りなので、今更感があるだろうが、少しだけこれまでの事に付け加えると、ついこないだに、皆が私の部屋に初めて来た時の中で、部屋の紹介をしたと思うが、その中でこの衣紋掛けと、後は着物と浴衣を保存する為の桐箪笥があるのに触れるのを忘れていたので、ここで慌てて補足させていただいた。

んー…うん、これまで口頭だけで、あまりお父さん達の社交の話は事細やかには触れてこなかったが、実は私も毎回とは言わないまでも、お母さんと一緒に和服で出席というか顔を出す事が稀にあった。

もちろん…って自分が言うと馬鹿馬鹿しいが、お母さんの綺麗な和服姿を見て、その流れで娘であるあなたの和服も見たいという話は、出席者たちから以前より出ており、だったら着て見せてあげたらとお母さんが言うものだから、まぁ動機としては社交関連なのが残念な所だったが、ついさっき述べた通り、和服を着る事それ自体は大好きだったのもあって、表面上は仕方ないと余り乗り気じゃない風を装いつつ提案に乗ったのだった。

それからというものの、物心つく頃…いや、話を聞く感じではその前から、自分の実家である呉服店で私向けの着物は、何着もこれまで仕立ててくれており、小学校低学年くらいまではお母さんの箪笥に一緒に保存して貰っていたはずだったが、最低でも毎シーズンごとに作ってくれていたので、あまりにも数が増えすぎたというので、今こうして自室には桐箪笥が置かれる事となり、収納が出来たのが拍車を掛けたのか、こうして社交にも出るようになったせいで、年々和服の増えるスピードが増していくばかりの昨今なのだった。


さて、姿見の前で短時間で帯も結び終えると、何度か帯の形を含めて着崩れしてないかを確認し、自分なりに納得がいくと事前に用意していた、線絞りの格子花紋模様柄が入った、シンプルながらもシックな色合いの藍染めされた手提げバッグを手に持つと、もう戻らないだろうと予想して、部屋の照明など消し忘れてないかを確認してから自室を後にした。

それから私は、一度お母さんの趣味部屋に行きかけたが、そういえば頭がまだだったと直前に踵を返して、そのままパウダールームに入った。

入って早速、私専用の棚の中からヘアゴムを手に取ると、髪を一つに纏めて低めの位置で結び、トップにふんわり感を出す為に指先で気持ち髪を引っ張り出すと、結んだ毛束を毛先まで捻り、捻った毛束を持っていない手でお団子の形に整え、丸くなるように巻きつけると、最後に用意していた簪を出来た毛束に突き刺して止めて作業はこれまた短時間で終わった。

フランス語で纏め髪という意味のシニョンの完成だ。

さて化粧はどうしようかと、ついつい社交の時の癖で一瞬迷ったが、今日のみんなを見た感じでは、ゼロではなくてもほとんどナチュラルメイクだったのを思い出した私は、自分だけ変にしっかりしているのもおかしいだろうと、同じくらいに大袈裟にならない程度に軽くメイクをした。


やっと全ての工程が終わったので、今度こそ趣味部屋の方へと向かった。

襖となっている部屋の入り口に手を掛けようとしたその時、中から明るい色んな種類の声が聞こえるのに気付いた。


…ふふ、流石お母さん。もう直してあげたのね


と私はスッと襖を開けて中に入った。

「あら…」

とお母さんがまず気付いて何かを言いかけたのだが、その直後、その声は私の周囲に駆け寄って来た他の皆からの声に、かき消されてしまった。

「わぁー、綺麗な浴衣だねー」

とまず藤花が明るい声を上げた。

「うん…ふふ、さすが。…髪型も似合ってる」

と律が微笑みつつ続く。

「ありがとう、藤花。…って、ふふ、何が『さすが』なのよ律?」

と、藤花から律へと薄目がちな視線を飛ばしながらニヤケつつツッコミを入れると、今度は違う方角から口撃が飛んできた。

「いやぁー、本当、本当。流石だわぁ…ふふ、流石のお姫様だわ」

と満面のニヤケ面で紫が言ってきたので、それに対して毎度のようにツッコミ返そうとしたその時、一人の笑みに遮られてしまった。お母さんだった。

「…っぷ、あはは。本当にウチの娘は、学園でお姫様って呼ばれているのね」

「い、いやいや、違うからお母さん」

と私は慌てて訂正を入れたのだが、「そうですよー」と紫と藤花が被せ気味に割り込んできた。

「まったく…『そうですよー』じゃないわよ。…って、なに?」

と、ここで不意に、不自然に約一名が静かなのに気付いて顔を向けて見ると、視線の先には、顎に手を当てて、変に真剣な面持ちで私の全身を舐めるように眺め回す麻里の姿があった。

と、私に話しかけれたのに気付いた麻里は、「あ、いやぁ…」と一瞬は照れて見せていたのだが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべたかと思うと、口調も明るく口を開いた。

「いやぁ…えへへ、琴音ちゃんの浴衣姿は、裕美に画像を見せて貰っただけだったけど…うんうん、実際にこうして自分の目でその姿を見れて、今日はこれだけでも来た甲斐があったよー」

「…ふふ、オーバーね…」

と、流石にここまであからさまに言われてしまうと、私でも突っ込む気力が湧いてこずに、ただ苦笑を漏らす他に無かった。

そんな私たちのやり取りを、お母さん含む他の皆で朗らかに笑うのだった。


「…って、あー…」

とまだ笑いが収まらない中、不意に麻里は自分の身の回りを見渡しつつ言った。

「琴音ちゃんの写真を撮ろうと思ったのに…カメラを居間に置きっぱなしにしてきちゃったわ。ざんねーん」

と麻里は大袈裟に肩を落として、目を瞑りつつ天を仰ぐように顔を天井に向けた。

そんな様子にまたしても苦笑いを浮かべていた私だったが、先ほども触れたように、地元開催にも関わらず、何だかんだ久しぶりの参加となるのもあって、いわゆるお祭りムードに当てられたせいか、テンションが自分で思っていた以上に上がっていたらしく、意味深な笑みを浮かべつつ麻里に話しかけた。

「…ふふ、後で裕美が来た後でも、その後でもずっとチャンスは幾らでもあるんだし、別に今慌ててカメラを用意しなくても良いんじゃない?」

と私が言うと、麻里は目をパチクリさせた。

「え?それって…後で思う存分、いっぱい沢山写真を撮っても良いって…こと?」

「…え?」

と、我ながらノンビリしていると言うか、自分がうっかり口を滑らせてしまった事に気づき、「あ、いや、それは…」と慌てて訂正を試みようとしたが…ふふ、うん、予想通りというか、やはりそんなに甘くは無かった。

「一体どんな風の吹き回しなの、琴音ー?」

と、まずニヤケながら紫が口火を切ると、

「言質を取ったからねー」

と麻里が猫なで声で後に続いた。

「後で『やっぱ無し』ってのは、それこそ”無し”だからねー?」

と追い討ちを麻里がかけると、「私が承認になるよー」と藤花が無邪気な笑顔を浮かべつつ、バッと勢いよく片腕を天高く挙げた。

「…ふふ、私も」

と、どさくさに紛れて律も微笑を湛えたまま、藤花とは違い胸の前で小さく控えめに挙手をした。

「私も私もー」

と紫がニヤケながら続き、「私もー」と麻里も続いたので、「あなた達ねぇ…って、麻里?あなたは当事者なんだから、あなたの挙手は認められないわよ?」と、全員揃って各々の方法で挙手をする皆を眺め回しながら、変に真面目に私が突っ込んで見せると、また誰からともなくほぼ同時に笑い合うのだった。


もうこうなっては挽回のしようがないと、やれやれと溜息交じりに苦笑いをしていたのだが、ふと皆の様子を見て、そういえば何しにこの部屋に皆が集まっていたのかを思い出した私は、話の方向を一気に変える為にも振ってみる事にした。

