四話
僕は人の目を避けながら、そして追いかけて来た警備の人や王宮関係の人に出会わないよう逃げ回った。
同じところを何度も通った。どれくらい学校から離れたかわからなくなった頃、僕はやっと立ち止まった。それから少し落ち着いた気分で道を歩いた。民家や小さなお店は初めて見るようなものばかりで新鮮だった。
しばらくすると、たくさんの子どもの声が聞こえてきた。なんとなくその声のする方へ歩いていると、公園があった。その公園の入り口の方へ向かうと、そこからボールが転がってきた。
ボールがドブに落ちそうになったので、僕は慌てて拾った。後ろから誰かがボールを追いかけて来た。
それが、ウルフさんとの出会いだった。
僕は狼の獣人は初めて見たから、少し怯えながらボールを渡した。彼は「ありがとう」と言いながら受け取って、じっと僕を見つめてきた。僕は何かしたかと思って焦った。
「今からサッカーやるんだけど、俺のチーム、一人足りないから、入らない?」
僕はびっくりして、戸惑った。こんなところで遊んでいるのが見つかったらどうしようとか、この子にひどいことされないかとか、色々考えていたら、ウルフさんは僕の腕をひっ掴んで半ば強引に公園の中に引き入れた。
「おーい、一人増えた!」
公園にいた子どもたちが、一斉に僕を振り返った。途端に教室の風景が甦って、妙な汗が噴き出した。みんなはこちらに駆け寄ってくると、「だれ?」「どこの学校?」「名前は?」「何年生?」「ドラゴンだ」と一気に色々話しかけてきた。あまりの賑やかさに目を回していると、ウルフさんがみんなをなだめて一つだけ僕に訊いた。
「名前は?」
僕は答えようとしたけど、すぐに詰まってしまった。冷や汗をかいたけど、みんなは笑ったりしなかった。代わりに誰かが太い木の枝を渡してくれた。僕はガタガタな文字を地面に書いた。みんなはそれでわかってくれた。……僕はこのとき、まだみんなのことが怖くて、また逃げ出したくなったけど、耐えた。
「フーマか」
ウルフさんはそう言った。みんなが僕の名前を何度もコールして、「サッカー始めようぜ」と公園の真ん中に戻っていった。僕はウルフさんと一緒にそれについていった。
かつての僕は運動オンチで、サッカーみたいに周りをよく見なきゃいけないし、チームのことも考えなきゃいけないスポーツは一番苦手だった。だけど、僕より小さい子も混じってやるサッカーは、とても優しくて、楽しかった。何より、誰も僕が何者なのか気にもせず、仲間に入れてくれたのが、少し恐ろしいながらも嬉しかった。
時間はあっという間に過ぎた。日が傾いて、彼らは次々と帰っていった。そして完全に日が落ちた頃、公園に残ったのは僕とウルフさんだけになった。
「寒い?」
ウルフさんは最初にそう訊いた。僕が正直に頷くと、ウルフさんは自分の上着を脱いで着せてくれた。ぶかぶかで、裾が膝まであったけど、暖かかった。
「家、どこ? 帰らなくていいの?」
僕は困惑気味に頷いた。自分が王族だということは、言えなかった。何かを察したのか、ウルフさんはそれ以上何も訊かず、ぶらんこをこいだ。
「き……君こそ、か、帰らなくていいの」
僕が尋ねると、ウルフさんは少し寂しそうに笑った。
「俺の親、夜遅くまで働いてるから、少し帰るのが遅くなっても気づかないんだ」
僕は曖昧に相槌を打った。そのとき、公園の入り口に僕は見知った顔を見つけ、頭の中がすうっと冷えるような感覚を味わった。僕の乳母だった。
僕は慌てて上着を押し付けるように返した。ウルフさんは目を丸くしていた。
「フーマっ!! 貴方はいったい何を考えて……」
僕は凍りついた。鬼のような形相で乳母が近づいてきて、僕の頬を容赦なくぶった。僕は後ずさりながら「嫌だ!!」と何度も叫んだ。
「……お、王族?」
ウルフさんが思わず、といった感じで呟いて、はっと自分の口を抑えた。乳母と僕は一瞬固まって、ウルフさんに目を向けた。
「そこのボク。このことは、誰にも言ってはいけませんよ。あなたのご両親にも」
