一息③
アイディールは王都の真南に位置しており、地理的に東西へ伸びた人類の領域によって守られている地域であり、王都よりも安全な町といわれていた。
気を付けなければいけないのは、野生動物くらいだそうだ。
「綺麗な町と聞いていたのですが、暗いのでよくわかりませんね」
タヅサは眉毛をハの字にしていった。
「え? ああ、そうですね。どこか宿を探しましょうか」
夜目が利くので、俺は一足先に淡い色で統一された長閑な町並みを堪能してしまった。
一旦記憶をリセットして、同じ感動を再び味わうことはできるだろうか。
それにしても、こんな戦略的には無価値に等しい町にまで魔法を阻害する結界を張り巡らせているのは、一体どういう理由だろうか。
その日は、町の検問所近くの宿で一泊した。
部屋はシングルベッドかダブルベッドしか選べなかったので、タヅサとは別々の部屋をとった。
翌朝、風向きの関係か、町には潮の匂いが充満していた。
まずはアイディールへやって来た目的の一つ、タヅサが見たいといっていた海を見に行くことにした。
「これが海ですか、映像で見たものよりも綺麗です」
「確かに綺麗な海ですね」
まるでリゾートビーチのような、ターコイズブルーの澄んだ海が広がっていた。
「もっと近くで見てきてもいいでしょうか?」
タヅサは少々興奮した様子でいった。
「海は誰のものでもないので、好きに見たらいいと思いますよ」
「はい、行ってきます」
タヅサは砂浜を駆けていった。
砂浜には、俺たちの他にもちらほらと散歩している人の姿があった。
「テンコウさん、水が冷たくて気持ちいいですよー!」
タヅサは子供のようにはしゃぎながらいった。
「転ばないでくださいね!」
「転びませんよー! テンコウさんも――」
満面の笑みだったダヅサの表情が突然、車にはねられた猫でも目撃したように引き攣った。
その視線は俺でなく、その向こう側に焦点が合っていた。
振り返ると、そこには中性的な顔立ちをした、二十歳前後の人物が佇んでいた。
髪は肩に掛かるくらいの薄紅色、ガラス玉のような瞳、陶器人形に魂が入って動き出したような容姿をしていた。
一目見て、俺は体の芯が凍り付くような錯覚を覚えるくらい、恐怖していた。
「まさか、勇者……?」
神階級のディートすら凌ぐ異形の圧迫感があった。
俺は頭の中で、目の前の存在に対していくつかの仮説を立てた。
三十年前の生き残りは夢海一人だけという話だが、大戦の最中に行方を眩まし、戦死したことにして隠居でもしていたのだろうか。となると、それを知ってしまった俺は、口封じされるのだろうか。
それとも、三十年よりも前に召喚された勇者だろうか。勇者は歳をとらないので、見た目なんて当てにはならない。
「残念ながら勇者ではない。私はホムラ、神子だ。勇者とは別の役割を持って、この世界に召喚された。失礼ながら、昨晩から君の行動を監視させてもらった。どうやら悪意を持ってこの町へ訪れたわけでもなさそうなので、こうして顔を見に来たというわけだ。見たところ普通の人間ではないようだが、何者かな?」
ホムラと名乗った神子は声変わりしていない少年のような声でいった。
男ですか女ですかと聞き出せる雰囲気でもなかったので、一時保留である。
どう答えるべきか一瞬迷ったが、向こうは鋭い観察眼を持っていそうなので、ここは真実を隠すために純然たる事実を並べることにした。
「勇者の卵として召喚された天光です。パラの力が発現せずに、今は王城で司書を務めています。建国記念日で休みが取れたので、こうして観光に来ています」
「そうか、君が噂の」
どういう噂かは、わざわざ聞かなくてもいいだろう。大体想像は付く。
「テンコウさんのお知り合いの方ですか?」
海辺から戻ってきたタヅサが恐る恐る聞いた。
「いえ、神子の方だそうです」
「神子……?」
「知らないのも無理はない。私たちの存在は公になっていないから」
元勇者の卵で現王城司書の俺ですら知らないということは、ホムラの存在を知っているのはごく限られた一部の者ということになる。
アイディールを覆う結界、隠匿された神子、勇者すら凌ぐ存在感、これらの断片的な材料から、ホムラの役割はぼんやりとだが形になる。
推測の域は出ないが、神子というのは王都とアイディールを覆う結界を維持している存在ではなかろうか。
王都を陥落させるには、どうしても魔法を阻害する結界を除去しなければならなかったが、これまでその仕組みを解き明かす事柄が何一つ判明していなかった状態だ。
仮にこの推測が見当違いだったとしても、神子が王政にとって重要な存在であるのは間違いなかった。
まさかこの旅行で、王政の絶対防御の根幹を揺るがし得る弱点を知ることになろうとうは、天が俺たちの味方をしているとしか思えなかった。
一つ気掛かりがあるとすれば、ホムラの口振りから神子が複数存在する可能性があるということだ。
用心のために嘘をつているのか、あるいは真実の言葉か、現時点では何もわからなかった。
「邪魔して悪かった。ここはいい町だ、存分に休暇を楽しんでいくといい」
ホムラはそう言い残すと、町の方へと消えていった。
その後のタヅサとの旅行で、
いつも通りといえばいつも通りの、どこかぎこちなくも心地のいい時間は過ぎていった。
色々なしがらみを捨て去り、このままここで一緒に住みませんかと思わず口に出してしまいそうなくらい、のんびりとしたかけがえのない一時だった。
それでも、俺は歯を食い縛って前に進むことを選んだ。
新型黒死病で苦しむ全世界の人々を救うために、もう一度琴音が大空の下を自由に歩けるために、この戦いに勝たなければならなかった。
誰かの犠牲なしでは成り立たない幸せなど、容認することはできなかった。
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