三話

 「せめて俺たちを呼び戻せば良かっただろう!?」

 怒声が轟く。俺はかなり長い間、立ったままハラハラしながら目の前の二人のやりとりを傍聴していた。

「仕方がないと言っただろう。どこも空席にしてはいけなかったんだ。それに、あの二人にただの戦闘員が勝てるわけが無い。行かせるだけ無駄だ」

 会長が巻舌でウルフを怒鳴り付ける。ウルフは全身の毛を逆立てて歯を剥き出し、今にも会長に飛びかかってズタズタにしてしまいそうだ。

「だから何だ? フーマはいなくなっても良かったのか? そこは必要じゃなかったのか?」

 ウルフが凄んだ。俺が相手なら怖すぎて震え上がっていただろう。会長が氷のような目で睨み返し、何か言い返そうとしたとき、どこからともなく黒狐が現れて二人の間に割り込んだ。

「まあまあ、起きてしまったことで言い争ってもしょうがねぇで」

 ウルフは黒狐をちらっと見て、いくらか落ち着きを取り戻した。会長も少し引き下がる。俺は胸を撫で下ろした。

「ま、俺もちょっと言いたいことがあってだな。さすがに会長の判断は良くなかったと思うねぇ。そもそも相手の要求をそんな容易く飲むかい、ああいうとき」

 黒狐は自分で頷きながら言った。穏やかな口ぶりで緊張がほどける。

「俺も長いことここにいるからな、〈死神〉と〈マザー〉に普通の戦闘員が太刀打ちできないのはわかってる。だがな、だからといってハナから諦めて隊長だけを行かせるのも違うと思わないか」

 会長は相変わらず冷たい目で黒狐を睨んでいたが、折れてふいっと目を逸らした。ウルフは鼻面に手を当てて、目を閉じて聞いていた。

「ま、この話はここで終わりにして、と。これからどうする? もちろん俺は隊長を救出しに行こうと思ってるんだが」

 黒狐はさらりと言った。なんだか意外だ。黒狐がいちばん「めんどくせぇ」とか言って動かなさそうなのに。

「当たり前だ」

 ウルフがまだ怒ったような調子で呟いた。黒狐が頷く。俺も黒狐に頷きかけた。

「と、いうわけで、会長。協力を要請する」

 ちょっと外道な笑みを浮かべて黒狐が言った。会長はフン、と鼻を鳴らした。

「各隊に十五番隊の援助を呼び掛けておく」

 それだけ言うと、会長はくるりと背を向け、俺たちの前から立ち去った。

「さ、今日のところは疲れたし、お前らは少し休んだ方がいいだろう。俺と涼子でとりあえず何かやっとくから」

 黒狐は手をひらひらさせて俺たちを追いやった。俺は素直に従ったが、ウルフは心残りなようで、少し留まっていた。


 目が覚めてはじめに見たのは、足かせだった。頑丈そうな黒い鉄の輪に鎖が伸びて、自分の背後まで続いている。

 舌が痺れていた。左手が鈍い悲鳴を上げている。そこで僕は、自分の両手首にも錠が嵌まっているのに気が付いた。頭の上にこれまた鎖で繋がれた手錠があって、そこに手首が通されているのだ。僕は膝を立てて座り、万歳のような格好で鎖に繋がれていた。

 心臓を掴まれるような思いで辺りを見回す。古びた白いタイルで作られた、独房にしては少し広い部屋だった。扉には格子付きの小さなガラス窓がある。部屋にあかりは無い。

 震えながら手錠を引っ張った。重苦しい金属音が僕の希望を打ち消す。身体のあちこちが痛んで、ひどくだるかった。そのせいか、鎖を引きちぎろうにも全く力が入らない。

 がちゃがちゃと鎖を鳴らしていると、かすかに足音が聴こえてきた。どきりとして扉の窓に目を凝らす。どんどんと足音は近づいてきて、ついに小窓の向こうに姿を現した。思わず壁にぴったり背中をつけ、足をぎゅっと身体に引き寄せた。地獄の釜が開くところを思い起こさせるような音を立て、扉がゆっくりと開いた。

 入ってきたのは全く知らない女性だった。白い布が被せられたワゴンのようなものを押している。扉が再び耳障りな音を立てながらゆっくり閉まると、女性はワゴンの布を取った。今から手術でもするのかというほど、謎の器具や恐ろしげなナイフがたくさん乗っていた。