乳母がウルフさんに優しく言った。しかし明らかに、それは脅しだった。
乳母は僕の腕を引っ張った。僕は泣きながら暴れたけど、その手を振りほどくことはできなかった。そのまま車に押し込まれ、王宮へ強制送還された。
帰ると、父親に思いっきり殴られた。
「この馬鹿者、授業もまともに受けていないのにさらに市街に出るとは何考えてんだ!」
父は怒り狂って何度も僕を殴り、蹴った。僕の頬には大きなあざが出来た。
「お前はしばらくここから出るな。学校にも行くなよ。一ヶ月、謹慎だ。王からの命令だからな」
僕はその言葉を朦朧とした意識の中で聞いた。
事実上王宮の一画に幽閉されることになった僕は、しばらく鬱々とした時間を過ごした。絵を描いたり図鑑を読んだりすることは許されず、ひたすら掃除の手伝いばかりさせられた。殴られた傷もたいした手当てはしてもらえなかった。それどころか王宮の召使いにも手を上げられ、同じ王族の子どもにも嗤われ、見下された。
地獄のような一ヶ月がやっと終わると、僕は学校に復帰した。遅刻気味に教室に入ると、クラス中が僕を振り返った。しかしそれは一瞬で、みんなすぐに目をそらすと、何でもなかったようにお喋りの続きを始めた。ケンゴは、僕のところに来なかった。別の男子──僕をからかい、いじめるヤツらと一緒にいた。
僕が暴れまわったからか、僕への嫌がらせはかなり減った。ただ、扱いは腫れ物に触れるようなものに変わっていた。授業中に教室を出ようが何も言われなくなり、僕の行動はずっと横目で見られていた。以前とまた違った居心地の悪さだった。
それから何週間か経ち、僕はスケッチの授業で高台に登り、町を望んだ。そのとき、僕はあの公園を見つけた。自分一人で歩いたにしてはかなり遠いなと当時は思った。僕は急いでスケッチをして、自分の記憶に公園の場所を留めた。
数日後、僕はいつものように授業を抜け出し、植物園に行った。そしてそこから、また町へ出た。
記憶を頼りに人気のない道を選んで進み、僕は公園にたどり着いた。あの時のように、数人の子どもたちがいた。ウルフさんの姿を見つけると、僕は公園に入るのを躊躇った。しかし他の一人が僕の姿を見つけた。
「あ! フーマ……だっけ」
見つかってしまったのでは仕方がないので、僕は公園に入った。みんなが駆け寄ってきて、「久しぶり」とか「どこ行ってたの?」とか、またもや質問攻めに遭った。そして年上の子がお決まりのようにみんなを黙らせる。僕はみんなが静かになると、口を開いた。
「ぼ、僕……王族なの」
みんなは黙ってしまった。僕はどきどきしていた。
「ええっ!?」
年上の子がまず驚いて、僕から離れ、慌て始めた。僕の言ったことの重大さがあまりわかっていない、幼い子たちは、年上の子のリアクションを真似て騒ぎ始めた。全て知っていたウルフさんは、じっと僕を見つめていた。
「そ、それって、すげえことじゃ……」
「うん。秘密にしてね……この前は、ありがとう」
僕はそれだけ言って帰ろうとした。彼らに何も言わず姿を消すのはつらかった。それだけが言いたくて、僕はこの公園に来たのだった。
もう、二度とここには来ないだろう、と思った。
しかしウルフさんが、僕の肩に手を置いて僕を帰そうとしなかった。
「遊ばないの?」
今度は僕は驚く番だった。
「だ、だって、みんなに迷惑、かかっちゃうよ。見つかったら……」
ウルフさんは首を横に振った。
「迷惑なんて思わないよ。みんなびっくりしただけ」
「そーだよ」
もう一人の男の子が首を突っ込んできた。
「遊ぶのには王族とか関係ないだろ」
僕はしばらく黙っていた。ものすごく奇妙な感じだった。今まで忌避されてきた僕が、こうも簡単に受け入れられていいものなのか。そんな違和感のようなものを覚えたけれど、僕は嬉しかった。僕は少しだけ遊んで、町に出ていることがバレないうちに王宮に帰った。
