White Crow【電撃応募用】

水澤シン

第一話 付喪神と御先

第一話-01

 息を乱す音が、雑踏の中に消えていく。よく晴れた日であるにも関わらず全身ずぶ濡れで早足に歩く女の姿を見て、通行人たちは怪訝な顔で横目見ては避けて通るだけだった。

 走る車のエンジンの音も、時折聴こえる車内からの音楽も、道行く人々の会話も、今は耳から遠い。

 とにかく逃げないと。その一心で重い足を前へ前へと出して行く。逃げているその原因となる相手が追いかけて来ている気配は無いが、それだけでは分かったものじゃない。

 影を見付け、その中に入り込んでコンクリートの冷たい壁に背を預ける。弾んでいた息を整えてゆっくりと呼吸をすると、周りの音を冷静に聞き取れるようになってきた。意識を周囲に向けてみる。やはり追って来ている様子はない。

 ほっと息を吐いて、改めて入り込んでいた路地裏をキョロキョロと見回す。そもそもこんな細道なんて普段は通らないので、当然と言えば当然なのだが、見覚えのない場所だ。

 逃げてきた経緯を考えると、今家に帰ることは出来ないだろう。どうせ帰れないのなら、少しくらい知らない道を当てもなく行く方が、いくらか相手の目を誤魔化せるかも知れない。

 路地裏を奥の方へと進んでみる。街の中心部近くに居た筈だし、濡れて重い足でそんなに進めたとは思えない。だが道の先に土色と緑が見えた気がして、興味を惹かれた女はほんの少しだけ、足を速めた。

 ぷっつりと途切れたアスファルトの地面は、まるで田舎の山道を連想させるような、土と短い草のそれに。寒々しいコンクリートの壁は、深い木々に変わった。

 ここから山にでも入ったのだろう。都会では山道なんてそうそう人が入る所だとは思えないが、偏見だっただろうか。定期的に誰かが通っているかのようなきれいな道だ。

 まるで何かに導かれるかのように歩みを進める。初夏の青々とした葉の隙間から零れる木漏れ日が目に優しく、爽やかな風と緑の香りに癒される。

 今まで恐ろしいものから逃げていたというのに、それも忘れて女は足取り軽く土を踏んでいった。


 どれくらい歩いたか、やがて景色が拓けると見えたのは、寺か神社のような木造の建物。本堂だか本殿だかの前には人だかりが出来ていた。

上人しょうにんさまー! 見てください! 上手になったでしょう!」

「本当ですね。見違えるようです」

「上人さま、これ、さしあげます」

「おやおやこれは、ありがとうございます」

 人……子供達に囲まれている男性が着ているのは、宮司などが着るイメージの狩衣のような着物ではなく、寺の住職が着ているイメージの、確か法衣ほうえと呼ばれる着物だ。「上人」という呼び方も、神道ではなく仏教のものだったような気がする。

 ということは、此処は寺だろう。こんな山の中にある寺が賑わっているのは何だか不思議な感覚だ。今日は平日だが、イベントか何かでもあったのだろうか。

 遠目にぼんやりと見ていると、奥から出て来た様子の一人の少年と目が合った。途端、丸々とした少年の目が更に見開かれる。

「ミサキ……っ!」

「え?」

 声高々に上げられた少年の声に、上人と呼ばれていた男性が彼を振り返った。それから少年の視線を追うように女に目を向け、「これは……」と細い眼を僅かに開く。

 坊主頭が目立って気付かなかったが、なかなか整った顔付きをしているようだ。開かれた目は細く鋭く、迫力があった。

 それも、だが、もう一つ。

「私……?」

 今少年は、女を見て「ミサキ」と言った。だが女の名はミサキではない。ではそれは何を意味する言葉だったのか。

 気付けば二人だけでなく、男性の周りに集まっていた子供達も皆が女を見ている。その目が子供らしい子供は少なく、どこか異様な雰囲気も纏っているような気もする。

 ゆっくりと歩み寄ってきた男性が、また先のような穏やかな笑みを浮かべて女の方へ片手を差し出した。

「暖かい季節になったとはいえ、そのままでは風邪をひいてしまいます。こちらへどうぞ」

「あ、の……」

「何も取って食おうなどというわけではありませんよ」

 戸惑いを見せると、男性は笑って言う。

「わたしはここで住職をしております、天雅てんがといいます」

「……私は……姫生きなりです。安斎あんざい姫生」

 濡れた手を気にして差し出されたそれを握り返しはしなかったが、女──姫生は少し目を細めて微笑んだ。

「姫生さん」と繰り返した男性──天雅に再度促されては、目の前のそれとは別に隣に建っていた、これも木造の建物の中へと入る。後から入ってきた少年とは別に、中には一組の男女が居た。

 男女は、姫生を見るなり先程の少年のように驚いたような表情を見せた。

「タオルを用意しても良いのですけれど、せっかくならお風呂に入りませんか?」

「あの、いえ……そこまでお世話いただくわけには……」

 落ち着いた雰囲気の天雅に言われると、何だか頷いてしまいそうになる。だが堪えては一応遠慮した。

 が、それもそこに居た女性に阻まれる。

「そんなに濡れてると、心配だわ。すぐに沸かすから、入っちゃってちょうだい」

「そうですね。女性が身体を冷やすものではありませんよ」

 女性の隣に居た男性までが、後を押すように言う。

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