六話

 「〈マザー〉……」

 隊長はその呟きを聞いていた。嫌な想像が頭を駆け巡る。ヘッドホンを投げ捨てるように外し、椅子を蹴って立ち上がると、周りにいる他隊の隊長に早口で報告した。

「〈マザー〉は会長でも手こずる相手だ。お前が行ってこい。他の十五番隊隊員には、俺が伝えておくから」

 三番隊隊長はそう言って力強く頷いた。隊長はすぐさま斧を背負うと、無線機を鷲掴み、空き地を飛び出した。 



 木の枝が頬を引っ掻いてくる。大好きな植物たちが、今はとてもうざったい。どうしようもない怒りで自分の身が焦げそうだ。いつも心に淀んでいるこの怒りを爆発させて、周りにあるもの全てを破壊してしまいたい。

 どうして僕は、親友や仲間が危険な目にあっているとき、いつも遠いところにいるんだろう。もっと近くで指揮をしていたなら、もっと早く辿り着けて、ウルフさんやイツキくんを助けられるのに。

 突然、何かに引っ掛かってバランスを崩した。思いっきり地面に顔をぶつける。振り向くと右足にツタが絡まっていた。かっとなって思いっきり引っ張ると、ブチッと恐ろしい音を立ててツタが引きちぎれた。悲鳴にも似たそれが少し気分をスカッとさせる。

 再び立ち上がってふらふらと走り始めた。背負った斧がひどく重く感じられた。それは自分の背負った「罪」の重さかもしれない。ぼんやりとあの日の光景が浮かんでくる。

 血と血と絶望。

 あともう少し、早く辿り着いていたなら。

 もっと自分に、力があったなら。

 僕は頭を振った。今は思い出している場合じゃない。

 早く、速く、二人の元に行かなきゃ──。



 俺は再び地面に転がった。すでに土と汗にまみれてへとへとだった。〈マザー〉だけならなんとかなったかもしれない。だが現実はそんなに甘くない。〈マザー〉の後から黒ずくめの四人が現れ、俺たちの邪魔をしてくる。俺とウルフはそれぞれ二人ずつ相手した。

 黒ずくめは見事な連携で俺たちを追い詰めた。しなやかで隙のない動きは、端から見ていたならきっと感動するようなものなんだろう。今はただただもどかしいだけだった。

 〈マザー〉も時おり黒ずくめを援護していた。連携においては〈マザー〉が一番厄介だ。不思議な蛇を操るのだ。〈マザー〉の手が蛇に変わって俺たちに噛みつく。鋭い牙が肩に食い込んで皮膚を引き裂いた。その蛇を刀で切ると、黒い煙となってスウッと消える。そして〈マザー〉の腕から蛇は復活してまた俺たちを襲うのだ。

 士気は削がれ、体力はもう限界。二度と立ち上がりたくなかった。でも戦わなければ、死ぬ。死にたくは、ない。地に足を付け、顔を上げると二人が剣で俺を串刺しにしようとしていた。横に回って刀で弾く。また蛇が素早く狡猾に地を這ってきた。蹴り飛ばそうとしたが、タイミングがずれ、噛まれてしまった。痛みに顔を歪めていると、二人のうち一人が剣を降り下ろしてきた。それがスローモーションに見える。でも体がもう動かない……。

 そのとき、さっと上空を影が横切った。黒ずくめたちが動きを止めてちらりと上を見る。そのすきに地面を蹴ってなるべく黒ずくめから遠ざかった。無理矢理振りほどいた蛇が勝手に消えた。

 ズン、という地響きがして、突風が巻き起こった。俺は腕で顔を覆った。ドラゴンが着陸したかのような、大きな衝撃だった。衝撃でわずかの間、全ての音さえも消えてしまったような気がした。砂ぼこりが舞い、黒ずくめの一人が倒れる。胸が真っ赤に染まっている。巻き上がる砂の霧間に見えたのは、見慣れた龍人の姿だった。こんなに隊長が頼もしく見えたことはなかった。

