十話
俺たちは急ぎ足で王の間へ向かった。階段を降りていくと、ばったり黒狐に出会った。
「お、いた。どこ行ってた」
「え、まあ」
適当に誤魔化すと、黒狐は「ふーん?」となんだか全てを見透かしたような目でニヤついていた。
「みんなは?」
「先行った。あ、あとこれ」
黒狐は隊長の斧を引きずっていた。どうやら王の間に置いてきぼりにしていたらしい。
「……うーん、持ってきてもらったのに悪いけど、僕もうそれいらないや」
「なんでだよ」
「そろそろ新しいのにしようと思ってたし、それに……それ、龍神からもらったやつだし」
黒狐が眉を上げた。斧を見下ろし黙っている。
「そういや、隊長はどこからその斧を持ってきたんだ?」
「ここに来る道中で龍神にもらった」
俺が訊ねると、隊長は平然と答えた。すると黒狐が斧を手放し、神妙な口振りで言った。
「近くにその龍神がいる」
隊長はすでにわかっていたのか、うなずくだけで特に驚きもしなかった。
「お前はあいつとまだつながりを持っているな?」
黒狐は褐色の瞳を冷たく光らせた。雰囲気がいつもとまるで違う。隊長も怪訝な顔をしていた。
「これから先はすべてお前が決めなければならない。どう生きるか、何がしたいか」
黒狐は腰を屈めて、隊長と目線の高さを合わせた。
「さあ、決めろ。チャンスは今しかない」
突然のことに隊長は戸惑う様子もなく、落ち着いた表情のまま目を閉じた。しばらくして再び目を開けると、隊長ははっきりとした口調で言った。
「……僕は今まで〈龍神の使〉として生きてきた。僕は今日のために存在した。だけどこれからは違う。僕は僕として生きる。もう、役目は終わったのだから。僕は、僕のために生きる」
俺は状況を飲み込めないままだったが、隊長の言葉はしっかりと聞いた。隊長は少し不安そうだったが、その目にはちゃんと光が宿っていた。
黒狐は隊長の返事を聞いて、ニヤリと笑った。
「良いだろう。俺が龍神との契約を切る方法を教えてやる。まずは俺が今から言うことをしっかり聞け」
隊長がすっと暗い顔をした。俺はどきりとした。なんでそんな顔をするんだろう。隊長はさらに、険悪な目付きになった。
「俺の確信を持った予想だが、お前と龍神は『強制契約』によって繋がっている。普通の魔物と魔術師の関係は、お互いの同意の上で成り立つ。だからこそ、魔術師は魔物を自由に召喚できるし、魔物のほうは魔術師の魔力を勝手に食える。その契約は、お互い真の名を名乗り、魔力を交換することで成立する。
だが強制契約では、互いの名を知る必要はない。お前と龍神の場合で話そう。お前は龍神の真名を知らないが、龍神はお前の真名を知っている。契約のときは、契りの言葉という呪文みたいなのを言わないといけないのだが、龍神はその時に自分の真名を省略し、強制契約用の文言を唱えた。魔力は交換ではなく一方的に与える形になる。こうすることで、強制的に契約関係になれるが、召喚は自由にできないのに自身の魔力は勝手に食われるという状況が起こる。ちなみに魔物側から強制契約をした場合、術師のほうは自由に召喚できるのに、魔物のほうは自由に魔力を得られなくなる。つまり強制契約はする側のデメリットがでかすぎるから、まずやらない。だけど〈龍神の使〉は恐らく、ずっとそんな風に強制契約によって成り立ってきたんだと思う」
隊長は頬に手を当てて考え込んでいた。俺は黒狐の話についていくのもやっとだ。
「仕組みはわかった。僕は何をすればいいの?」
「うむ。契約を切るときは、同じように呪文を唱えて、龍神に魔力を返すんだ。呪文は今から教えるが、魔力の渡し方はわかるか?」
「ううん、わからない」
黒狐は頷いた。
「自分の血と、龍神の血を交わす……体のどこでもいい、自分と龍神に傷をつけて、その傷を重ね合わせるんだ。そこに魔力を集めればいい。自分につける傷は指先のほうがやりやすいな。ただし、一気に集めるんだ。少しずつだと交換することになって、契約解除が成立しない」
隊長はなるほど、と頷いた。
「あと、真名って何?」
「魔術師とか魔物のフルネーム、正式名みたいな。お前なら『フーマ』だ」
「……龍神は?」
「教えてやる。呪文と一緒に覚えろ」
黒狐は懐から紙とペンを取り出した。
紙に書かれた文字を何度も繰り返し、隊長は完璧にそれを覚えた。
「よし、完璧だ。さあ、龍神に会いに行くぞ」
「……あ、僕、龍神と話がしたい……から、二人は遠くで見守ってて」
「そう言うと思っていた」
黒狐はポンと隊長の肩を叩いた。
「ピンチのときは助けてやるから、言いたいこと全部ぶちまけてこい」
