クラスメイトの彼女 6


 あれからの僕と杜乃さんは、特にどうこうということもなく、いつものようにしていた。友達になったのはきっと事実だと思う。とはいえ、日常は特に大きくは変わっていない。杜乃さんは相変わらず無口で、授業が終わるとすぐに教室を一人でそっと出て行き、そして次の授業が始まる一分前にそっと戻ってくる。休み時間の間は教室にいない。これまでと変わりなく、こんなのを繰り返していた。だけど、僕と彼女の間の空気は、少しだけ変化していた。教室を出る彼女、教室に戻る彼女、その彼女と目が合うようになったのだ。あの印象的な瞳で僕をチラと見る。そして僕もチラっと見る。無言でも、今までとは違う。言葉を交わさなくとも、お互いの存在を意識している。そう感じた。目で合図、アイコンタクト、変な意味ではないけれど、お互いの間で目に見えない何かが行き交う。目で行ってきます。目で帰ってきました。言葉は交わさなくとも、繋がりを確かに実感していた。


 そんなある時、中村が言い出したのだった。

「いっそのことさ、杜乃さんについて行って、一緒に教室出るってのはどうだ?」

 彼らしい大胆すぎる提案だと思った。

「え? 何も訊かず、いきなり? でもそれは──、失礼じゃないか?」

 思わず躓きそうになった。僕らは今、体育の授業でマラソン大会の予行練習、学外ランニング中だった。

「だってよぉ、友達なんだろ?」

「親しき仲にも礼儀ありだろ」

「親しき仲って、親しきって言える状況か?」

「それは、まあ──」

 確かにただ目が合うようになっただけ。美術の授業が無ければ、会話は無い。そして、美術の人物写生が終われば、会話する機会も失われてしまうかも? 知れない。

「突破口が必要なんだよ。時には強引に! 男ってやつは、そうだろ?」

「そういう強引さって──、例えがおかしくないか?」

「だってよぉ、結局何も変わらないんだったら、あんまし意味ねぇんじゃね? 行動あるのみだ! もっと親しくなりたいんだろ? 海斗よぉ」

「そうだけど──」

「だったら行動あるのみだ! それを彼女は待ってるかもしれねぇ!」

 待ってるのか? そんな発想は僕には無かった。だけど、根拠はないけれど、中村らしいポジティブな考え、何かしらが心にポンと当たった。

「そんな自分に都合のいい考え方が──」 

「いいじゃん。何かアクション起こさないと彼女の気持ちは分かんねぇし、ダメなら拒否されるだけだし、でも海斗が、彼女が休み時間に何をしてんのか知りたい、色々と話ししてぇ、一緒に休み時間を過ごしてぇって意思は伝わるし、それで彼女も何かしら考えるだろうし、いいんじゃね。それでよ、色々と分かったうえで、次の手をこっちも考えればいいじゃん、そうやって一歩づつよ。てか、今の俺のこれ、ちょーいい話じゃね?」

「自画自賛か。まあ、確かに言われてみればそうだけど──」

 

 こういう中村のコミュニケーション能力というか、人との接し方の器用さというか、僕にはとても真似できそうにない高難易度の技のようにも感じるけど、でも納得させられる所もある。


「だったらほら、ペースあげっぞ!」

「え、なんで?」

「俺ぁ、ちょいと男子の先頭集団に追いついて、本物の走りってやつを見せつけてやりてぇからよ」

「腐っても陸上部。意地ってやつか、でも僕はついていけそうにないよ」

 というかなぜ今更、なんの関係が?

「腐ってねぇーよ! てか、ちげーよ海斗、先頭集団のちょい後ろにポツンと一人でいるだろ! 女子のトップで、杜乃さん走ってっだろ、アレに追いつく。俺は追い抜くから、海斗はその辺りでちんたらしてよ、さりげなく彼女に併走して、話しかけてみろよ」

「ええ!?」

 雑談しながら走っている僕らとは違い、黙々と一人走る杜乃さん。杜乃さんは運動神経もいい。体育の授業ではどんな競技もクラスの女子の誰にも負けない、そんな雰囲気さえある。この五キロマラソンでも、女子の中では先頭で、クラスの男子のマラソン大会本気組の先頭集団から約十メートルほど後方に位置している。体育の授業だからと、大方の生徒は真剣には走っていないというのもあるけれど、それでもそれは他の男子もついていけない程で、おしゃべりしながら走る女子の第二集団を大きく引き離し、ほぼ独走状態だった。まるで本物のトップアスリートのような孤高さで、その後ろ姿に、何かと戦う戦士のようなものを僕は感じた。


