山男と笑顔、勝ったのは山

@tarky_science

第1話

人生、生きていれば不条理なこともある。

その不条理なことが起きたときにこそ、人生の価値を見直すきっかけが来たのだと思えないか?

彼はそんな世迷い言を言って笑っていた。

私が彼と出会ったのは、行きつけの焼き鳥屋だった。

話しかけてきたのは彼からだった。

「お姉さん、皮にタレって、邪道だねぇ」

髭を無造作に生やした見知らぬ男が突然話しかけてきたのだから、無視をするのが渡世術というものだ。

しかし、会社の上司への鬱憤が溜まっていたからか、それとも先月に喧嘩をしてからこちら、一切連絡をよこさない彼氏への苛立ちからか、つい言い返してしまった。

「私は皮はタレって決めてるんです。塩の方が私からしたら邪道だよ。」

「分かる、わかるよ。タレっていいよね。」

そういって笑うひげ面に妙な愛嬌が感じられて、そこからしばらく会話が続いた。

男は登山家だという。山に登ることが仕事になるらしい。

私からすれば、山に登ることも別に楽しいとは思わないし、ましてやそれが仕事になるなんて思ってもみなかった。

「写真をね、撮るんだよ。」

「へぇ、インスタ?」

「スマホじゃないよ。こう、カメラマンが持ってそうなごついカメラ。みたことあるでしょ?」

「今日は持ってきてないの?」

「いやー、持ち歩くには重いよ。」

そういって、やはり男は笑う。

さっきからずっと男は笑っている。笑顔だ。

そのことに気づいたときが、彼との関係の始まりの時だったのかも知れない。

そして行きつけの焼鳥屋に行くたびに、一度だけ店内を見渡す癖がついた。

その時に彼がいれば、タレの皮を食べながら、発泡酒を傾けている横に座る。

見つからない時も、そういえば前に話をしたのはいつだったか、なんて思い出しながら、それを肴にビールを飲む。

そんな飲み屋仲間というには少しばかり仲の良い、しかし連絡先を交換することまではしない、そんな微妙な関係がしばらく続いた。

そのふわふわした関係が終わったのは彼が冬山に登ることを告げた時だった。

「こんどね、ちょっと冬山に挑戦しようとおもって。」

「冬山?寒いでしょ、絶対。」

「寒いのは間違いないよね。」

そういって男は笑った。

「でもね、冬じゃないと見せてくれない表情があるんだ。とても鋭利で暴力的な、けれどもひときわ魅力的な、そんな顔がね。あるんだ。」

私はあまりその話は面白くなかった。私と話すよりも魅力的なものがあるのだ、と認めることが愉快な女がいるだろうか?

「そう、それでいつから行くの?」

「来週中だね。装備と体調を整えて、万全の体勢で挑むよ。山は危険だからね。」

「危ないって分かってるのにわざわざ登りにいく気が知れないわ。」

「そこはロマンだよ、ロマン。登るのももちろん楽しいけれど、その時々にしか見れない景色がある。発見があるんだよ。その瞬間はもう感動で胸がいっぱいになるね。」

きらきらと目を輝かせて、子供がお気に入りのヒーローについて語るようすを見せられて、やきもきする気持ちが半分と仕方がない人、と諦める気持ちが半分だ。

そして彼が居酒屋を後にして、そしてそれっきりになった。

年が明けて、春が近づいて、けれどもいつもの焼鳥屋で彼を見つけることはなくなった。

たまに本屋に寄ったときに、ほんの気まぐれで登山写真の本を開いた。

そこには美しい、壮大な、けれどあまり興味のそそられない写真がばかりだった。

山の魅力は私には分からない。けれどもその魅力が一人の男を虜にしたのだという事実は認めていた。

写真を通して、彼が山の魅力を語る声を思い出した。

彼はここに行ったのかな。

そう思いながら、本を本棚に戻した。

焼鳥屋には今でも通っている。しかし、彼を見つけたことはあれ以来ない。

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