ビダイ物語
ビダイ物語
第1章
謎のビダイ道
第1話 ディテール
ビジュツ大学を卒業して20年が経つ。
コロナ禍、本棚を整理していたら1998年の日記が出てきた。
へたくそで乱雑な文字とビダイセイとは思えないイラストが散りばめられていた。
パラパラページをめくり、誤字脱字だらけの文字を読んでいくと、1998年はただならぬ1年を過ごしていたことが分かった。
この日記に出会わなかったら、過去に葬り去られた日々。
現在の自分の心を揺るがす日記との出会いからこの物語を描こうと考えた。
★★
1997年12月31日
従兄が交通事故で亡くなった。
友人が運転する車の助手席に乗っていた。
亡くなる1週間前に従兄は父親に革ジャンをプレゼントしていたようだ。
1998年元旦お通夜
血のつながる若い従兄の死に顔はどこかしら自分にも似ていた。
火葬場では窯場が10か所あり、その中の一か所から従兄が骨となり出てきた。
「いつか皆こうなる」
親戚の叔父さんは火葬場や葬儀の際、いつもこうつぶやく。
分かっているつもりだったが、そう言われると実感が湧かない。
養老孟司は「自分は死んだことを気づくことは無い。死を知る自分がいないのだから。」というようなことを言っていた。
生きることも死ぬこともどこか無責任で、自分の意志はどこか遠くに置き去りにされているような気がする。
「いつか皆こうなる」それまで自分は何をするべきなのか。
何ができるのだろうか。時計の針がいつもより早く進んでいるように見えた。
★★
1998年2月
長野では冬季オリンピックが開催された。
ワタシは坊主で金髪だった。
大学祭で彫刻学科では神輿を担ぐ習わしがあり、モヒカンふんどしが原則だった。
ご神体(男性器)が途中で折れ曲がり萎えた状態で校内を駆け回った。
多くの出店や駐輪所のバイクや自転車をなぎ倒すことが伝統であった。
翌日はやり過ぎ謝罪行脚をするために皆坊主にする。
新しい表現を求めて大学に入った若者たちは彫刻学科の古い伝統に縛られる。
ワタシもその一人であり、アメリカから留学してきた白人青年は背中にテリーマンと書かれ、日本酒をたらふく飲まされ救急車で運ばれた。
絹谷幸二が描いたポスターは地味な長野のイメージに花を添えた。
どこかの国のイラストレーターが描いたオリジナルキャラクターは人気がなかったが記憶には残った。
外国人をあまり見たことがなかったワタシは長野駅周辺を、頭が小さく、背の高い人間が颯爽と歩く様に目を奪われたものだ。
着ているものや持っているものも、なぜかシャレたものに見えた。
後にも先にも長野をNAGANO(ナーガーノ)とイントネーションを変えて言ったのもこの1年だけだろう。
どの競技もチケットが取れず、親父と妹と長野オリンピックスタジアムの外から欽ちゃんが司会する声を聞いた。
歓声と花火に圧倒された親父は興奮していた。
学校帰りに遊んだ小道や、祖父の田んぼはオリンピック道路に分断され、田舎の景色にはにつかないオリンピック競技場だけが残された。
進歩とは古いものや思い出との決別であるのだろうか。
★★
6月、フランスワールドカップ開催。
サッカー日本代表がワールドカップに初出場した。
ジダンが活躍しフランスが優勝した。
ジダンが好きで、ワタシは大学ではフランス語を履修していた。
フランス語講師はフランスにブドウ畑をもっているといつも自慢していた。
ワタシは3年間真面目に学んだが大してしゃべられるようにはならなかった。
隣に座っていた利発そうな男子は3年次にはペラペラだった。
埋められない差が人にはあるなと実感した。
日本代表は3連敗で終えたが、歴史的な一歩を刻んだ。
ワールドカップ日本人初ゴールを決めた中山雅史はかっこよかったが、世界との壁の厚さを感じずにはいられなかった。
サッカーへの熱は冷めつつあったが、大学のサッカー同好会に時々顔を出してプレーをしていた。
高校時代はケガが多く、不遇な3年間だったが、大学時代はケガが治り体力もあった。
もう少し粘り強くサッカーを続けていたらJリーグで活躍していたかもしれないと妄想していた。
★★
8月、アトリエに入らないほどの大きな作品をクソ暑いアスファルトの上で制作していた。
かっこよく聞こえるが、アトリエに入れてもらえなったというだけ。
自己中で我がまま、そんな自分だった。
教授からは見放されていたが、アーティストはアカデミックではいけない、アウトサイダーだと反抗心を漲らせながら制作をしていた。ビダイ生にありがちな心理状態を自分も実践していただけ。
思い込みや勘違いは若者の特権だ。
親父はしきりに大学へ行けと言った。
「わしはパチンコ大学、ラーメン大学を出たのじゃ。」とよく言っていた。
この世代のお決まりのジョークだ。
周囲は聞き流していた。
高卒で苦労した親父は、ワタシが大学へ行きたい話したときは快く受け入れてくれた。
その後学費で大変な目に合うことは、さすがの親父も気づいていなかったようだ。
ワタシははビジュツ大学を選択した。
ゲイダイは受験生なら必ず目標にするところだが、受かるわけもなく補欠でひっかかったビダイに行くことになった。
タチカワのビダイ予備校に一年通った。
古いビルの地下で毎日石膏デッサン、ヌードデッサンを繰り返した。
小中高とサッカー一色だったため、固く小さい木椅子に座り続ける日々は慣れなかった。
「お前は四年で芸大コースかな」と講師に脅かされていたが、周囲には2~5年浪人を重ねている先輩がいた。
あずさ壮(風呂なしの四畳半)では、毎晩5浪の先輩が遊びに来た。
話が面白くなかったので早く帰ってほしかったが、意味不明な芸術論を深夜まで聞かされた。
先輩は翌年もゲイダイを落ち、大学を諦め造形工房へ就職した。
先輩はデッサンや造形力は予備校の中でもピカ一だった。
何が原因で合格しないのかが全く不明だった。
本当の芸術家はそもそも大学へ行く必要はないのだろう。
★★
作品の強度をあげるため、作品の張りぼての内部にもぐり込み、FRP(プラスチックは固まる前はゲル状)をグリグリ塗って補強をしていた。
無駄な補強と誰か教えてくれたなら・・。
無駄の多い人生、それは人生の余裕である。
大学近くの公園でビダイセイによる野外展が計画されていた。
入学したばかりのワタシも展示を勧められ、作品を制作し始めた。
ビダイに勢いで入ったが、技能も才能も凡庸で並み。
ただ高額な学費を親に払ってもらっている手前、何か形跡を残さないとまずいんじゃないかと考えていた。
そのころ、親父が自営業を始めることになった。
視覚障害があり、長年勤めていた会社を辞めることになり、盲学校へ通いながら資格を取得し針きゅう治療院を始めた。
「治療院の目印になるような彫刻を駐車場に設置してほしい」と言われていた。
野外展に設置した後、実家の治療院に設置することも考えていた。
狭い洞内で衣服にこびりついたFRPがガチっと硬化し始めた。気温が上昇するとFRPの硬化が早まるのだ。
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