 中村と僕は、男子の第二集団の少し前辺りを走っていた。

「ほら行くぞっ!」

「ちょ、まってっ」

「そもそもマラソンぐらい杜乃さんに並べないようじゃあ、友達として見てくれねぇかも知んねぇぞ!」

 そう言って中村はペースを上げた。僕もそれになんとかついていく。中学校のそばにある陸上競技場の四〇〇メートルトラック。それを四周し、そのあと競技場を出て、その周囲を取り囲む運動公園内のランニングコースを走り、再び競技場に戻ってくるという行程。中村はトラック一周であっという間に杜乃さんに追いついた。僕はその五、六メートルほど後方に食らいついていた。結構限界かもしれない。そして、中村はチラっと後ろの僕を振り返り、二ッと笑って、さらに杜乃さんを追い抜き、ぐんぐんペースを上げたのだった。ほんとに流石、陸上部である。次の一周を走りきると、今度は公園内のランニングコースだ。


 公園の並木道に入ったとき、ようやく彼女に並んだ。が、そのスピードは、僕の今までのマラソン経験の中でも限界を突破した記録的なものだった。すでに息が上がっている。いや、ちょっと待て、こんなペースで走りながら会話なんて、陸上部でもなんでもない、ましてや運動部にすら所属していない僕に出来っこないだろ、中村! と心の中で彼に突っ込みを入れたが、でもここまで来たんだと思い、僕はチラっと杜乃さんの方に視線を向けた。

 すると彼女もチラっとこちらを見返した。ほんの少し驚いたような感じ。初めて見る表情だった。ショートボブの髪がなびき、いつも長い前髪で顔が隠れ気味だったけど、この時はふわっとサイドに流れて──、透き通るように白い肌、思ってたよりも広い額、スッとした鼻筋、普段見ることの無かった彼女の素顔。僕は見蕩れてしまっていた。彼女はすぐに前に向き直り、ほんの一瞬だったけど、その情景は永遠に心に残るような気がした。胸の辺りがざわざわとして、心臓の鼓動がやけに強く感じられる。勿論息は上がっているのだけど、走っているのも忘れそうだった。

 とはいえ、声をかけることなどできる訳もなく、だたただ彼女の横を併走するので精一杯だった。でも、それで十分だった。並木道を抜けると、次は人工の細い小川の横を走る。僕は再び彼女に視線を向けた。彼女もそれに気づき、チラっとこちらを見る。そしてまた前を向いて走る。無言だけど、ほんの少し彼女が笑ったような気がした。



 体育の授業が終わると、中村に呆れられた。

「なっ、併走しただけで、なんにも会話なかったのか?」

「いや、そもそもあんなペースで走りながら会話なんて、僕には出来ないよ」

「なんだぁ、だらしがねぇなぁ海斗。そういうとこ、結構ヘタレだよなぁ」

 と言って中村は苦笑した。


 二時限目後の業間の少し長い休み時間、いつものように杜乃さんはそっと教室を出ていったが、その時中村が僕に合図を送ってきた。「行けよ! ほら、海斗、行け!」と声を出さず口を大きく動かして言う。

「……」

 さっきも中村の言う通りに走ったら、杜乃さんの初めて見る表情、素顔を見ることが出来たのだし、この流れ、ここは彼の言うことを素直に聞いておこうと、僕は腹を決めて立ち上がった。

 

 教室を出て、廊下を行く杜乃さんを追いかける。

「杜乃さん!」

 立ち止まる彼女。

 声をかけた途端、急に緊張感に襲われて、頭の中が真っ白になった。とにかく僕は、咳払いをしてハアハアと息を大きく吸った。急いで走って来たという感じで誤魔化すように。

 振り返る彼女は、ぱっと目を見開いて、やはり驚いた様子だった。そしてその表情も、初めて見るものだった。

 「あ、あの──」

 なんて言えばいいのか、よく考えもせずここまで勢いで来てしまったことに、今更気がついて焦る。

「えーっと、あの──」

 彼女は少し小首をかしげるようにして、黙ったまま僕を見つめた。無言でも「なに?」と訊いているのがありありと分かるほどに。

「あの、杜乃さん、一緒に行ってもいいかな?」

 と言ってから、どこに行くのかも分からないのに、何言ってるんだお前は! と自分で自分に突っ込んでいた。

 

 が、杜乃さんはそんな突っ込みを入れることはせず、少し考え込んでから、言った。

「陽野君、軍手、持ってる?」

「えっ」

 ──軍手?