それからというものの、僕は定期的に大人たちの目を盗んでは町に繰り出し、王族や貴族でもない子どもたちと遊んでいた。時に公園ではなく商店街の駄菓子屋やおもちゃ屋に行ってみたり、ウルフさんの家にお邪魔したりもした。
そうして月日は流れ、僕は中学生になった。中学生になってすぐのころ、僕は王に呼び出された。忌み子として嫌われていた僕が王の間に入ったことは、その時まで一切無かった。
王は僕の祖父の兄である。僕は分家の端っこに産まれた身だから、黒龍でなかったら、僕は本家の者をサポートする仕事を任されていたはずだった。だけど僕は公の場に出られない。
王は、僕に「お前にしかできない役割を、将来お前に任せよう」と言った。
「軍の密偵団の総長だ。簡単に言うと、お前には、北のミーリス民主主義国でスパイをやってもらおうと思う」
王はそうして仕事のことを色々語り始めた。僕は頭は良くないけど、王の言っていることはよくわかった。王は、僕を、簡単に切り捨てられて、しかも強力かつ便利な直属の駒にしようと考えているのだ。
王は「どうだ?」と訊いてきた。僕は怖かったから何も言わなかった。ただ王をにらんで突っ立っていた。
王は怒った。さっきから頭も下げない、態度の悪い僕にイライラしていたのもあるのだろうけど、王はすごい勢いで怒鳴り始めた。僕は頭が真っ白になったけど、決して頷かなかった。やがて呆れたのか、王は「お前など本当は最初から殺しておいたほうが良かったのだ」と言って僕を王の間から追い出した。
僕は王に従わなかった罰としてまたもや王宮に軟禁された。その期間は二ヶ月だか三ヶ月だか、忘れたけどとにかく長かった。
王宮は僕にとって最悪な場所だ。嫌でも僕が要らない存在だということを感じさせられる。そんなところに長い間閉じ込められ、僕は半分鬱になっていた。王に「殺しておけば」と言われたことが、僕の心をじわじわと苦しめていた。
その期間が終わると、僕は朝から堂々と王宮を抜け出し、誰と会うでもなく町を歩いて鬱憤を晴らした。
結局、僕がこっそり町に出ていることは、王にも把握されてしまった。しかし僕は何も言われなかった。植物園から一般人にも見つからないよう抜け出していたから、そんなに問題は無いし、ともう諦められたらしい。そんなこんなで僕は立派な不良となってしまった。
中学生ともなると、「ワル」が増える。僕は同じく学校をサボって遊んでいるような連中と付き合い始めた。とはいえあんまり派手なことをすると王も見過ごしてくれなくなるから、犯罪まがいのことには関わらないようにはしていた。そして相変わらず、ウルフさんには構ってもらっていた。この頃にはもう、いつの間にか乞音も治っていた。
そして、僕が十六歳を越えた頃、不良仲間のリーダーが僕にふとこう言った。
「お前、普通の暮らし、してみたくねえか」
僕は無邪気にうなずいて「やってみたいなあ」とかあんまり本気にしていない返事をしたけど、彼は真顔だった。
「王宮を永久に離れてもいいってんなら……俺は考えるぞ。お前を連れ出す方法を」
僕はしばらくリーダーの顔を見つめて、首を振った。
「できないよ。僕はみんなに迷惑かけたくないし、追われるよ。下手したら殺されるよ」
「大丈夫だ」
リーダーは僕に不敵な笑みを見せた。
「算段はもう考えてある。王族に見つからなきゃいいんだろ。ミーリス国に亡命すんのさ。龍王国の敵国だから、そこに逃げれば龍王家の奴らはお前を探しづらくなる」
リーダーは煙草を咥えた。僕は突拍子もない話に気が乗らず、依然として首を振っていた。だけど心は揺さぶられていた。今まで王宮から逃げ出すのは無理だと思い込んでいた。だけどもし本当にそれができるなら……本当の自由と、誰にも殴られない日常を手に出来るなら……? 王宮に帰っても、そんな淡い希望が頭から離れなくなった。希望など絶望に塗り替えられ、折られてしまうだけだ、と僕は自分に言い聞かせた。
リーダーは本気だった。次に会ったとき、「前に言ったこと、どうだ?」などと訊いてきた。僕はすぐに「無理だよ」と返したけど、心はどんどん希望へ傾いていった。