「こんにちは……可愛い龍人さん」

 高く細い、いかにもか弱い女性という感じの声だった。しかし何か不穏な響きも含んでいて、僕はめいっぱい遠ざかったまま微動だにしなかった。

「私は看守の〈蒼玉サファイア〉。……サファイアは知ってるかしら?」

 女性は僕と目を合わせて優しそうな微笑みを見せた。僕はためらいながら頷いた。

「じゃあ、サファイアの石言葉は知っている?」

 蒼玉は再び尋ねた。僕はかぶりを振った。なぜだか僕は、聞きたくないと思っていた。

 何を考えているんだ。このお喋りに何の意味がある。僕は再び棚の中身を確かめた。唐突に謎の器具の正体が何だかわかってしまった。棚から目が離せなくなる。

「サファイアの石言葉は『慈愛』。そう、あなたは〈マザー〉に深く愛されているの。覚えていてね」

 彼女はそう言って、道具をひとつ手に取った。湾曲した刃とペンチのような持ち手の道具だ。

「さぁ、お楽しみの始まりよ」

 蒼玉は笑った。真っ赤な唇が裂けて吸血鬼のようだった。すたすたと僕に近づくと、ペンチのような道具をカチカチ鳴らして言った。僕の息が荒くなっていく。

「これは何をするための道具だと思う? きっと想像もつかないと思うけど。これはね……」

 蒼玉は僕の右手を手錠ごと引き下げた。そして道具の刃を、僕の腕に押し当てる。

「やめて……いや……」

 情けないほど弱々しい声が出た。蒼玉の顔がぼやけ、頭がくらくらする。道具の刃が食い込んできた。

「こうやって、鱗を剥がすものよ」

 腕から肩、首を通って脳天、また戻って今度は爪先まで稲妻と震えが走り、殴られたような衝撃が下から突き上げた。

 悲鳴が喉を破る。

「その顔、とても素敵。とっても可愛いわ……」

 肩と胸を上下させながら必死で空気を吸った。首を仰け反らせて何をされたのか見ようとするが、恐ろしくてたまらず、蒼玉から目を離せない。彼女は悪魔のように微笑んで、もう一度僕の腕に刃を食い込ませた。グロテスクな音とともに再び苦痛に襲われる。蛇の毒牙にかけられたような痛み。その毒が全身に廻って、意識をも蝕む。毒が蛇に変わって身体を食い破って出てくる。そんなイメージがほんのわずかな時間の間に僕の脳裏に浮かんで消える。

 僕は再び悲鳴をあげる。

 自由を奪われた小動物のような気分だ。鳥かごの中の鳥、なんて生やさしいものじゃない。蛇のとぐろに巻かれてゆっくり息の根を止められていくネズミだ。

「どうして私がこんなことするのかわかる?」

 蒼玉が幼い子どもをさとすような口調で語りかけた。僕は脳震盪を起こしそうなほど頭を横に振って、座ったまま地団駄を踏んでいた。

「わからないよ!! 痛いよ!!」

 泣き叫ぶ僕の頬に手のひらが当てられる。蒼玉の柔らかい、白い手だった。

「あなたのお母様が、それを望んでいるからよ」

 彼女は答えて、頬から頭に手をずらし、そのまま僕の頭を撫でた。寒気がして、僕はあからさまに身震いする。涙が溢れて止まらない。気管が引き絞られ、熱いものがこみ上げ、嗚咽が漏れる。


 どのくらいの時間が経ったのだろう。いや、いくらも経っていないのかもしれない。永遠にも思えるほど長い時間、拷問は繰り返された。蒼玉は部屋に来る度、「おはよう」と声をかけてくる。そうして朝が何度もやって来て、いつのまにか何日経ったのか数えるのを忘れ、僕は何度も泣き叫んだ。

 生まれてこのかた、経験したことのないような苦しみだった。もっと苦しいことはたくさんあったけど、それとは全く種類の違う苦しみ。肉体的にも、精神的にも、僕を追い詰める苦しみ。そして、今までにない巨大な嫌悪感。それは僕から向けるものでありながら、僕に向けられるものでもあった。

 きっと僕は、世界から嫌われているのだ。

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