「今? いや持ってないよ」

 というか、普段学校で、軍手なんて持ち合わせてない。

「そう、じゃあ、今日はダメ」

 と彼女は言って、軽くコクっと頷いて、サッと身を翻し行ってしまった。

「え、あっ──」

 ダメ? 軍手が無いから? 何故? それとも、なんでもいいから理由をつけたのか? 断るための。

 

 でも、「今日は──」と言ったのも確かだ。


 教室に戻って断られたことを中村に話すと、

「なんでもっと食らいつかないんだよ。粘り強くよぉ。多少強引さが必要なんだって。海斗はこういう時、弱いよなぁ」

 と顔をくしゃくしゃにして笑われた。


 しかしこの日、事態は急変した。


 昼休み、中村と僕が昼食を終え食堂から本校舎に向かう渡り廊下を歩いていると、前から杜乃さんがつかつかと歩いて来た。

「あれ?」

 と中村が声を上げ、昼休みに校内で杜乃さんを見かけるなんて珍しい、と感じた直後、彼女はそのまま僕の目の前に来て──、

「陽野君、ちょっといいかしら? 軍手があったから、手伝ってほしいの」

「え、軍手?」

「そう」

 そう言って杜乃さんは僕たちの前に立ち塞がった。

「なに? 海斗、なんか約束か? んー、なら俺、先に教室戻ってるわ。んじゃなぁー」

 と言って、中村はそそくさと離れようとする。

「え、中村──」

 僕が何か言おうとすると、中村はニッと笑って、親指を立ててそして小走りに行ってしまった。それを僕と杜乃さんは棒立ちで見送った。

「あ、突然話しかけてごめんなさい。中村君に悪かったかしら? 放課後でもよかったんだけど」

「いや、中村は大丈夫だよ」


 そうして僕は、杜乃さんに連れられて、本校舎裏の通用門の方へ行ったのだった。


 杜乃さんからやや使い古した軍手を受け取り、通用門傍の用務員倉庫に僕らは入った。

「こんなところ初めて入ったよ」

「職員室から鍵を預かっているわ。勝手に入ってるわけではないのよ」

「そうなんだ」

 倉庫内はやや埃っぽく、掃除道具やら校庭の木々の手入れに使う用具類が雑然と並んでいた。奥の壁に立てかけてある一輪の手押し車を指さし、杜乃さんは言った。

「あのネコグルマで、たい肥を運んでほしいの。十キロあると思うわ」

 ネコグルマ?

「たい肥? 花壇の手入れをするの?」

「種まきよ」

 そう言って、いかにも重そうな業務用たい肥十キロ袋が積まれた棚を指さした。


 普段はあまり使わない通用門の辺りは、洋風の庭園のようになっていて、そこかしこに花壇がある。以前見かけた時はまったくなにも植えられておらず、雑草がちらほらと芽吹いて荒れ放題といった感じだったが、杜乃さんが手入れしたのだろうか、すっかり綺麗に地ならしされていた。ネコグルマ、一輪の手押し車をそう呼ぶのを始めて知ったが、それを押し、僕はたい肥を二袋、つまり二十キロを運んだ。確かに女子には大変な作業だろう。しかし、杜乃さんは平然とやってのけそうではある。


「ご苦労様です。今度はそれを花壇の上にまんべんなくかけて欲しいの。陽野君、できる?」

 そう言って彼女は、ほんのり微笑んだ。含み笑い? もしくは笑いをかみ殺しているような様子だったけど、いや、できるに決まっている。それより、杜乃さんがなんだか楽しそうにしているのが新鮮だった。