「…って、私の事なんかはどうでも良いけれど…お母さん?」

とお母さんに早速声をかけた。

「あはは。…ん?どうかした琴音?」

とキョトン顔で返されてしまったが、そんな様子に呆れてしまった私は、その心情を隠そうとはせずに、むしろ顔だけではなく全身で表現しながら言った。

「もーう…『どうかした?』じゃないわよ。見た感じだと、まだみんなの着崩れが直ってないじゃない?」

「…あ」

と、これはお母さんだけではなく、紫たちも同時に声を漏らした。

そして一同は改めてと言うか、自分の体を見渡し始めたのを見て、私は呆れ顔を保とうと努めてはいたのだが、しかし結局は思わず微笑を零してしまったあまりに、それが綯交ぜとなった結果としてニヤケながら言った。

「もーう…ふふ、私が着替えている間、結構時間があったと思うんだけれど、今まで皆して一体何をしてたのよ?」

「…ふふ、だってぇ」

と、私にそう言われてしまった途端に、お母さんはバツが悪そうな笑みを浮かべつつ返した。

そして、そのまま周囲に視線を配り始めたので、私も釣られて一緒に見ると、他の皆も似たような笑みを浮かべていた。

「だってぇ…」

とお母さんは続けて答えた。

「この部屋に入った途端に、この子達がこの部屋に感動してくれてね?それでそのまま色々と興味津々な様子で質問をしてくれるものだから…ふふ、興味を持ってくれた事が嬉しくて、ついつい長々と説明してしまったわ」

と最後に、イタズラがバレた直後のオテンバな少女の様な笑顔を浮かべて話し終えた。

「えへへ…そういう事」

と皆を代表してか、麻里が苦笑交じりに照れ臭そうに付け加えると、私は両腰に手を当てて「はぁ…」と深く大きく息を吐いて見せた。

「まったくしょうがないんだから…」

と顔を上げながら呟く様に言うと、その直後には、さっきから既に頭の中に浮かんでいた”ある事”を実行に移す為に、顔をグルッとお母さんに向けた。

「…ふふ、お母さん、襷を貸して貰える?」

「…え?襷?」

とお母さんが急に何事かと聞き返すのを聞くと、「えぇ」と私は自然と笑顔を浮かべつつ、皆を見渡しながら続けて言った。

「…ふふ、仕方ないから私も手伝うわ。…皆の着崩れを直すのをね?」


…ふふ、そう、ここでようやく話の一番初めまで戻って来れた事になる。

それからはすぐに笑顔に戻ったお母さんが快く襷を出してくれたので、お礼を返すと早速私は慣れた手付きで素早く襷掛けをした。

そんな私の手慣れた様子を、紫たちが熱い好奇の視線を飛ばしてきているのに気付きつつだ。

襷掛けが終わると、良いタイミングと麻里達が話しかけてこようとしたので、さっきの流れはもう御免だと、私は慌ててお母さんに声をかけて、それぞれ分担して直し始めた次第だった。


…さて、皆の着崩れを直している間に、暇つぶしにと少しだけ恥ずかしげも無く自分語りをまたしようと思う。

これまでに触れてこなかったと思うが、先ほども見て貰った通り自分で着付けが出来るくらいだから、当然として他人の着崩れを直す事も出来た。

この技術は、今更だが実はだいぶ前に既に身に付けていた。勿論と言うか、そのきっかけとしては、お母さんの実家である呉服店が大きく関係している。

以前にほんの軽く触れた程度だが話した様に、物心がつく前からよくお母さんに手を引かれて、浅草橋にあるお母さんの実家まで遊びに行っていた。

この訪問は幼稚園や学校が無い、もしくは午前までと早く終わる土日が主となっており、私が小学二年生に上がるのと同時に、師匠の元でピアノを習い始めるそれ以前は、毎週とまではいかないまでも、月に二、三度は行っていたと思う。

そう、つまりは私がピアノを習い始めてからは、レッスンが土日がメインとなっていたのもあって、ピアノにのめり込むのと同時に、どうしてもお母さんの実家に行く頻度は大幅に減ってしまう結果となり、それは今の今まで続いている。

しかしまぁ、これはお母さんが話してくれた事だが、もちろん…って、これまた私が言うのは”恥ずすぎる”けれど、それを忍んで続ければ、もちろん私が遊びに来る回数が減ったのは寂しいとしても、でもその代わりにそれだけ何かに打ち込めるものを孫が見つけたというのなら、それに勝る喜びは無い…と、まさに職人の世界に長年生き続けてきた祖父母らしい、またそんな二人からの言葉だったからこそだろう、初めて聞いた時には、幼心でも何か深く感じるものがあるのだった。

さて、遊びに行くたびに、職人気質のあまり喋らないお爺ちゃんと、それとは対照的に、まさに”お母さんのお母さん”って感じで性格というか雰囲気全体がそっくりなお婆ちゃんと一緒に過ごしていたのだが、当時の二人としては、んー…ふふ、これまた私が自分で言うのは変なのだが、ふとした瞬間に、よくこんな事を口にするのを聞いていた。

それは…『琴音ちゃんが遊びに来てくれるのは嬉しいけれど…私年寄りしかいない様な、こんな所じゃ退屈しちゃうだろうし、面白くないよねぇ?』

といったものだった。

まぁ今思えば、確かに一般から言うとそう言いたくなるのも分からなくもない。少しだけ呉服店の紹介となるが、実家とお店が一緒になっていて、祖父母は引退はしていないのだが、しかし既にお店の主な仕事は若い人に任せており、普段はお店の奥に引っ込んでいるのが、私が幼稚園生くらいの時点ですらその様な感じだった。

そう、その若い人の中にはお母さんもカウントされている。つまりは、お母さんがお店の手伝いに行くついでに、自分の両親が喜ぶからと私を連れてきていたというのが一つの真実の様だった。

話を戻して、確かに今触れた様に、今なら祖父母の言葉の意味が分かるのだが、「んーん、そんな事ないよ」と口では返しながらも、当時の私は何を彼らが言わんとしているのか、言われるたびに理解が出来ないというのが素直な感想だった。

というのも、当時の時点で私は既に、和服の魅力…と言うと大袈裟かも知れないが、普段自分が身に付ける衣服とは明らかに違う形状にして、その華やかにして色っぽく、艶っぽく、しかしそれでいて下品でないその装飾の数々などが目に入るたびに、子供ながらに好奇心が湧き上がってくるのが分かり、だから飽きるだとか、退屈するだとか、面白く無い事など一度たりとも無かったからだ。

…ふふ、そう、私はお母さんが仕事の間に祖父母に預けられるというそんな建前だったのだが、実家とお店が一緒だったのもあり、結局は居住空間ではなく先程も触れたお店の奥で過ごす事が殆どだった。

なので、奥とは言ってもお店には変わりなく、少し目を逸らせば店内が見える場所なのもあり、初めのうちは大人しく奥にいたのだが、最終的には着物や小物が沢山展示してあるメインの場所まで出て、一つ一つを眺めるのが習慣となっていたのだった。


…っと、ついつい初めてだというので、お母さんの実家である呉服店について、簡単にとはいえ時間的に長く触れてしまったが、ここでようやく、何故私が自分で着付けが出来る様になったのか、その話が出来る段階になったので早速入る事にしよう。

そんな風に幼稚園児の頃からお店に出て興味津々に着物などを眺めていたのが目に入ったらしい祖父母、特に祖母が嬉しがってくれたらしく、ある日遊びに行った時に、「着物を着てみるかい?」と前触れもなく不意に言ってくれたのが事の始まりだった。

当時の私はキョトンと呆気に取られてしまい直ぐには答えられなかったのだが、突然言われた言葉を理解するのと同時に、段々と実感が湧いてくると、嬉しさの余りにテンション高くお願いしたのを覚えている。

それからは、居住空間へと場所を移して…そう、今いるお母さんの趣味部屋とそっくりな形式の部屋に通されて、そこで祖母から着物の着方から始まり、着物を着ての畳の上での歩き方などの作法なりを習うというのが、いつからか遊びに行くたびのルーティンとなっていた。

んー…ふふ、これもお婆ちゃんとしては、実の本心からすると、もしかしたら孫に強制させてしまっているんじゃないか、嫌々なのを無理に教えてしまっているんじゃないかと心配していたらしいのだが、しかしそんな心配には及ばなかった。

私としては当然なのだが、一つ一つその様な作法を覚えていくのに、当時の私はとてもやりがい…というとオーバー…いや、子供ながらにやりがいを感じて、面白がりながら率先して習っていたのだから。