最初に亡命の話を聞いてから数週間後、僕がいつものように仲間に会いに行くと、みんなは頭を付き合わせて真剣に何か話をしていた。仲間は僕が来たのに気づくと、まず写真を差し出してきた。
「国境の警備、だいぶ厳しいけど、フーマは小柄だから荷台の下に細工でもして隠れりゃやり過ごせるよ。ほら、写真見てみろ。荷台チェックはあるけど、細工されてないかまではさすがに見てねえぜ」
「……なんで、みんなまでその計画、知ってるの?」
「俺が言ったからだ」
リーダーが自慢げに言った。
「俺は隣国でお前と暮らすことになっても問題ない。こいつらは無理だけど、みんなで旅行にでも行くフリはできる。敵国に旅行ってバカみたいだけど」
仲間は僕に親指を立てた。僕はしばらくぽかんとしていた。
「本当に、僕は王宮を出られるの?」
「だから算段はあるって言っただろ。簡単だ。お前は何も気がねせず、いつもみたいに俺たちと遊ぶフリして出てくるだけだ」
リーダーはニヤリと笑った。
僕はリーダーの手に落ちた。もう、希望は捨てられなかった。
一番僕への注意が向けられにくくなる日、というのがあった。それは龍王国と仲の良い国との食事会の日周辺だ。食事会には王だけでなく、王子など王族のほとんどが参加する。食事会に来た要人に挨拶しないといけないからだ。でも僕は当然、その日は絶対に姿を見られてはいけない。だから食事会の数日前に少し遠い、別荘みたいなところに移される。そこにはあまり人がいないし、監視の目も薄いからチャンスだった。
僕たちは食事会の一日前に計画の実行日を定めた。冬の、寒い日だった。
僕は計画通り、昼ごろに外に出た。別荘とは言え王宮からものすごく遠い訳じゃない。何ならいつも行く公園に近くなったくらいの距離だった。僕はその公園に向かった。そこが集合場所だった。その日は平日で、人通りもいつもより少なくて、まさに絶好の脱走日だった。
僕ははやる気持ちを抑えて、なるべく平静を保った。どきどきしながら公園に到着した僕の目に飛び込んできたのは、血、だった。
「?」
僕は目の前で起きていることが夢だと思い込もうとした。四人の見知った顔が血に染まって倒れている。そして見知らぬ男が、ニヤニヤ笑いながらそのそばに立っていた。
「残念だが死んでもらった。王の命令だ。お前を失うわけにはいかないんでね。それに、こいつらは王家の秘密をどこかに漏らしかねない」
僕はついに全く話せなくなったのかと思った。言葉が、でない。
「お前は身の程をわきまえなかった。お前の行いの結果だよ。始めから王に従い、王のために働けばいいものを。バカだな、お前は。監視されているのにひとつも気づかなかったなんてな」
僕はいつの間にかその場に手をついていた。口に次いで足も動かなくなった。殺された、死んだ、ということが呑み込めなかった。
そのとき、血みどろの身体がひとつ身じろぎをした。はっとした僕とリーダーの目が合う。かすかにその唇が動いて、それから今度こそ動かなくなった。
「いきろ」。
「さあ、戻ってもらおう。俺はこの四人を処理しなければならないんだ」
あ、と僕は呟いた。その拍子に、涙が落ちた。お前のせいだ、という低い呪いが頭を内側から揺らしていた。腹の中で何かが燃えていて、僕を焼き尽くそうとするかのように暴れ狂っていた。開いた口からそれが漏れていくようだった。
「がはっ……お前!?」
僕は男の首に両手をかけていた。親指を喉仏の辺りに当てると、そのままずぶりと沈み込ませた。男を押し倒しながら手の力を強める。地面に男が頭をつけたころには、男の首はあり得ない角度に曲がっていた。
苦しかった。悲しかった。
絶望に押し潰されてしまいそうだった。涙があとからあとから溢れて止まらなかった。
曇った空に怒りを吐き出すと、僕は王宮に足を向けた。
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