エスケープ

ものが太郎

プロローグ

「今日の入社式、よろしくね。月島くん」

「はい? 今日は新年度の挨拶があるのでは?」

「うん。だから、その挨拶もよろしく」

「どうしてですか? 新年度の挨拶は"社長の仕事"でしょ?」

「いやー、急に出張することになってさ。今から出発しないと新幹線に送れちゃうんだわ」

「いやいやいや、新入社員ももうすぐ来ますよ? せめて、彼女に一声挨拶してからで良いのでは?」

「うーん、でももうタクシー呼んじゃったから。新人教育のことも、君に任せるよ。じゃあ!」

「もうっ!」


 新年度早々、月島瞳つきしまひとみは声を荒げた。

 そんな彼女を差し置いて、社長はそそくさとオフィスを後にする。

 社長の"いい加減さ"はいつものことではあるが、入社式を全て丸投げされるのには、さすがに腹が立った。


「はあ……何でいつもこうなるの? もっと社長としての自覚を持ってよね」


 瞳ははっと溜息をつくと、胃を優しくさすった。まるで"スライムが胃にいるような、ずっしりとした重み"を感じる。


 自分の席に戻り、瞳はノートパソコンの起動ボタンを押した。画面が一瞬点灯した後、ジゴゴゴという駆動音が鳴り響く。

 瞳は暗いモニター画面を見つめながら、缶コーヒーに手を伸ばした。先ほど買ったばかりなので、まだ缶の表面が冷たい。

 勢いよくプルタブを引くと、プシュッと音がした。この、蓋を開けた時に一瞬だけ見える"冷気のような何か"が好きだったりする。


 缶コーヒーを一口飲み、瞳は手元の書類にサーっと目を通した。パソコンは動作が安定するまでに時間がかかるので、その間に"ながら作業"をするのが習慣だ。


 ちなみに、瞳は"速読"が得意だ。新書サイズの本なら一冊三十分もあれば読破できる。子供の頃からの特技が、書類チェックの仕事で役に立つとは嬉しい誤算だ。


 瞳は、今日入社予定の新人の履歴書りれきしょを見返していた。

 新人の名前は、星野詩織ほしのしおり。新卒のイラストレーターとして、瞳が管轄かんかつするWEB制作班に加わる。四人目の部下だ。


「さーて、入社式で何を話せばいいやら……」


 ぼそっと呟きながら、髪の毛先を触った。相変わらず、毛先がピンとはねている。


 壁時計が長針を進め、午前八時五十分を指した。

 それと同時に、オフィスの玄関扉が静かに開く音がした。玄関先で靴からスリッパに履き替える音が聞こえる。その足音は室内に向かってくる。


 瞳が目線を上げると、その足音の主と目が合った。


 女子中学生の平均身長を下回っているであろう背格好に、濃黒のパンツスーツ。革製のトートバッグが、体型に不釣り合いなほど大きくて重そうだ。

 黒髪のボブヘアーに大きな黒縁のメガネと、全身が黒色コーデで統一されているからか、小柄な体型なのにずっしりとした印象を受ける。

 彼女の周りだけが、モノクロの世界であるようにも見える。


 室内を一瞥した後、彼女は無表情のまま、挨拶を始めた。


星野詩織ほしのしおりです。よろしくお願いします」


 ノイズのない透き通った声音、一切抑揚よくようのない完璧な声音。瞳はまるで、"スマホの音声アシスタントのような喋り方"だと思った。


 詩織を座席に案内し、瞳は朝礼の準備を進める。


 缶コーヒーをぐいっと一気に飲み干し、WEBディレクターとしての顔に切り替えた。

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