「できるよ。任せて」

 こう返して、僕は手際よくとは言い難いが、たい肥を花壇にまいた。案の定、まんべんなくどころか、ところどころ山になってしまい、それを軍手をした手で平らにならしていった。

「スコップあるよ」

 と杜乃さんが掲げて見せたが、僕は「大丈夫」と手でならしていった。


 花壇の脇にちょこんとしゃがんで、じっと見ている杜乃さん。学校で、中村以外の生徒とこうして二人で何かをしている。それは本当に新鮮で、あまりにも突然で、しかも相手が杜乃さんで、もはや今がなんの時間なのか、一体何が起こっているのか、分からなくなってきた。


 そんな中、更にまた不思議な光景を目にするのだった。


 花壇の脇でしゃがんでいる杜乃さんの横に、突然一匹の野良猫が現れて、同じくちょこんと座ったのだ。おそらく校庭のどこかの茂みから現れたのだろう。

「え、野良猫? なっ──」

 僕が声を上げると、杜乃さんはその灰色の野良猫の頭を優しく撫でた。その猫は彼女になついているのか、すごく気持ちよさそうに目を細めて撫でられている。顔を上げて、首の辺りも撫でろと言わんばかりに彼女にアピールする。杜乃さんは優しくその野良猫を撫で続けるのだった。


「飼い猫? いや野良猫でしょ、杜乃さんになついているの?」

「単なる野良ではないと思うわ。この辺りの主なのよ」

 そう言って彼女は微笑んだ。自然と微笑む杜乃さんを初めて見たようにも感じたし、そしてこの光景、もう彼女が本当にあの杜乃さんなのかも分からなくなる程に僕には感じられた。

 

 彼女は猫と顔を見合わせて、しっかりと撫でる。野良猫もそれに応えるように小さく「ニャー」と鳴いた。

 

 猫に向ける優しげな表情。この猫は僕よりもずっと以前から、彼女の友達だったのだろうか? そう思うと、突然その猫は僕の方にキッと顔を向け、その青い目でジッと見据えるのだった。

「なんだお前は! って言ってるみたいに僕を睨んでるね、この猫」

 と僕が言うと、

「そう言ってるのよ」

 と杜乃さんは、嘘なのか本当なのか判別できないような表情で言った。確かに猫にとっては妙な男子が突然現れて不満なのかもしれないが、楽しそうにしている杜乃さんを見られて、その笑顔を見られて、僕はこの上なく心地がいいのだ。空も飛べそうなほどに。


「それはそうと、杜乃さんは、いつも花壇の手入れをしていたの?」

「大体はそうね」

「そうだったんだ。花が好きなの?」

「そうね」

「一人園芸係ってわけだ」

「そうね。校庭の花壇が荒れ放題だったから、職員室に行って訊いてみたら、用務員さんが去年から腰を痛めてずっと休んでるって。だから私が花壇の手入れをしたいと言ったら、担任は是非どうぞって、鍵を任されたの。おそらく用務員さんが戻るのが夏以降になるから、それまでは私がやることになって。花は好き。でも園芸が趣味ってわけでは無いのよ」

「そうなんだ。でも、言ってくれれば、いつでも手伝ったのに」

「ありがとう」

「これからは、毎回手伝って大丈夫かな?」

「ありがたいけど、でも、陽野君の迷惑にならないかしら?」

「迷惑なんて、何も無いよ」

「そうかしら?」

 クラスの目が気になるとか、そういうことを言っているのか。でもそんなのはどうでもいい。

「無いよ。なんなら中村も手伝わせてもいいくらいだから」

「……」

「全然平気だよ。というか、僕は寧ろ、クラスの空気の方が居づらい時があるし、僕も中村がいなかったら、なんていうか──」

 と言いながら、上手く説明できないような気がしてきた。

「陽野君は、人だっていうのは、何となく分かっていたわ。だから──」

 だから──、と言って彼女は口を噤んだ。だから、どうなんだろう?