というのも、これは…うん、今のこの歳になると思春期特有のせいで素直に言い辛い部分があるのだが、これまでも何度も口にしてきた様に、やはり実の母親の姿に憧れを持っていたからだろう。

お母さんは昔から、家でもお父さんが連れて来る客を接待するので着物を着ていたのだが、他のお店を知らないので断言は出来ないまでも、少なくともウチの呉服店では、お店で客前に出る人は原則着物を着るのが義務となっており、それは勿論お母さんも例外ではなく、毎回ビシッと綺麗に着こなして接客をしていた。

因みに、客前がどうのと言ったばかりだが、客の目が届かない、届きにくいお店の奥にいるというのに、祖父母はいつも和服を着用しており、むしろ今現時点でも、和服以外を着ているのを見た事が無かった。

…っと、話を戻して、着物を綺麗に着こなしつつ、また常連から新規の客に至るまで、口々にお母さんのことを褒めちぎるのを、お店の中に出て目にしていた当時の私からすると、そんなお母さんの事を誇りに思うのが、まぁ…うん、当然と言えば当然だろう。

で…ふふ、これが恐らく分岐点というか分かれる所だと思うが、一方では仮に憧れは持ったとしても、自分には無理だろうとハナから諦めて同じ様になろうと目指そうとしない人が、恐らく分岐点と言いつつも五分五分ではなく、多分だが七割八割方はそうなると思うのだが、私はというと、憧れるのと同時に、自分もそうなりたいと強く思う少数派だったのもあって、話をここでググッと戻せば、『着物の着方なり、着物を着ての過ごし方、様々な作法を習ってみるかい?』という提案は、むしろ願ったり叶ったりで、多分…ふふ、うん、それなりに厳しい指導もあったはずだと思うのだが、しかしいくら思い返しても辛い思いをした記憶が微塵もなく、ただ一々教えられる事が普段生活しているのとはかけ離れていた為に、その面白さに夢中になっていた記憶しか無いのだった。


…っと、長々とまたしても回想してしまったが、とまぁそういうわけで、私はお母さんの様に日舞こそ習ってはいなかったが、それでも恐らく日舞で舞を習う中で一緒に習うであろう、着物の着方なり所作の仕方などはお婆ちゃんから習っていたおかげで、自分で言うのもなんだが一般的な基準で見れば、しっかりと身に付けることに成功していた。

…ふふ、今こうして話していて、てっきり私にとって初めてにして、現時点で最後の習い事は”師匠の元でのピアノのレッスン”と思ってきたのだが、考えてみたら私の一番初めの習い事は、お婆ちゃんからの教えて貰った、着物を着る上での立ち居振る舞いと、それに伴う様々なマナーだったのだと今更ながら気づいた。

…っと、そんな私個人の気付きなどどうでも良い話はこの辺にしておくとして、本編の方でも丁度いい頃合いとなってきたので、ここで本筋に戻るとしよう。


因みにというか結論というか、私たち親子で分担して着崩れを直すという流れになったのだったが、しかし実際のところは紫と麻里だけを直す結果となった。

というのも、藤花にしても律にしても、言うほどには崩れていなかったからだ。

ここはスペシャリストという事で、ズブの素人である私は出しゃばらずに、まずはそれぞれの見立てをお母さんに任せた。

まず手始めと律から見定め始めたお母さんだったが、結論から言うと少しの手直しだけで終わった。

「…うん、良し!律ちゃんは初めて見た時から思っていたけれど…ふふ、まるで頭の先から糸で吊られている様に、背筋がピンと伸ばして立っているという、着物を着る上で理想的な立ち姿をしてるだけあって、ほとんど着崩れしていないわね。長い事ここまで移動してきたというのに…ふふ、完璧よ」

とお母さんがここまで一気に言い切ると、最後にウィンクを添えた。


…っと、さて、ここで良い機会だからと、今更感も否めないのだが、皆の浴衣について簡単に紹介してみたいと思う。

それぞれがこの日のために用意したものなのだから、本人たちのためにもお付き合い願おう。

まずは律から。濃紺色という落ち着いた色合いを下地に、薄い黄色から白、そして徐々に濃い紫色へと変化するというグラデーションがなされた、葉がスッと伸びている菖蒲が様々な方向に伸びる形で柄が描かれており、その凛々しい品の良さが律の雰囲気にマッチしていた。帯はシンプルに、若干紫がかった白だった。髪型はショートヘアーをそのままにしていた。

次に藤花。これまた…ふふ、丸みを帯びた可愛らしい梅柄が描かれた浴衣だったが、下地が真っ赤と言って良いくらいのビビッドな華やかさが、当人の天真爛漫なキャラクターと似合っていた。と同時に、これは本人が意識してかどうかは別にして、そもそも梅というのはパッと見では柔らかな印象なのだが、寒い冬を越えて春になると真っ先に花を咲かせる事から、『不屈の精神』や『忍耐』を表す花とも言われている…というのを既に知っていた私は、まさに”内面の藤花”に似合っているという感想を持っていた。…っと、忘れる所だった。帯はまた濃い目のパステルカラーチックな水色で金魚が描かれており、その派手さが真っ赤の浴衣と合わさると絶妙なバランスが保たれていた。ショートマッシュボブの頭は特にいじらずに、律と同じくそのままにしていた。

お次は紫。紫は今時の女子らしく、淡い水色を下地に赤、黄色という椿の花が何輪も咲き誇っている柄が綺麗な、最近流行りの浴衣となっていた。色からして軽やかで明るい印象を初めは見る者に与えるが、しかし子供っぽさは良い具合に感じさせないのが肝となっていた。帯は薄ピンクの可愛らしい色合いだった。前髪なしの天然パーマのカールボブヘアーは、うなじ付近でルーズな団子を作っており、普段は見た事がないスタイルだったが、新鮮さと共に、今の浴衣姿にとても似合ってるという感想を覚えた。

さて、この場にはまだ裕美がいないので、実質最後の紹介となった麻里の番。これまた私個人のあくまで印象だが、麻里のイメージに合ったものだった。純白の下地に、大小様々な金魚が布地を泳ぎ回っており、その隙間を埋めるかのように程よい数の風鈴が描かれていた。ある意味でこのような柄物は着こなすのが難しいと思うのだが、しかし浴衣初心者であるはずの麻里は、私から見ると上手く着こなしており、帯も藤花の浴衣バリなインパクトのある真っ赤な色を発しており、金魚が基本赤色なお陰なのか、それが上手くフィットしている様に見えた。普段から頭頂部あたりと高い位置でお団子を作る髪型をしていた麻里だったが、今も同じ様にしつつも、普段はゴムで纏めているのを今回はかんざしで纏めていた。その”和”な感じが一層今の格好と似合っていた。


…さて、皆の浴衣紹介はこの辺りで終えて話を戻すとしよう。

急にいっぺんに色々と褒められただけでもタジタジだったというのに、さらに最後にお茶目なウィンクをお母さんから食らってしまうと、「は、はぁ…はい、ありがとう…ございます?」と、何故か最後は疑問調で返しているのが印象的で、時折救いを求める様にこちらに視線を流してきた律に対しては、ただイタズラっぽく笑い返すのみに留めた。

次に流れで一番側にいた藤花へと移ったのだが、結論から言うと藤花もこれといって直す点が無かったようだ。

「体育会系の律ちゃんも然る事ながら、普段から歌を歌うというので体幹がしっかりしているお陰か、律ちゃんと変わらず背筋がピンと伸びているのねぇ…ふふ、さすがはウチの娘が褒めちぎる歌姫なだけあるわ」

とまた、律に対してと同じように最後まで一気に言い切るのを受けると、「あ、ありがとうござい…ます?」と、さすがの藤花もこれには苦笑いで律と同じように疑問調で返していた。

やはりこちらに視線を流してきてはいたのだが、この時は正直私も当事者だったというか巻き込まれた形となったので、自分からも苦笑いを返したのは言うまでもない。


因みにというか、今まで触れてこなかったように、まだというかお母さんは実際には藤花の歌をまだ聞けずにいた。

本人としては、私と師匠が月一の頻度で教会を訪れて藤花が歌う賛美歌の感想を夕食時に述べるのを聞くたびに、自分も行きたかったと返すのがデフォルトと化していたのだが、それはどうやら本心からのようだった。