隊長は苦笑して、頷いた。
王宮を出て、植物園へ向かう。空は真っ暗だが、王宮から漏れる光で、庭は明るかった。庭はなんだか既視感を感じたが、植物園の中に入ると、道など全くわからなくなった。
隊長はキョロキョロと落ち着きなく周りを見回しながら歩いていた。昔を思い出しているのかもしれない。足取りは確かだった。
「そういや隊長」
黒狐が振り返りもせず話しかけた。
「マザーはお前になんで『フーマ』って名前をつけたんだ?」
「……? 知るわけないじゃない」
「いや、だってお前……まあいいや、何でもない」
黒狐は何が気になるのかはっきりさせないまま、黙りこくってしまった。俺と隊長は目を見合わせた。
やがて先頭を歩く黒狐が立ち止まった。先にあるベンチに、龍神の姿がかすかに見える。ついにここまで来た。
「俺たちはここで見てる」
黒狐が言うと、隊長はこくんと頷き、ベンチに向かった。
龍神は無表情で僕を見つめていた。その表情の中にどこか驚きが潜んでいるのに気づいた。それでも僕は深呼吸が必要なくらいどきどきしていた。
「斧はどうした」
龍神が口を開いた。僕は隣に座って、いつでも立ち上がれるような姿勢になった。
「置いてきちゃった」
普段通りの口調をつとめて保つと、龍神は足を組み直して余裕綽々の表情を浮かべた。
「不安そうだな」
僕は龍神の顔を見上げた。こういうときに体の小ささが引け目に感じてしまう。龍神にかかれば僕の体など簡単に吹っ飛ばされそうだ。さっきもイツキくんに吹っ飛ばされたけど。
「ヒロくんは僕の考えていることがわかるの?」
幼い子どもの純粋な疑問みたいに、無邪気を装って訊くと、龍神は表情ひとつ変えず答えた。
「俺にはお前の感情がなんとなくわかるだけだよ。考えまでわかるわけじゃない。でも、そうだな……」
龍神は海のように深い青色の瞳で僕を見下ろした。
「お前から感じる感情から、考えていることは推測できる。例えば、今お前が感じている不安や緊張からは、俺に対して何かを企んでいるからだろ?」
僕は苦笑した。それぐらいは龍神にも悟られているだろうと予想できていた。
「何を企んでいるかもわかるね。俺との契約を切ろう、ってところか」
僕は目を見開いた。思わず尻尾を揺らしてしまう。龍神はそんな僕を見て冷酷な笑みを浮かべた。
「俺にはお前の全てがわかる。今突然お前が飛びかかってきても簡単に避けられるな」
僕はしばらく目を見開いたまま黙っていた。龍神は僕を見くびっている。僕は龍神と同じくらい冷たく笑った。
「じゃあ僕が死のうとしたのはなぜ止めなかったの?」
僕を睨み付ける目を正面から真っ直ぐ見返すと、龍神は驚いたように口を軽く開いた。
「わかってたんでしょ? ずっとずっと前から僕が死にたがっていたのは。ハナから僕に自殺させるつもりだった。そうでしょう?」
龍神は「何を言っている」ととぼけたが、僕は立ち上がって龍神に迫った。
「僕はそんなことわかってたけど、死ぬしかなかったんだ。あなたの望み通りになってもかまわないくらい、僕は死にたがりだった。だけどね、みんなが僕に生きろって言うんだよ。生きろって言って、あなたに奪われた僕の希望を取り戻してくれた」
声に力がこもった。それなのに、また泣いてしまいそうだった。
「龍神には僕の考えも命運もわかっているんだろうけど、僕の周りにいる人たちのことはわからない。それは僕の全てをわかっているとは言えないんだよ。だって僕は、色んな人に助けてもらいながら生きてるんだから」
僕は胸を張って、言い切った。龍神は目を逸らし、ゆらりと首を傾けた。
「お前は死ぬはずだった」
龍神はぎろりと目を剥いた。
「死ぬように仕向けたのに、人間という生き物は素直に従ってくれないものだ。特にお前は、〈使〉のなかでも一番手をかけてやったというのに……」
そのとき、龍神の腕が僕の首を掴んだ。喉の空気が口から漏れた。龍神が僕に覆い被さるように立ち上がり、僕が喉元にやろうとした腕を捕らえた。
「今ここで殺してやる……」
「や……め」
「俺の正式な使い魔になるなら解放してやろう……」
龍神は、恐ろしく凶悪に笑った。
ザリッ、と砂を踏みしめる音がかすかにした。それと同時に、龍神の腕が落ちた。
「……?」
僕も龍神も何が起きたかわからなかった。しかし龍神が痛みに吠える前に、僕は助けが来たことを認識した。
思わず笑みがこぼれた。
「お前は踏み込む時にいつも重心を傾けすぎる。それだから砂が鳴るんだ」
俺は何度も聞いた言葉を思い出した。まるでじいちゃんがすぐそばにいるみたいだ。