 少し黙ってから、杜乃さんは続けた。

「目に映る景色が荒れていると、心も荒れてしまうわ」

「だから手入れをするの?」

「美しいものを見ると、心が和むもの」

「うん。そうだね」

「ただ、私が花壇の手入れをしていることは、クラスの生徒にはあまり言わないでおいて。少し嫌な予感がするから」 

 そう言った彼女は、またあの独特の、遠くを見るような目をしていた。


 彼女も分かっているんだ。僕と同じで、学校内の殺伐とした空気を気にしているのだ。そして彼女は、意識してか、或いは無意識にせよ、自身に出来ること、間接的でも行動を起こしているのかもしれない。彼女は周りをシャットアウトして、無関心でいたのではない。学校生活を拒絶していたのではないのだ。


 この時僕は、彼女のその印象的な瞳に見つめられて、少し恥ずかしさを覚えた。


 

 それから二度目の美術の授業がやってきた。僕はこの授業の時間は大切にしようと思っていた。しかし授業の準備中、思いもよらない事件が起こった。


「信じられないっ! なにこれぇ、なんでぇ? うそぉー」

 南埜茉莉の取り巻きの中心人物、萩元が騒ぎ出す。ざわざわとクラスメイトが彼女の周りに集まる。南埜茉莉当人も。中村と僕は、きっと僕らには関係無いだろうと、きっとまた下らないことで騒いでるんだろと、椅子を準備していたのだが、なんと萩元が、僕に声をかけてきたのだった。

「ちょっと、陽野君さぁ、これっ! あんた、なんか知ってる?」

 といかにも不機嫌そうに、絵を見せてくる。


 話しを聞くと、美術準備室に保管してあるクラス全員の絵の中で、南埜茉莉の絵が破られていたのだ。正確に言うと、南埜茉莉と人物写生のペアを組む萩元が描いた南埜茉莉の絵だ。そしてわざわざ僕に、それについて訊いてくる。さも、その犯人として、僕に疑いの目を向けているかのように。

「てゆーか、なんで海斗に訊いてくんだよぉ、意味分かんねぇ、それって──」

 と中村が言うのを制して、萩元は続けた。

「陽野君さぁ、あんたちょくちょく業間の休みと昼休み、美術室で絵を描いてたんでしょ? しかも一人で。人物写生なのにペアの相手無しで、魔女無しで、一人で。知ってるよ。毎回自分の絵、準備室から出してたんでしょ? でさぁ、これ、なに? なんか知ってる?」

 僕が度々美術室を訪れていたこと、しかも一人で描いていたこと、それだけで何かしら怪しいというのだ。美術の人物写生は、3コマの授業で時間が足らない人のために、美術部の使う放課後以外、休み時間を利用して描いてよいことになっていた。大抵の生徒はペアで利用するが、僕は一人で絵の修正をしていた。自分の遅れのために、杜乃さんに時間をとらせないためと、マラソンの時に見た彼女の素顔が目に焼き付いて、そのイメージをもっと上手く描き出したいと思ったからだ。

 

 しかし、他の生徒の絵を見たり、ましてや興味も無い。自分の絵を棚から出して、描いていただけだ。


「昨日、私と茉莉が昼休みに美術室に来たときはなんともなかった。で、今日の昼休み、中村君は一人で教室にいたし、陽野君いなかったよねぇ、美術室に来てたんじゃないの? てか、他に今日の昼休み、美術室来た人いるぅ?」

 と萩元は他のクラスメイトにも大声で問いかけたが、誰も答えなかった。

「陽野君さぁ、昼休み、美術室来てたんじゃないの?」

 もうほとんど僕が怪しいと言わんばかりの問いかけ。しかし今日の昼休みは、美術室には行っていない。

「どうなの? ねぇ?」

 もはや尋問だ。

「美術室には来てないよ」

「じゃあ何してたの? いつも中村君と一緒にいるでしょ? 昼休み、何してたのよっ!」

 まるで裁判の検察官のように、大勢のクラスメイトの前で僕を問い詰める萩元。いい加減にしてくれ。


 今日の昼休みは──、


「……」

 僕は言いあぐねた。昼休みは、杜乃さんと花壇の手入れをしていた。が、それをいちいち言いたくはない。というか、そもそも萩元にそれを言う義務も道理もない。とはいえ、ここで出まかせを言うと、余計にボロが出て怪しまれかねない。


 どうする──、


 とその時、美術室の入り口から声が聞こえた。

「今日の昼休み、陽野君は私と花壇の手入れをしていたわ!」


 それは、初めて聞く杜乃さんの大声だった。


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