だがまぁ、これが不幸というか、先ほど長々と話したように、ミサがある日曜日は、お母さんが実家の呉服店を手伝う時と思いっきり被ってしまっている上に、去年の文化祭で私と一緒に後夜祭に出て歌った時も、あの時もお母さんは文化祭に来ていなかったのもあって、繰り返しになるがまだ聞けずじまいだった。

なので、今のところ私と師匠からの感想を受けての印象しか持っていないはずなのだが…ふふ、さっきお母さんは『ウチの娘が褒めちぎるから云々』とテキトーな事を口にしていたが、私からはともかく、やはり師匠がまた褒めちぎるのを聞いていたので、強い印象を持っていたことは確かなようだ。


さて、そんなわけで、本当にここで話の一番初め、その手前まで戻るのに成功したが、結論としては紫と麻里の二人を直す事となり、紫はお母さんが、麻里は私がという役割分担となった。

これは単純に、一番側に誰がいたかで決まっただけで、何か深い理由があった訳ではない。

…ふふ、ついでに言い訳をさせて貰えれば、こうして誰の着崩れを直そうかと決めたのは、私ではなくお母さんなのだったが、別にこうして触れたからといって、着崩れをしてしまった二人を貶める気はサラサラないとだけ、多分そんな誤解は起きないだろうが、一応念のために言っておこうと思う。

…ふふ、これまた誤解を恐れずに言えば、紫も麻里も、私の身の回りとしては一番”一般の女子校生”らしい女子なので、着慣れない浴衣を着て着崩れをしてしまうのは当然とは言えば当然なので、私もお母さんも、これといった考えを腹には一切持たずにサッサッと慣れた調子で直していった。で、ようやく本当に一番初めに戻る。


直している間、麻里だけではなく、お母さんに直して貰っている紫からも、「本当にあなたは、私たちと違ってこんな作法まで身に付けているんだからなぁー…ふふ、やっぱり浮世離れをしているわ」と、すぐ側にお母さんがいるというのに、ズケズケと言ってのけていた。

「うるさいわねぇ…」と、そんな言葉を貰うたびに手つきが荒くなってしまったために、「く、苦しい…」と麻里が呻きながらも笑顔で口にするというやり取りが何回か交わされ、お母さんはというと、そんな言葉を口々に好き勝手吐いている紫たちに対して、ただ「あはは」と明るい笑い声を愉快げに上げているのだった。


紫と麻里だけではなく、これは藤花と律もだったが、そもそも作り帯だったのもあって簡単に直しが終わると、紫と麻里はそれぞれに対してお礼の言葉を口にしたので、私とお母さんからも自然体…ふふ、いや、お母さんは自然体だったが、私は敢えて傲岸ぶりつつ返した。

すると途端に「あー、偉そーう」と反応する藤花をキッカケに、皆から一斉に同じような言葉を貰い、今回は狙い通りだったので、私も一緒になってすぐに笑いの中に入っていった。

その後は、お母さんが皆に着崩れし難い作法や、後でまた着崩れしてしまった時のために、簡単な直し方法を教えると、それからは揃って居間へと戻った。


私を含む皆を食卓に座らすと、お母さんは先ほど出す直前で戻し入れてしまった、自家製のアイスティーが入った容器を取り出し、人数分のグラスに注ぎ入れた。

と、その時、このタイミングでチャイムが不意に鳴らされた。この時点で大方誰の訪問かは、恐らく私だけではなく他の皆も察していただろうが、「あら、来たわね」とニヤけつつお母さんが呟いたかと思うと、「じゃあ琴音、私が出るからみんなに出してあげてね?」と言い置いて歩き始めたのを見て、「えぇ、分かった」と返事を返しつつ私はスクッと席から立った。

そして、居間から出ていくお母さんの後ろ姿をチラッと見てから、私はもう一つのグラスを新たに出して、そこに氷を入れると、トクトクとアイスティーを注ぎ入れた。

「あら、いらっしゃーい」とその時、玄関の方から声が聞こえた頃、グラスだけではなくコースターとシロップもオボンに乗せ終えて、食卓まで運ぶ所だった。

「お待たせー」と言いながら、それぞれの前に私がコースターをまず置いて、それからその上にグラスを置いていき、その度に皆からお礼を貰っていたその時、カチャっという小気味のいい音と共に居間のドアが開いた。

と同時に姿を現した人物を見た次の瞬間、「…ふふ、来たわね主役が」と私はニヤケつつ声をかけた。

そこに立っていたのは…ふふ、言うまでもなく裕美だった。

「主役って何よー?」

と開口一番に何を言うんだと、裕美はまずジト目を私に一発くれたが、しかしすぐに私と同じ様にニヤッと笑って見せると、「お邪魔しまーす」と居間の中へと足を踏み入れた。

「いらっしゃーい」

とまず藤花が座ったまま、まるで遠くにいる人物に向ける様に大きく腕を振りながら言うので、「…ふふ、あなたの家じゃないでしょうに、何が『いらっしゃーい』なのよ」と細かいツッコミをニヤニヤしながら私はツッコミを入れた。

「えー、別に良いじゃなーい?」

と口元を緩めながら不満げな声を漏らす藤花の直後、「細かーい」と紫が後に続き、麻里はただ明るい笑い声を上げて、律も品よくクスクスと小さく笑みを零していた。

「ふふふ。…あ、ありがとう」

と、いつの間に側に来ていたのか、お母さんが手を差し向けてきたので、ずっと手に持っていたオボンをお母さんに手渡した。

「いーえー」と間延び気味に返すと、お母さんはそれを持ってキッチンへと引き上げて行った。

「ごめんねー?遅くなっちゃって」

と裕美はすぐには席につかずに、椅子の背もたれに手をかけながら言った。

「ふふ、待ちくたびれたわよ」

と私が席に着きながらニヤケつつ言い、「あはは、正直だなぁー」と藤花と麻里に突っ込まれ、「そうだよー?お姫様を待たせるなんて」と紫が、私と裕美の顔を交互に見つつ言うので、「ちょっとー?」と私がすかさず口を挟む中、「あはは、ごめんねー?」と裕美が表情を緩めながら頭を深く下げてきた。

「まったく…」と私が呆れ笑いを漏らすのが聞こえたらしく、皆が明るく笑う中、ゆっくりと頭を上げた裕美の顔にも同様な笑みが広がっていた。

「あはは。…って、裕美の浴衣も可愛いねー」

とまだ皆の顔から笑顔が引き切らないその時、表情明るく藤花が裕美に声をかけた。

それをきっかけに、他の皆も一斉に藤花と同じ様な言葉を投げかけ始めたのだが、そんな中、ふと裕美の浴衣姿を見て不意に懐かしい感覚に襲われるのに気づいた。

直後は、ただ単純に二年前の夏を思い出したからだと思ったのだが、大きくは違わなくても、しかし具体的な点について気づくには少しばかり時間がかかってしまった。

だが、それに気付いたのと同時に、思わず一人で周りを差し置いて微笑を零してしまった。


というのも、裕美が今着ている浴衣にまつわる曰くのせいだ。

紫たちから褒めちぎられているその浴衣は、濃いオレンジ色地に、赤く細いラインが入っており、満開の鉄線の花が、白と黄色の二色で飾られていた。帯はシンプルな濃い青色という組み合わせだった。

…ふふ、これだけ聞いてすぐに思い出せた方がいたとしたら、それは凄まじい記憶力という事で称賛を差し上げたいと思うが、一応補足すると、今述べた浴衣というのは、何を隠そう二年前、そう、私とヒロ、そして義一と共に絵里のマンションの一室で、花火大会を観覧した時に身に付けていたのと同じものだった。

細かい話はこの時も、そしてこれ以降も聞いてはいなかったが、しかし普通に考えて、二年前と比べれば成長期にあるというのもあって、縦なり横なり、出るところが益々出る様になったりと、全体的に、それなりにサイズが大きくなっていくわけで、それに伴い仕立て直しているのは間違いなかったのだが、しかしそれ以外は少しの変更もなされていない様に見受けられた。

…ふふ、この二年前を再現するかの様に、全く同じ浴衣を着てくるだけでも微笑ましかったのだが、しかしその裏に隠された本心が見えてしまった事で、尚一層微笑まずにはいられなかったのだ。