「ウルフさん、イツキくん……」

 闇のような目が振り向いた。真夏なのに鳥肌が立った。隊長の眼差しは暗かったが、心配そうな表情が浮かんでいる。俺はウルフとともにうなずき、とりあえず重傷は負っていないことを示した。

「貴方は十五番隊の隊長さんね?」

 〈マザー〉の声が砂ぼこりを割った。隊長がそちらを睨み付ける。〈マザー〉は黄色い煙から姿を現し、隊長の顔を見て妖艶な微笑みを浮かべた。それはまるで、戯れる子猫を見つめているかなような優しさも含んだ微笑みだった。そしてそれを見たとたん、隊長の体が強張り、腕から斧が滑り落ちた。

「隊長?」

 俺の声は全く隊長の耳には届いていないようで、彼は〈マザー〉を見つめたまま動かない。隊長は小刻みに震えながら後ずさった。何か言おうとして、口をぱくぱくさせている。目は見開かれ、闇が揺らいでいた。

「やはり貴方だったのね……」

 〈マザー〉は呟いた。そして隊長も同じように呟いた。


「おかあ……さん……?」



 「久しぶりね、フーマ」

 マザーはふふっ、と微笑みを漏らした。訳がわからなくて、俺はウルフと目を見合わせた。「どういうことだ?」と首を傾げるも、ウルフはかぶりを振って答えた。ウルフも目を丸くしている。

 驚き、と言うにはあまりにも暗い声で隊長が何かぶつぶつ呟き、それから倒れそうになった。慌ててウルフが駆け寄って支えた。隊長はぜぇぜぇと不自然な呼吸を繰り返している。過呼吸だ。俺も駆け寄って背中をさすってやりたかったが、あいにくにも足が思うように動かない。ウルフがひざまずいた隊長の肩を叩き、落ち着かせようと言葉をかけた。だが隊長は地面に手を付き、数回しゃくり上げるように息を吸ってから嘔吐してしまった。

 マザーはそんな隊長を相変わらず優しげに見つめていた。確かにどこか隊長と似ている気がする。静かに微笑むその姿が、絵画の中の「母」のような雰囲気を醸し出していた。

「どうして……? どうしてここに……」

 力無い細い声で隊長が言った。さっきとはうってかわって泣きそうな目でマザーと視線を合わせていた。

「貴方を産むずっと前からよ。〈桜〉にいるのは。貴方を手放すのはとても辛かったわ」

 言っていることとは裏腹に、淡々とした口調だった。

「貴方が三つのとき、一度だけ会いに行ったのよ? でももう覚えていないでしょうね。私も期待はしていないけど。写真を撮ったわ。貴方と、貴方のお父さんと、私で」

 マザーはゆっくり穏やかに言った。小さな子どもに語りかけるような口調だ。隊長が視線をうろうろさせて、何か呟いた。心当たりがあるらしい。

「ずっと貴方のことが気がかりだった。そう、貴方が世間的には『行方不明』となったときは、心配で心配でたまらなかったわ。〈桜〉の施設のどこかに迷いこんでこないかしらと期待もした。

 貴方は私にずっと放って置かれたと思ってるかもしれないけれど、私はずっと貴方を愛していたわ……今でも愛している」

 そのとき、隊長の目がぎらりと光った。

「嘘だ! だったらなぜ僕を助けてくれなかったんだ! ずっとひとりぼっちだったのに、ずっとつらくてつらくて仕方がなかったのに! なんで帰ってこなかったんだ!! お父さんもお母さんも、愛してるなんて言って、僕をひどい目に遭わせた!! 嘘ばっかり!!」

 隊長は狂ったように怒鳴り、わめき散らした。爪が剥がれそうなくらい地面を強く引っ掻いていた。ウルフがそっと手を置いて制止していなければ、本当にそうなっていただろう。

「そう怒らないで。本当に申し訳なかったと思っているわ。だからと言っては何だけど……私に償いをさせてくれないかしら?」

「そんなものはいらない」

 怒りのこもった低い声で隊長がうなった。だがマザーはそんな隊長を見ても微笑んだまま、表情を崩さなかった。

「貴方がたまたまとは言え〈秋桜〉に行ってしまったのは不運だった。そしてうちの戦士と戦うことになってしまったのも。でも今からでも全然遅くないわ、〈桜〉に来ないかしら?」

