絶望を越えて行け!
灰原士紋
絶望を越えて行け!
さて、遠くから地響きの音がするね。あれはゴリラの足音だ。君はどうするんだい?
今はまだ、はるか遠くに見える黒い
「なんてこった。あんなデカイくせに、なんでオレたちアリがお前の動物性タンパク質の補給源なんだよ! ネズミとかウサギとか、お前だったら
やれやれ。強い言葉ってのは、そいつを弱く見せるもんだってのに。
***
物言わぬ絶望がこの国へむかって来ている。
「ゴリラだー! ゴリラが来るぞー!」
ゴリラの
長旅の末、ようやく食糧を持ち帰ったと思ったら、最悪のタイミングに出くわしてしまったもんだね。
「女子供は隠れろー! 戦える男どもは応戦準備だー!」
そんなことを言われたって、ただの働きアリにすぎない君は、男だけど戦えない。
ん? ボクかい? ボクは君の腹の中でお世話になってる、ただの腸内微生物さ。まぁ、お世話になってるのはお互い様だけどね。君がいなけりゃボクは生きられないし、君もボクがいなけりゃ生きられない。
***
逃げ
それを横目に君は何を思っているんだろう。
生まれてすぐの頃は、大人たちに
それがやがて一人前に働けるとなれば、エサ運びの重労働の日々。
巣から出掛けて仕事を終えて、部屋に戻ったと思ったらまた仕事に出掛けての繰り返し。
そして今、
今までの日々は何だったのか。結局あのゴリラに食われるために自分は生きてきたのかと、悲観したとしても誰も責めやしない。
そんな君の前に、逃げ出そうと
「確か、あいつは……」
そう。彼は君の中のボクたち、つまり腸内微生物が極端に減ってしまって、君が死にそうなほど弱っていた時、見て見ぬふりをして黙々と仕事をこなしていた彼だ。
「あいつは死んでもいいや」
君ってやつは……薄情なやつだね。
ざまあみろって小声で言い残して、君は荷物を抱えてその場を去った。
当面の食糧は、今持ち帰って来た分で間に合うだろうか。そんな思いでいるんだろう。君は足早に、この国から逃げ出そうとしている。
あのゴリラがここに着くまで、どのくらいの時間があるんだろう。
***
顔見知りの兵隊アリがいる。ほかの若い兵隊アリと何か
「戦うしかねえだろ!」
「勝てるわけがないんだよ。無駄死にしたいのか!」
「じゃあ、どうすればいいんだよ! 食われるしかねえってのかよ。あんただって兵隊だろ。戦えよ!」
若いアリは必死に絶望に
その若いアリを
「いいか? よく聞け。世の中にはどうにもならないことがあるんだ」
「聞いてられるか! だから諦めろってのか!?」
「そうじゃない!」
そう言って君の顔見知りは、君の姿に目を止めた。
「いいか? お前は生まれて半年だ。俺はもう一年以上生きた。あいつは生まれて、まだ三ヶ月だ」
そう言って顔見知りの兵隊アリが、君を指差す。
「俺が生まれて間もない頃にもゴリラは来た。誰も何もできやしなかった。戦った仲間たちは全員死んだ。勝てる相手じゃないんだよ、あれは。それでも俺は生き延びた」
それがどうしたというんだろう。ボクにはわからない。君はどうかな? わかるかい?
***
ドオオオオオンンッ!!
突然の轟音と地響きが身体を揺らした。
振り返ってみると、ゴリラが地面を叩き、巣の中のアリたちを外へ追い出そうとしている。
もうこんなに近くまで来ていたなんて。
君の怯えが足の震えを通して、ボクのところまで伝わってくるよ。
もう一発。
ドオオオオオンンッ!!
巣の中に隠れていた仲間たちが、慌てて外に這い出てくる。
黒い絶望とも言うべきゴリラは無造作に、老若男女問わずつまみ上げ、生きたまま口の中へと放り込む。
「わぁー、助けてくれー、誰かぁああ!」
その悲鳴が君の元へと
見ているだけでおぞましい光景だ。
仲間たちの身体が、ゴリラの口の中ですり潰される音まで聞こえてきそうだった。
そして目の前では、まだ二匹の兵隊アリが言い争っている。
「もし仮に戦ってあいつを追い返したとして、第二、第三のゴリラがやってくる。必ずだ。必ずなんだ。その度に戦うのか? その度に仲間をどれだけ失うんだ? それで本当に勝ったと言えるのか? そんなことを繰り返して最後に残るのは何だ? そんなことしたって、最後には誰もいないアリ塚しか残らねえんだ。俺たちの役目は仲間のいないアリ塚を守ることか? 違うだろ」
若い兵隊アリは、今は少し落ち着いた様子だった。
実際には落ち着いたわけではなく、圧倒的絶望に飲まれてしまっているのだろう。その証拠に目の焦点が合っていない。いったい彼はどこを見ているのだろう。
そんな若者の様子をわかっていながら、顔見知りの兵隊アリがさらに話を続ける。
「俺たちがやらなきゃいけないのは、生き延びることなんだ。生き延びて生き延びて、生き延びることなんだよ」
逃げるが勝ち、ということなんだろう。それを理解した君はその場を急いで立ち去ろうとする。
***
二匹の兵隊アリたちとすれ違う。
君の背後で若い兵隊アリの声がした。
「あんたはどこへ行くつもりなんだ?」
自分のことかと思った君は振り向いた。だけど若いアリは君ではなく、君の顔見知りに声を掛けていた。
「俺の向かうべき場所はあそこだ」
そう言って、ゴリラの方を示した。
「あんた、さっきは戦っても無駄だって言ったじゃないか」
「そうだ。俺たちの戦いは生き延びることだ」
顔見知りがそう答えた時、悲鳴で満ちているこの場所だというのに、ひときわ耳に残る悲鳴が聞こえた。
「お母さぁああん! 助けてえええ! うわぁああん」
子供の声だった。
痛々しい顔をして、顔見知りの兵隊は言う。
「俺はもう一年以上生きた。お前たちはこれから、もっと生きられる。俺はあそこへ、
彼の覚悟の固さは、その手のひらに食い込む指の震えが物語っていた。
君は
***
「オレにできることはないのか? 逃げるしかできないのか? 情けない」
おいおい。君はいったい何を考えてるんだ? さっきの彼の話を聞いてなかったのかい?
「オレだって」
そう言って、今来た道を振り返り、歩き出そうとする君が目にしたもの。それは君と同じく、来た道を振り返り、何か思案を巡らして
さっき、君の目の前でこけていた彼だ。死んでもいいやと、君が切り捨てた彼だ。
いつのまにか、君に追いついて来てたんだね。
彼は天を
そして来た道を引き返そうと、歩き始める。
「どこへ行くつもりだ?」
君が彼に声を掛けるなんて驚きだ。
「僕だって……戦える。仲間を見捨てて、自分だけ助かろうなんてできない!」
そう言う彼は、よくよく見ると君よりもまだ若いようだった。
「バカヤロ……。逃げるんじゃない。……生き延びるんだ。生きて、生きて……生き延びるんだよ。それがオレたちの戦い方なんだよ」
そう言って君は彼の腕をつかんだ。
君もまた、天を
口の中に放り込まれるアリたちの中に、あの顔見知りが見えたような気がする。
君は今、どんな顔をしているんだろう。ボクからは見えないや。
そして君は彼の腕をつかんだまま歩き出す。この国の外へとつながる道を二匹で進みながら、君は叫んだ。
「クソゴリラー! お前なんか、バナナでも食っとけっ!」
絶望を越えて行け! 灰原士紋 @haibarasimon
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