というのも、覚えておいでだろうか?花火大会が終わった後で、すぐには解散せずに余韻に浸りながら、しばらく絵里のマンションで歓談していた事を。

義一と絵里という大人チームと、私、裕美、ヒロという子供チームに途中から分かれて、それぞれでのんびりとした時間を過ごしていたのだが、普段通りの雑談の流れの中で、ただのその場の気紛れな思いつきだったのだが、自分と裕美の浴衣を比べて、どっちが綺麗かを私がヒロに質問したのだった。

んー…ふふ、まだこの当時は裕美の気持ちに気付いていなかったので、質問した瞬間にあからさまにテンションを落として、顔を少し俯きつつも、チラチラと目だけをヒロに向けるという裕美の様子に対して何とも思わなかったのだが、それはともかく、ヒロは馬鹿正直に私と裕美の姿をマジマジと舐める様に観察した後で…ふふ、なんとヒロは裕美の浴衣を選んだのだった。

「…え?」と裕美はボソッと短く、声を漏らすのがやっとといった調子で返していたのが…ふふ、今全てを分かった上で思い返すと、こうして話しながらも微笑みを浮かべてしまうが、何も知らない私が普段通りに、何で裕美を選んだのかと聞いたのだった。

すると、自分が選ばれて、裕美がどれほど嬉しかったか知らない故もあるのだろう、そんな質問にヒロが答えた言葉というのが…

『だって琴音、お前の浴衣は色が全体的に暗すぎて、今いるベランダにいるとよく見えねぇから、そもそもよく分からねぇんだよ。それに比べて、裕美のはこんなに薄暗くてもちゃーんと何の柄か分かるほどに、明るい生地じゃねぇか。濃いオレンジでよ。だから…琴音みたいな見辛い辛気臭い色合いのものよりも、裕美みたいな明るい、暗くても模様まで分かる様なのが、俺好みなんだよ』

…といった感じだった。

これを聞いた当時の私と裕美は、初めの動機は当然違うのだが、同じ結論に達したらしく、二人揃って呆れ笑いを浮かべてしまい、そんな私たちの様子を不思議がるヒロを放っといて、二人でクスクスと笑い合ったのだった。


…っと、ついつい詳細に亘って思い出話をしてしまったが、でもまぁ今の話を聞いて頂いただけで、現在の私が何故裕美の浴衣姿を見て微笑んで…いや、もっとズバッと言ってしまえば、何故思い出し笑いをしてしまったのか分かって頂けただろう。

そう、ヒロのあまりにもどうしようも無い選んだ理由も当然覚えているだろうが、あれだけ私と一緒に呆れて見せたにも関わらず、久しぶりに浴衣を着る機会が巡ってきたという中で、こうしてヒロが褒めてくれた浴衣をそのまま仕立て直してまで二年越しにまた着てくるなんて…ふふ、この手の事については、同年代の誰よりも疎いのを自覚している私ですら、それが何とも…ふふ、この言葉がこの場合適しているのは微妙だが、とてもいじましく感じ、んー…ふふ、そんな裕美に対して思わず抱きつきたくなる様な衝動を覚えるのだった。

…ふふ、これは本当に話にはそこまで関係の無い補足というか蛇足だが、裕美の浴衣を仕立て直してくれたのは、お母さんの実家の呉服店だったというのを後で知ったと付け加えさせて頂き、話を戻すとしよう。


だが実際は、当然腰を怪我しているというのもあり飛びつく様な真似はせず、皆から感想を投げかけられて照れっぱなしの裕美の様子を遠目で微笑みつつ眺めていた…のだが、ふふ、やはりというか、ここにきて揶揄いたくなってしまった私は、そろそろ皆の熱が冷めてきたのを見計らって口を差し込んだ。

「…ふふ、”やっぱり”似合ってるわよ裕美」

と私が、あえて多くの言葉は言わずに、ただ短く、しかし意味ありげな微笑を浮かべつつ声をかけると、「ありが…とう?」とすぐには何故そんな態度を私が取っているのか理解が追い付かない様子だったが、しかしものの数秒ともしないうちに察したのか、「…あ」と裕美はハッとした顔つきを見せた。

そしてそのまま裕美は微妙そうな表情を浮かべていたが、「う、うん…ふふ、ありがとうね」と、最後は少し苦々しげな顔つきを見せつつも笑顔でお礼を返すのだった。

そんな私と裕美のやり取りを見て、二人の間に一瞬流れたビミョーな空気を感じたらしい他の皆は、不思議そうな表情を浮かべながら眺めていたのだが、だからといって、これといって疑問を投げかける者は一人としておらず、そのままお祭りムードに流されて無事通過となった。

その代わりと言っては何だが、今の今まで私たち子供達の何気ないやり取りを、笑顔を絶やさずに眺めていたお母さんが、「立ち話もなんだし、裕美ちゃん、そろそろ座ったら?」と声をかけた。

その言葉を受けて裕美は、照れ臭そうに首筋を指先で掻きながら素直に従い開いている席に腰を下ろした。

奇しくも…って、それほど奇しくも無いか。別に打ち合わせなんかしなかったのだが、それでも食卓には例の喫茶店でと同じフォーメーションで座る事となり、裕美が席に着くなり早速皆で乾杯をするのだった。


対面型キッチンの一つの形態であるアイランドキッチンをテーブル代わりにして、椅子を側に置いて座っていたお母さんとも乾杯を済ますと、各々が一口ずつ飲み終えた後は、まだ若干の時間があると、少しばかりの雑談というか歓談を楽しんだ。

勿論最初は裕美の腰についてに話題は集中したのだが、その中で教えてくれた話によると、午前中の検査の結果などを教えてもらった限りでは、今のところ異常は見られず、むしろ順調に回復していっていると、例の整形外科部長から説明を受けたとの事だ。

因みに私には直接関係がない事だが、今日の病院での花火観覧会に、彼も診療時間が終わるなり着替えてそのまま参加すると、合いの手代わりにお母さんが情報を提供してくれた。

「そういえば…浴衣着ても大丈夫なの?」と誰かが質問をすると、私も少し気になっていたので口を挟まずに返事を待つと、

「私もどうかと思って先生に聞いてみたら、むしろ浴衣とかの和服を着るのは、普段着よりも良いって話もあるって答えてくれたよ。何でもね、ほら、浴衣でも帯を締めたりするから、自然と背筋を伸ばす事になるでしょ?それはつまりは正しい姿勢を自然にしちゃうって事で、それが一番腰に負担がかからない体勢らしいの。だからね?勿論今も下にはコルセットをしてるんだけど、帯もある意味コルセットと同じ効果を持つってんで、むしろ推奨してくれたよ」

…との事だった。

担当医から聞いたという説明を、私含む皆で感心しながら興味深く聞くと、急にここでお母さんが思い出したらしく、その内容をそのまま口走ったので、話題が急にガラッと趣の違う方向へと向かった。

その中身とは…「そういえば、みんなはここでお菓子を作ったのよね?お見舞い用の」といった内容だった。

そう声を掛けられた”お見舞い組”は、お互いに顔を見合わせると、まるでイタズラが見つかった子供の様に、照れ笑いと苦笑いを同居させた様な複雑な笑みを浮かべつつ、

「あー…はい、そのー…勝手にキッチンを使ってすみません」と、学級委員長らしく代表して紫が口にすると、「すみませーん」と他の皆も後に続いた。

そんな皆からの返しに「あはは、別に良いのよー?」と、お母さんは朗らかに笑いながら返した。

既にお母さんには話が当然通っていたし、最近では焼肉屋でもこの話題で盛り上がったので、双方ともに冗談調だったのは言うまでもない。

「琴音に聞いたけれど、上手に作れたんですってね?…ふふ、今度私も作ってもらおうかしら?」

と最後に悪戯っぽく笑いながらお母さんが言うと、その打ち上げの席でも言われたばかりだというのに、まるで初めての様に、見るからに肩の力が抜けた様子の皆は一斉に、そのお母さんからの提案に各々が各々の言い方で返すのだった。

それからは、実際に食べた裕美の感想に始まり、しばらくの間は、んー…ふふ、うん、私としては”何故か”なのだが、確かに稀にお菓子を作って学園などに持って行ったりしていたので、その時に食べた私の手作りお菓子について話が盛り上がりだすと、あっという間に時間は過ぎ去り、いつの間にか四時半という出発予定時刻となった。