 衝撃の言葉だった。隊長は絶句してわなわなと震えている。食い縛った歯がぎりぎりと鳴る。握りしめた拳に血が滲んでいた。我慢できず、俺はどうにか立ち上がって言った。

「それが償いって言うのか。何があったかは知らねぇけどよ……そんなこと望んでねぇんだよ、こっちは」

 マザーは俺を無視していた。だが俺は続けた。

「お前は隊長が欲しいだけだろうが。愛してるだの何だのは、こじつけだろ」

 マザーが睨んできた。思ったより怖くなかったので睨み返した。隊長の方が気迫がある。しばらく睨み合うと、マザーがため息をついて目を閉じた。

「それなら、力ずくよ。出来れば傷付けるようなことはしたく無かったのだけれど」

 マザーは指をぱちりと鳴らした。それまでマザーの後で身動ぎひとつせず並んでいた残りの黒ずくめが飛び出してきた。しかし、俺たちに打つ手はない。俺とウルフはもうボロボロだった。隊長は動揺で体の震えが止まらなくなっている。まともに戦える者は一人もいなかった。三人には死か、〈桜〉への強制加入の道しか残っていない。俺はどうにか刀を持ち上げた。ほとんどヤケクソだ。

 その時、突然、巨大な鞭のような何かがビュンと空を切り、黒ずくめたちに襲いかかった。構えを取ろうとしていた俺は刀を下ろした。それは黒ずくめの体を貫き、押し潰し、壁に叩きつけ、一瞬のうちに三人全てを見るも無惨な肉塊に変えてしまった。鞭のようなものは、よく見ると白いサソリの尾のように見え、血に染まって本物のサソリのような赤色になっている。それが壁を破り、またもや砂ぼこりを巻き上げている。

 尻尾の元を辿ると、そこには死体の首を掴んだ白髪の青年がいた。腕まくりをした白い肌は、サソリ尻尾と同じように赤く染まっていた。彼は死体を離すと、静かにため息をついた。それは呆れたのでも疲れたのでもなく、興奮した楽しそうなものであった。

 「しら……さぎ?」

 全く知らない他人のように見え、俺は疑念を抱いたまま名を呼んだ。白鷺は今しがた俺たちに気づいたようだ。振り向いたその顔を見ても、俺はそれが白鷺だと信じられなかった。右目は色を変え黒っぽくなっている。しかも妙に見開かれ、狂気を映し出していた。白鷺は俺を認めると、ぞっとするような狂った笑みを顔いっぱいに浮かべた。

 部下がいなくなったマザーは片眉を上げ、少し口を開けている。しかしその姿は堂々としていた。

「今日はどうしたのかしら……。白鷺くんまで集まるなんて」

 マザーはぼんやりと、少し嬉しそうに言った。白鷺のこともまるで自分の子どもであるかのように親しみを込めて呼んでいる。まさかとは思うが、白鷺もマザーの子どもだったりして……。

「白鷺!」

 ウルフが吠えるように叫んだ。その刹那、マザーの蛇が二匹、シューシューと不気味に鳴きながら白鷺に飛びかかった。しかし白鷺は手首だけ動かしナイフを投げて両方とも煙に変えてしまった。

「そのままマザーを引き留めておいてくれ! 半時間経ったら戻ってこい!」

 白鷺はウルフの方をゆっくりと振り返って、くつくつと喉の奥で笑いながら答えた。

「はァい」

「撤退するぞ、イツキ!」

 ウルフが緊迫した声で怒鳴った。ウルフは隊長の肩を抱き、猫背で立つ。身長差でどちらも辛そうだったので、俺が隊長の肩に腕を回して替わってやった。マザーが逃がすまいとこちらに何か飛ばしてきたが、白鷺が意地でも通さぬと言うように尻尾で妨害した。

 俺たちは足を引きずりながら急いで車を置いた空き地に引き返した。隊長はうつむき加減で歩きながら、何度も「死んじゃえばいいのに」と呪いの言葉を吐いていた。

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