ああ、人前で涙を見せるし、砂を鳴らすし、今日はじいちゃんに怒られそうなことばかりやってしまったな……。そう思いつつ、俺は少し身を退いた。
隊長がすぐさま龍神のもう片方の腕を握って、自分の方へ引いた。龍神は倒れまいとして、ほんの少しだけ重心が後ろに傾き、足が出た。俺はその足を払った。龍神は後ろに倒れる。隊長はその上に馬乗りになった。龍神は暴れもがいたが、どこからか黒狐が現れて、その胸を容赦なく踏みつけた。
「俺に踏まれる気分はどうだ?」
黒狐は人を化かした狐のごとく妖しく笑った。
「ふざけるなっ……!」
龍神が腕を振り上げて黒狐の足をつかもうとしたが、届かない。その間に隊長はナイフで自分の指先を切り、龍神の腕に当て、詠唱を始めた。
「血を分かつ
共にありし運命を
いままた離る
我に応えて」
「やめろ!! 黙れ黙れ黙れ黙れ……」
龍神が鬼の形相で怒鳴るが、詠唱は構わず続く。
「我はここに誓う──」
「その口を閉じろ、下等が!!」
「──〈春来る東の地の森〉青龍に
力をかへ《え》すことを」
隊長が言い切ると、龍神がピタリと動きを止めた。隊長も目を見開いたまま固まる。
俺は固唾を飲んで見守っていた。黒狐も一緒に固まってしまったみたいに、静かに隊長を見つめていた。
しばらくして、ふらっと隊長の体が傾いた。俺は慌てて片腕だけで受け止める。
「終わったのか」
黒狐が言って、龍神から足を退かした。龍神は放心したようにしばらく空を見つめていた。
隊長は異常に熱かった。しかし俺の体を支えにして立ち上がると、すぐに熱っぽさは消えた。
「なんだか体が軽い気がする」
隊長がぼそりと言うと、龍神が突然起き上がった。
「そこのお前……黒狐……」
憤怒の表情で龍神は俺たちを見回した。
「フーマに余計なこと吹き込みやがって……」
「すまんな、なんか隊長って構いたくなるから」
「この狐野郎……いや、いい、お前の悪行などすぐに知れ渡ろう」
龍神は立ち上がると肩を怒らせて俺を睨み付けてきた。本能的な恐怖を感じて、俺はすくみあがった。
「お前は許さぬ……いつか必ず、フーマと共に葬り去ってやる……」
龍神はそれだけ言うと、さっと身を翻した。すると龍神の体が幻覚のように揺らいで、一体の巨大な竜になった。俺たちは身構えたが、竜は翼を広げると、はやぶさ並の速さで空に飛び去っていった。
「気分はどうだ」
黒狐が隊長に訊いた。隊長は首をかしげた。
「ものすごく疲れたけど、空を飛べそうなくらい体が軽いの」
「おー。良い感じだな」
隊長は黒狐の顔を見上げて、「あ」と何かに気づいた。
「空が白んできてる」
俺も同じように空を見上げた。ついさっきまで真っ暗だった空は、薄明るくなってきていた。
今度は隊長が俺たちを先導した。広大な植物園を抜けるのは一苦労だ。
山と隔てる柵をどうにか乗り越えて、植物園を抜けると、すぐ近くに職員らしき人影があった。
俺たちは極力音を出さないように山の中へ滑り込んだ。これでとりあえず身は隠せる。
「早くしないと捜索隊が来る」
黒狐がそう言って急斜面を駆け出した。軽々と岩を飛び越えて行くので、俺は慌てて同じように走り出した。しかし隊長はゆっくり斜面を歩いている。
「おい、大丈夫か?」
「走れない」
隊長は疲れきった顔で言った。俺は少し戻って隊長の手を握った。
「急ぐぞ」
俺はぐいと腕を引っ張った。隊長は辛うじて転ばずついてくる。
「なんか……」
隊長が突然口を開いた。
「ずっと昔にも、こんな風に君に手を引かれて走った気がする」
「さっきの、火を抜けるときじゃねーの」
「ううん、もっと昔」
俺は心の中で首をひねった。隊長はいつの話をしているのだろうか。
黒狐は姿が見えなくなるほど先に行ってしまった。俺は岩をよじ登る隊長に手を貸し、その体を引き上げた。
俺たちはもう走らず、歩いて残りの斜面を登った。疲れはてて言葉も交わせなかった。
やがて斜面の勾配が緩んでいき、ついに黒狐や涼子たちが見えた。十五番隊が俺たちを待っている。
みんなは無言で俺と隊長を迎えた。全員疲れた顔をしているが、穏やかに微笑んでいた。
突然、カッとまばゆい光が降り注いだ。はっとして振り返ると、空の片隅から太陽が顔を見せていた。その光に照らされ、雲が紅に染まってたなびいている。新しくやってきた朝に、夜の空がさよならを告げていた。
隣で隊長が小さくため息をついた。ちらりと見ると、目があった。
「朝焼けって、こんなに綺麗なんだね」
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