「お邪魔しましたー」

と玄関先で下駄を履くなり、それぞれが挨拶をかけると、「いーえー、あんまりお構い出来なくてごめんなさいね?」とお母さんは笑顔で返していた。

「…さてと」

と、玄関を開けっぱなしにしているせいで、既に外に出ていた皆の様子を一度目に入れてから、尻元に置いていた手提げバッグを手に持つと、一応最後の確認と忘れ物がないか中身を確認し始めた。

と、その時、「そういえば…」とお母さんが、私の頭上に向けて声を降らしてきた。

「絵里さんとは、土手で待ち合わせしているのよね?」

「うん、そうよ」

と私は顔だけを上げると、すぐ目の前に見えたお母さんの顔を見上げつつ答えた。


…そう、絵里とは別行動というか、今お母さんに答えた通りで、別に裕美たちと同様に私たちの自宅で待ち合わせでも良かったのだが、”とある大きな理由”があった為に、打ち合わせ段階で、花火大会が催される土手という現地集合と相成ったのだった。

なぜ絵里だけ別々の行動になったかと言うと…ふふ、それは後でのお楽しみだ。


「絵里さんとも、一緒に浴衣を着て花火を観たかったわぁ」と、玄関先ではなく、外の通りに面した門扉まで見送りに出るというので、自分も下駄を履きながらお母さんが言うを聞いて、既に下駄を履き終えて外に半歩踏み出していた私は、足を止めると振り返って言った。

「ふふ、いつも日舞の稽古中だとか、その後でのお茶の席で、散々一緒に過ごしているじゃない?」

と私が生意気かつ挑戦的な笑みを浮かべつつ言うと、「あれは着物でしょう?」と、私と同じ類の笑みを負けじと浮かべつつ、下駄を履き終えたお母さんは外に出ながら続けて言った。

「たまにはと言うか、ああしたフォーマルな場だけではなく、同じ着物、和服、和装を愛する者同士、浴衣をお互いに軽くカジュアルに着ながら、縁側にでも座ってお喋りしたいのよ」


…ふふ、お母さんにしても絵里さんにしても、私たちが考えるカジュアルとは程遠いくらいに、浴衣でもビシッと着ているけれどね


と、お母さんの姿を眺めながら心の中でツッコミを入れつつ、表向きはやはり生意気な笑みを浮かべていると、「ん?なによ、その意味深な笑いは?」とお母さんが薄目を使って声を掛けてきたので、「べっつにー」と私は澄まし顔を作って返した。

「まったく…ふふ、すっかり生意気になっちゃって」

とお母さんが呆れ笑いを浮かべつつ呟くのを受けて、私は今度は敢えて満面の笑みを浮かべて見せるのだった。



さて、ここで簡単な補足を入れさせて頂こう。聞いてお分かりの様に、お母さんはそろそろ絵里と付き合いもそれなりに長くなり始めたというのに、まだ絵里”さん”と”さん付け”のままだった。

お母さんの数多くある特質の中の一つに、年下の人と仲が良くなり始めると、まず間違いなく相手の下の名前を”ちゃん付け”で呼ぶのが恒例となっていたのだが、これまでは例外がなかった為に、こんな細かい事と思われるかも知れないが、そんな首尾一貫した性質に変化が見られたというので、娘の私としては気になってしまい、ある日に訳を聞いてみた事があった。

すると、「あなたに言われてみて、私は確かに年下にはちゃん付けする事が多いのだけれど…ふふ、絵里さんは日舞の先生だしね。それに今度師範となったからには、もう尚更”ちゃん付け”は出来ないわ」と愉快げに答えてくれたのだった。


「おーい」

と藤花がレンガ調のアプローチ上で声を上げながら手を大きく振り回しているのが見えたので、そんな幼気で無邪気な態度を取っても、良くも悪くも一切の違和感を受けない事を含めて、歩きながら思わず笑ってしまいつつ、私からも胸の前で小さく振り返した。

「今ね、皆と少し話してたんだけど」

と、私とお母さんが到着するなり、紫が周りを見渡しながら口を開いた。

「ほら…ふふ、この後で色んな人達と合流していく訳だけど、その前にさ?その…今回は、裕美の退院祝いパート2って意味もあるじゃない?」

「パート2ぅー」

と藤花はブイサインを手で作ると、それを前にビシッと突き出した。

そんな藤花に麻里が明るく笑い、私、律、そしてお母さんはクスクスと微笑むと、紫も明るく笑いながら先を続けた。

「で、ほら…前回さ?退院したら私たち皆の写真を取ろうって話をしていたじゃない?」

「…えぇ」

と、もうこの時点で紫が言わんとする所が既に分かっていた私だったが、しかしここで口を挟むのも無粋だと、短い相槌だけに留めた。

紫は続ける。

「今回私たちだけって時間は、今くらいしか作れなさそうじゃない?だからさぁ…ふふ、ちょうど今は琴音、あなたの自宅にお邪魔しているし…カメラマンの麻里センセイによれば、写真を落ち着いて撮れるという点において、ここ以上の場所は簡単には見つけられないだろうって言っててさ?」

と紫が話している途中から、麻里はなにやら自分の手提げバッグの中をゴソゴソと探り始めていた。

「それに対して、裕美も含む皆ですぐに賛成してね?だから、その…ここで写真を撮りたいと思うんだけど、どう…かな?」

と紫が私に問いかけると、

「どう…ですか?」

と後に続いて、手提げバッグからミラーレスカメラを取り出した麻里も、胸元の高さで両手で持ちながら、お母さんに声を掛けた。

その直後には、それまでガヤガヤと騒ついていた他の皆も、私たち母娘の反応に注目しようと熱い眼差しを向けてきた。

それを受けた当の私達はというと、やはり想像通りの提案だったのもあり、また紫が言ってくれた様に以前に既に決めていた事でもあったので、自分としては反対する理由自体が見つからないくらいに賛成だったのもあり、結局は他の皆と同じ様に、私もジッと隣に立つお母さんの反応を待った。

少し間が開いたように感じたが、実際には直ぐと言って良いくらいのものだっただろう、お母さんは途端に愉快げな明るい笑みを浮かべると、私含む皆を見渡しながら口を開いた。

「あはは!私たちの家を被写体の背景に使ってくれるのね?…ふふ、もちろん別に構わないわ。好きにジャンジャン撮っちゃってね」


「やったー」

と藤花が喜びの声を上げる中、「ありがとうございます」と学級委員の二人が軽く頭を下げてお礼を述べていた。

頭を上げた二人の顔には明るい笑顔が浮かんでいる。

「いーえー…って、あ、そうだ」

とお母さんは表情を緩めたまま口を開いた。

「皆の写真を撮るのよね?だったら…ふふ、私が撮ってあげるから、麻里ちゃん、私にその格好良いカメラの使い方を教えてくれない?」

「あ、は、はい。すみません…」

と、照れと申し訳なさが胸の中で同居したあまりに、辿々しく口にしながらも、しかし懇切丁寧にカメラの操作方法を説明していたが、私はというとこの間を使って、最後の確認と、まず自分のを整えてから、次に近くにいた人から順番に皆の着ている浴衣のお直しをし始めた。

居間に遅れて登場した直後は、場の流れ的に見れなかったので、最後に裕美の着崩れを念入りに直し終えると、ちょうどお母さんへの説明も終わったようだった。


さて…ふふ、これまたそろそろ定番となりつつあるが、やはりここからは毎度の如く麻里の独壇場となった。

麻里は門扉をバックに立つと、何度もカメラのファインダーと自分の目で見比べながら、私たちに事細やかな指示を出してきた。まさにカメラマン然といった感じだ。

もう慣れっこだったとはいえ、「もーう、まだー?」と愚痴っぽく言葉を吐きながらも、素直に指示に従う私たちの様子を、麻里の隣で立って眺めていたお母さんは朗らかな笑みを浮かべていた。


ようやく完成したらしい配置なりポーズは、普段とは若干の趣が違うものとなった。

大概において麻里が設定する時の写真の立ち位置は、私と律が何故か中心に立たされて、その私たち二人を挟む形で脇に藤花と裕美が立ち、私と律の前に腰を屈めた紫と麻里が来るというのが定番となっており、それは今現時点のグループSNSのサムネとなっている、修学旅行で行った厳島神社の大鳥居をバックに撮った写真の構図がまさにそうなっていたのだが、今回はというと、私と律は真ん中にはならなかった。

