本編

第1話 忘れられない、まん丸コロッケ

 酒が弱いくせに一人呑みをするようになったのは五年ほど前だっただろうか。

 デザイン事務所を立ち上げて十五年、一人でやっているのは大変な面もあるが気楽でいい。ストレスもたまるだろうと言われるが、そんなことはない。

 その秘訣は美味しいものを食べること。

 ランチだったり、夜の打合せ後だったり、一人でふらっとカウンターに座って美味しいものを食べるのが楽しみなのさ。


 一人じゃ味気ないだろって?


 そんなことはない。

 料理をじっくりと目で楽しみ、香りを満喫し、食感を楽しみ、心ゆくまで味わうならば一人で食べるのが絶対にいい。

 話し相手がいなくたって構わない。


 俺には文庫本がある。





『キッチン&バル OLD SCOT(錦糸町)』



 仕事帰りの土曜の夜、年が明けてからまだ一度も行っていなかった馴染みの焼き鳥屋「力屋」へと向かう。

 駅前の大きな交差点を抜け、一つ目の路地を曲がると風俗店の呼び込みと目が合った。かけてくる声には応えず歩く。

 この裏通りもいかがわしい店ばかりだったのに、今ではほとんどが飲食店になった。

 「力屋」の前まで来て中を覗くと――カウンターも客で埋まっている。ガラス越しに見える店主も忙しそうに焼き場へ張り付いていた。


(さて、どこへ行こうか)


 お腹も減っていたので、あまり歩きたくはない。

 ここは迷わず、「力屋」の斜め前にある「OLD SCOT」への階段を上がった。

 まだ六時を過ぎたばかりのせいか、店内に客の姿はなかった。

 落ち着いた色調の木をアクセントにした内装は明るく清潔感がある。一枚板のカウンター、勝手に定席と決めていた奥から二番目へ座った。


「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」


 この店へ来たのは二回目なのに、顔を見るなり店主が声を掛けてくれた。

 単純な性格なのでポイント高し。

 気分が良くなり「ハイボールを飲みたいんですが何かお薦めを」などとかっこよくオーダーしてみる。


 まさか自分の口からこんな言葉が出る日が来るとは……。

 いい年をしたおじさんなんだから、廻りから見たら違和感ないんだろうけれど、若い頃はコップ一杯のビールでフラフラになっていたから、感慨深いものがある。


「それでは、こちらはいかがですか?」と出されたのがトマーティン12年。

 お酒には疎いので、初めて聞いた銘柄。

 スコットランドのシングルモルトだそうだ。

 目の前のカウンターで手際よくハイボールが作られていく。

 そっと差し出されたグラスを口へ運ぶとフルーティーな香りがした。

 少し甘みがある優しい味わい。


 のどを潤しながら三品のタパスをオーダーした。

 料理が来るまでにバッグから文庫本を取り出す。


 今日の文庫本は『アリバイ崩し承ります/大山誠一郎』(実業之日本社)


 本屋で手に取るのはミステリーばかり、おまけに短編集が好きなこともあって、七つの短編からなるこの本をドラマ化されるとは知らずに購入していた。

 この本の魅力はタイトルの通り、何といってもアリバイトリックを見破ること。

 前半に提示された条件を基に、読者もアリバイ崩しを一緒に考えることが出来る構成になっている。


 キリのいい所まで読んだらいったん本を閉じる。

 頭の中で読んだ文章を整理しながら、アリバイの穴を考えていると料理がそっと出された。


🐡


 まずは「小魚のエスカベッシュ」。

 薄い衣をつけて揚げた小鯵を、玉ねぎやパプリカ、人参の千切りと一緒にビネガーで漬けてある。

 パプリカや人参が上にくるように盛り付けられ、添えられたパセリと共にハーブ(たぶんタイム)を刻んだものが振り掛けられている。

 見た目にも美しい。


 箸で小鯵をつまむ。

 かなり強めのビネガーがガツンと来る。

 鯵は臭みもなく、揚げた香ばしさがいい。

 野菜たちがビネガーの強さをやんわりと抑えてくれる。 

 これはお酒の肴にもってこいの一品だ。


 エスカベッシュとは魚を使った保存食として古くからある調理法だそうだ。

 日本の「南蛮漬け」はこれがもとになっているとのこと。納得。


🐙


 二品目の「タコとトマトのバルサミコマリネ」は、エスカベッシュと見事に酢被りしてしまった。

 エスカベッシュが何かを知らないで頼んだということがバレバレですな。


 タコは大きめのぶつ切り。トマトも同じ大きさに切ってあるので、見た目のバランスが良い。

 仕上げにバルサミコソースがさらっと掛けられ、赤色系ばかりのところへ補色となる緑の笹が敷いてある。仕事柄、色のバランスを気にしてしまうけれど、こういった見た目の心配りが出来る料理に外れはない。

 添えられているクラッカーが、全粒粉タイプなのもポイント高し。


 おっ、タコが旨いな。茹で過ぎず、微妙ななま感を残している。

 ぶつ切りだから食感を楽しめるのもいい。

 子どもの頃は、タコって味もそっけもないと思っていたけれど何も分かっていなかったんだな。

 このほのかな甘みがバルサミコの柔らかな酸味で引き立てられている。いいねぇ。

 トマトがタコと合うのも新たな発見。


🥎


「おぉっ!」


 最後に出された「和牛コロッケ」には思わず小さな声をあげてしまった。

 目の前にはコロッケのイメージと異なるものが存在感を放っている。


 ソフトボールくらいのまん丸なコロッケ。

 それが溶岩プレートの中央に堂々と鎮座し、周囲を濃厚なミートソースで守られている。

 ボールのいただきには雪のように降りかかる粉チーズと彩のパセリが散らされ、奥にはそっとクレソンが添えられて。

 美しい。

 まさにインスタ映えする一品。


 慎重にフォークを手にし、ゆっくりとナイフを入れる。

 ここでが転がり落ちたら洒落にならない。

 断面はというと、厚めの衣の中にはぎっしりとジャガイモが詰まっていて和牛のあらびき肉があちこちに顔を覗かせている。

 一口大に切って、ミートソースを乗せて……旨い!

 ひき肉が多すぎず少なすぎず、コロッケらしいほくほくした味わいに、コクのあるミートソースが合う。衣の固くカリっとした食感もいい。

 幸せだ。

 思わず口許がほころんでしまう。


 そして、なんということでしょう。

 このタパスたち、どれも五百円なのである!

 一人呑みにはちょうどいい分量だし、大勢でワイワイ飲むときだって気軽にたくさん頼めるお値段。


 もっと早くこの店を知るべきだった。


📚


「時を戻すことができました」


 これが『アリバイ崩し承ります』の主人公である美谷時計店の店主・時乃の決め台詞。

 ドラマ版を見ていないのでCMからの印象だと、時乃は明るく元気な感じの女性として描かれているようだが、原作では少し落ち着いた物静かな印象。

 どれもすんなりと崩せるアリバイはなく、それでいて奇をてらったトリックや現実離れした仕掛けもない。

 なるほど、と思わせる確かな論拠が示され、パズルを解くような楽しさがあった。

 ミステリー好きな読者にはもちろんのこと、ミステリーを書こうという方にも参考となるような良作だ。





「マジか……」


 新型ウイルスによる自粛が明け、久しぶりに訪れた店の前で立ちすくんだ。

 看板に貼られたA4の紙には閉店の文字が、感謝の言葉と共に記されていた。


 時を戻すことができないのを俺は知っている。

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