代わりに両端に立つ形となり、私と律の間に裕美と藤花が来る形となった。普段と真逆だ。

だがまぁそれ以外は、紫と麻里が私たちの前で中腰になる点など他には変更点は無かった。


「じゃあ、すみませーん。さっき言った通りでお願いしまーす」

と麻里がカメラを手渡しながら声をかけると、「うん、任せてー」とカメラのファインダーを覗き込みつつ、お母さんは戯けながら手を振りつつ返した。

その言葉を背中に受けながら、私たちの元へと早歩きで到着した麻里は「お待たせー」とまず口を開いた。

「もーう、待たせすぎー」

と言う紫に始まり、「あはは、毎度毎度、写真については凝るんだからなぁー」と藤花や裕美がニヤケながらツッコミを入れて、それに対して「いやぁー…」と照れ笑いを浮かべる麻里…という、これまた見慣れた光景を見て、私は一度遠くに立つ律に目配せをした。

律の方でも同じ心境だったらしく、口にせずとも微笑み返してきたのを受けて、私からも微笑んでから皆に声を掛けた。

「…ふふ、でもさ?今のサムネにしてもそうだけれど、麻里がこだわるだけあって、今までのどの写真も良いものばかりだったから、時間がかかっても別に良いじゃない?」

「あ、え、えぇっと…」

と、私からしたらまたしても”何故か”と言った感じだが、さっきまでよりも麻里は照れ始めた。

そして「あ、ありがとう琴音ちゃん」と照れすぎた為か苦笑いになってしまいながら麻里が言うので、「え、えぇ…」と私も戸惑いげに返した次の瞬間、「出たぁー」と裕美がニヤニヤしながら声をあげた。

「出たぁー」とそれに続いて藤花も続き、「ふふ、流石お姫様」と企み笑顔で紫が最後に余計な言葉を吐いた。

「あのねぇ…何が”でた”って言うのよ?」

と私がジト目を作ってツッコミを入れようとしたその時、パンパン

と柏手が何度か鳴らされたのが聞こえたので、私たちはピタッと言動を止めた。

そして音がした方角を見てみると、カメラを正しく持ち直したお母さんのニヤケ面がそこに見えていた。

「ふふ、盛り上がっているところ悪いけれど…そろそろ写真を撮らせてもらえる?」


「ふふ、ごめんなさい」

「あ、すみませーん」

と私たちが声を揃えてバツが悪そうに笑いながら謝ってからは、妙に慣れた様子のお母さんの掛け声の元、数枚パシリと写真を撮られて行った。

お母さんがカメラを下ろしたのを見たのを合図に、私含む皆でお母さんの元へと早歩きで近寄り集まった。

「どうかしら?」

とお母さんが口にしながら手渡すと、「えぇっと…」と口に出しながら、麻里は早速撮ったばかりの写真を確認し始めた。

麻里は皆にも見えるようにだろう、今私たちは輪になる形で固まっていたのだが、その輪の中心にカメラを持っていくと、カメラ背面の液晶画面を見せてくれた。

そこには今撮られたばかりの写真が映し出されており、いくら夏真っ盛りな時期とはいえ、夕方も四時半から五時になろうという時間帯だったのもあり、陽光も昼間のような白に近い色合いよりも黄色がかった…いやむしろ今の段階ではオレンジ色が混じり始め、それを受けて白塗りの壁もほんのりとした柔らかいクリーム色を発する自宅を背景に、天然のお化粧効果を生み出してくれていた夕影の中、そんな柔らかな光に照らされた私達の姿は…ふふ、自画自賛も甚だしいが、それぞれの長所が上手いこと強調されて浮かび出されているという、つまりはどの写真も良いものだった。

それは私だけではなく、麻里含めた皆も同じ感想だったようで、口々に写真の腕を褒めつつお母さんにお礼を述べていた。

そんな皆からの賛辞に「ふふ、ありがとう」とお母さんは照れ笑いながらも、態度としてはオーバーに胸を誇らしげに張りながら返していたのだが、そんな対応をしているお母さんを苦笑しつつ眺めていた私は、ふとこの時、他の皆の影に隠れて不穏な行動をする一名に気づいた。

その人物とは麻里だった。

何をしていたのかと言うと、麻里は少し皆から離れたところに立つなり、両手の人差し指と親指を使って四角い枠を作ると、その中にお母さんの姿を入れ始めて、そのまま今度は家を入れると、最後に流れで枠を私に向けてきたのだ。

と、この時に必然として、ずっとそんな行動を取っているのを眺めていた私と視線がかち合ったのだが、向こうの方ではどうやら私が気付いているのに気付いていなかったらしく、「…あ」と声には出さなくとも、そう言いたげな口の形を見せていた。

そしてその直後には、途端に「いやぁ…えへへ」と例の麻里印な特徴のある笑みを浮かべ始めた。


まったく…またロクでもない事を思いついているんだろうなぁ


と直感した私は、一瞬は苦笑を浮かべながらも、直後には口元のニヤけは残しつつ、薄目を使って自分から声を掛けた。

「…ふふ、麻里?今度はまた一体何を思いついたのよ?」

「え?」

と麻里は、さっきまで見つめ合っていたというのに、まるで今初めて顔を合わせた上に急に話しかけられて驚いた…とでも言いたげな反応を示していたが、「なになにー?」と私達の様子に気付いた他の皆の注目がこちらに集まってきた。

「どうしたのよ?」

と真っ先に紫が何気ない調子で声を掛けると、「う、うん。えぇっとねぇ…」と麻里は一度、私から顔を逸らすと、周りに集まってきた皆の顔を眺めまわし始めた。

その流れの中で当然ながら一度経由していたのだが、ぐるっと一周し終えると、今度は私とお母さんの二人だけを交互に眺め始めた。

「ん?どうしたの麻里ちゃん?」

と不思議そうに、素直な反応でお母さんが声を掛けると、「あ、あのー…」と、そんなふんわりとした態度に緊張が解れたのか、顔はお母さんに固定したままに、麻里は時折こちらに視線を流しつつ口を開いた。

「急に不躾というか、変なことを言われると思うかもですけど…突然ですが、そのー…琴音ちゃんと、琴音ちゃんのお母さんの、二人の写真を撮らせてもらえませんか?」

「…え?」

と、何の前触れもなく急なお願いだったせいで、当然の反応としてキョトン顔を見せつつお母さんは声を漏らしていたが、もう慣れっこだった私はというと、

「…出たわ」

と、大方の予想通りな言葉だっただけに、一旦大きく溜息を吐いてから、呆れ笑いを添えつつ言った。

すると、これまた毎度のパターンだが、「出たぁー」と明るい声を上げる藤花を取っ掛かりに、

「始まったよ、麻里のカメラマン精神が」とニヤケながら続く紫、

「さすがは学園内での琴音ファン筆頭なだけあるわ」と、やはりニヤケ顔の裕美という順に他の皆はテンションを上げつつ、渋い笑みを浮かべる私の反応を他所に同じような声を上げ始めた。

「ちょ、ちょっとー…ふふ、ファンがどうのって話は、今は無しにしてよー」

と途中からは、さっきまではバツが悪そうだったというのに、この通り参った風な口調で表情も初めはそれに合わせていたのだが、すぐに冗談含みな開き直りに近い笑顔を浮かべ始めた麻里も加わった事で、クスクスと一人微笑を零す律に見守られながら、時間が経てば経つほど場は盛り上がる一方だった。

そんな皆の様子を恨めしげな視線を飛ばしながら、キリがないと水を差すべく、私は無理やり話の輪に割り込んだ。

「…もーう、麻里はまた余計なことを思い付いて…。…ふふ、もう時間が無いでしょうが」

と私は、手首に巻いた、普段身に付けているのとは少しばかり違う、腕時計に目を落としつつ言った。


因みにこれは、普段使いもそうだと言えばそうなのだが、しかし今回は浴衣に合わせてというので、着物を着る時にも身に付けている、私やお母さんの区分け方で言うと”和装用”に揃えていた幾つかある中から一つ選んだ、小ぶりにして華奢な作りの、全体的にブレスレットのような雰囲気があり、時間を知るツールとしての実用的よりも芸術品としての趣が色濃い代物となっており、欧州のブランドなのだが、しかし意外や意外にも和装である着物や浴衣と不思議とマッチするのだった。


…さて、夜七時開催という例年通りの花火大会開始時刻から考えると、現在がそろそろ夕方の五時になろうという時点で、まだまだ時間に余裕があるのは誰にも分かる所ではあったのだが、しかしこの後で絵里”などと”合流する待ち合わせ時刻は徐々に迫ってきているのは事実だった。

なので、このように呆れ顔で思わずニヤケつつ言う私の言葉にはそれなりの説得力があったようで、「それもそうだねー」とここでも藤花が先陣を切って合いの手を入れると、「あー…」と紫と裕美もスマホを眺めつつ声を漏らした。

「んー…うん、仕方ないよ麻里。”今回は”諦めて…次回にしよ?」

と紫が意味深にこちらに視線を流してきながら口にしたので、「…ちょっとー?”今回は”って何よ、”今回は”って?…ふふ、”次回”も無いわよ」と私は意地悪く笑いながら口を挟んだ。

「えぇー…がっくし」

と、そんな私の言葉を聞いて、麻里はこの通りわざわざ口に出しながら、実際に肩を大きく”ガックシ”と落として見せたので、これもまぁ毎度の流れと、そんな麻里の様子を見て私含む皆で笑みを浮かべ合った。

「まったく…ふふ」

と、自分で時間が無いと言ったばかりだというのに、ついつい頭に浮かんでしまった言葉をそのまま吐くのを止められずに、私は呆れ顔ながらも思わず笑みを滲ませつつ口を開いてしまった。

「麻里、本当にあなたって子は…ふふ、何でそんなに私なんかの写真を撮りたがるのかしらねぇ?それも今回は…ふふ、私のお母さんにまで白羽の矢を立てるだなんて…呆れるわ」

「あ、い、いやぁ…だってぇー」

と麻里は、初めのうちは苦笑いを浮かべていたのだが、ふと藤花バリの無邪気な天真爛漫な笑みにシフトチェンジしたかと思うと、その笑顔のままに続けて言った。

「だってぇ…えへへ、仕方ないじゃない?良い被写体が目の前にあると、さぁ…えへへ、ついつい衝動的に写真を撮りたくなるのが、カメラマンのサガってものなんだよ」

「…」


…ふふ、まるで『何故エベレストに登りたいんですか?』って質問に、『そこにエベレストがあるからさ』って答えた、登山家のマロリーみたいな事を言うわね


と、いきなり問われたと言うのに、こちらが待ち構えていた以上に感心する言葉を述べてきたために、咄嗟には何も返せずに思わず頷き掛けたのだが、それを直前で堪えた私が、「だからってねぇ…」と何とか反論らしき反論をしようと試みた…その時、ここで予期せぬ…うん、私だけではなく、恐らく麻里自身までもが予期していなかった事が起きた。


「…ふふ、琴音」

と、私達が笑顔を浮かべ合い始めたその時、不意にお母さんに声を掛けられた事から始まった。

今まで事態を静観していたお母さんが口を開いたと言うので、私だけではなく他の皆も注目し始めたのだが、それには一切怯む事なく、何食わぬ顔でお母さんは和かな笑みを浮かべつつ続けて言った。

「別に良いじゃない。撮ってもらいましょうよ?」

「…へ?」

と私は、思わぬ言葉がお母さんの口から出てきたせいで、端から聞けば気の抜けそうな声を漏らしてしまった。

それはどうやら私だけでは無かったらしく、言い出しっぺの麻里まで含めた他の皆も同様な反応を示していた。

そんな私たちの様子を、ついさっきまで戸惑いげな顔を見せていたのに、今では全てを理解したかのような、そんなイタズラっぽい笑みを浮かべつつお母さんは言った。

「ほら、せっかく母娘で浴衣を着てるのだし、それに…ふふ、麻里ちゃんのカメラって凄い本格的のじゃない?私たちの家族って、この手の機械のことは詳しくないから、過去にこんなカメラで写真を撮った事も無いじゃない?」

「え、えぇ…うん、そうだけれど…」

と、お母さんが言う言葉一つ一つに戸惑いを隠せない私は、それでも何とか辿々しく相槌を打った。

「ふふ、だからさ?せっかく麻里ちゃん自身が自分から撮りたい、撮ってくれると言うんだし…うん、あんなに綺麗に撮れるものだというのは、ついさっき見れた事だしね?だったらこれも良い機会だし…ふふ、撮って貰うのも手かなって思ったのよ」

と和かさと朗らかさの丁度中間の様なバランスの取れた笑顔とテンションでお母さんが言うのを聞いて、

「う、うーん…まぁ…お母さんがそう言うなら」

と、何だか予期せぬ形で外堀を埋められた…うん、それも味方だと思っていた者に外堀を埋められたという心持ちにさせられながらも、こうなっては仕方が無いと根負けした形で了承すると、途端に「やったー」と麻里が声を上げたのはまだ分かるとして…ふふ、何故か裕美たちまでもが麻里と同じテンションで喜びの声を上げ始めた。

「ちょ、ちょっとあなた達ー?」

と私はすぐに苦笑交じりに口にしたのだが、そんな私をそのままに、お母さんは麻里に声を掛けた。

「何ですかー?…って、あ、その前に、了承してくれまして、ありがとうございます」

と思い出した風に、慌てて腰を曲げるほどの深いお辞儀をしながら麻里が返すと、それにはただ明るく笑うのみで、お母さんは頭を上げた麻里に続けて言った。

「ふふ、良いの良いの。…あ、でもね?一つだけ条件があるわ」

「…?条件…ですか?」

「…?」

と、麻里だけではなく、すぐ隣に立つ私含む皆で揃って、頭の上にハテナマークを浮かべた。

と、そんな反応は想定内だと言わんばかりに、お母さんは一度朗らかに笑ったかと思うと、その直後には企み顔を浮かべつつ口元をニヤケさせながら言うのだった。

「えぇ、その…データって言うのかしら?撮った私と琴音の写真を、後で現像なりで渡してくれる?それが…ふふ、条件よ」


「あはは、そういう事ですか」

と麻里はすぐに反応を示すと、「それはもちろん、そうさせて頂きます!」と、そのまま明るく笑いながら続けて答えた。

それからはというと、あれよあれよと目紛しく撮影準備が進められた。

これまたカメラマン麻里の指示によって、立ち姿の指定が事細やかに入れられたが、そんな好き勝手な指示にも一切嫌な顔なり反抗する事もなく、むしろそうされるのを面白がりながらお母さんは従っていた。

意外とというか…ふふ、恐らく少し前から構図なりは考えていたのだろう、実際は一分もしないうちにポーズは決まり、それからは流れるように撮影会が始まった。


「…なんでまた許可したの?私たち二人での和装での写真なんかは、”会”に出た時とかにも、それこそその場に呼ばれたプロのカメラマンに撮って貰っているじゃない?散々…」

と、動くとまた麻里がうるさいので、正面のカメラに顔を向けたまま私が質問をすると、これにはすぐには答えてくれなかったが、しかし少ししてクスッと小さく微笑が溢れた音がしたかと思うと、隣に立つお母さんは柔らかい口調でボソッと、しかしハッキリ聞き取れる声質で答えた。

「え?…ふふ、さっきも言ったでしょう?確かに着物姿の写真は、あなたが今言った通り、お父さんの関係でよく撮って貰っているけれど、それはあくまでも”あの場”でのものでしょう?ああいった”公の場”以外で、しかも浴衣姿でのんびりと親子で写真は二年ぶりじゃない?その記念によ」

と、実際には隣を見ていないので断言は出来ないが、もうかれこれ十五年くらい娘をやってきているので、こう言いながら、得意げな少女の様なあどけない笑みを見せているだろう事は想像に難くなかった。

この様な、皆が言うところの”恥ずい”言葉を、一切の恥じらいもなく自然と吐かれてしまっては、これ以上何も返せないと、「…そっか」とただ短く私は返すのみで留めて、それからは、麻里の後ろに立つ裕美たちが囃し立てるのに吐く言葉に一々苦笑を漏らしながら、何枚か写真を撮られるがままにいるのだった。

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