無数の世界へようこそ 第5話
「申し訳ありません」
店長に電話越しでも関わらず頭を下げながら謝っているのは突然バイトに行くことが出来なくなったからだ。
『こっちは大丈夫。それより
心配してくれる店長には悪いが、大学に提出しなくてはならない書類に不備があって今日中にそれを再提出しなくてはならないだけだ。そんな理由でバイトを休むなんて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「大丈夫です。ちょっと必要な事項が漏れていただけですから」
そっか。でもまた再提出にならないように気を付けてねと笑いながら電話を切った店長に頭が上がらない。今日は暇だからと、こちらに心配させない様に気遣ってくれもした。
今度埋め合わせをしないと、そうなふうに考えながら通いなれたはずの構内を見渡して、目的地がどこだか分からずキョロキョロしてしまう。
今年の春から通い始めたばかりの大学は都内の端の方にあって、大学は他の誰かに名前を告げると聞いたことがあるかもと頭を悩ませた末、似てるようで異なる大学の名前を引っ張り出されるくらいの知名度しかない。
最初から有名大学への進学を狙っていたわけではないのでそれは別にいいのだが、ここまで知っている人がいないのも大学としてはいかがなものなのだろうかと思ったりもする。
大学の学生課に行くなんて入学式以来だ。あまりに久しぶりすぎてどこが受付なのか少しうろ覚えだ。5限が終わったばかりの大学構内は人がまばらに数人いるだけで、楽しそうに談笑しているグループやガラス張りの壁に向かってダンスの練習に励んでいるグループくらいしか見当たらない。
「あれ?
大学では聞き覚えがないけれど、最近よく聞く声がして動揺を隠せない。思わずわたわたと怪しげなダンスまで踊ってしまう。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
そこにはセカンドダイスにいる時とまったく変わらないチヒロがいた。いや、そりゃ何かが変わるはずもないのだけれど、普段見ない場所で見るチヒロに新鮮味を覚えたことは事実だ。慌てもすると智也はそこまで考えてなんで慌てるのか自分でもわからなくなった。なんで慌ててるんだろ。
「っていうか大学一緒だったんですね」
そうケラケラと笑うその姿は、お店にいる時と何も変わらない。いくつもの学部からなる大学内だ。同じ大学だからと言ってすべての人を把握できるはずもないのだが、同じ大学だなんて考えもしなかった。
「どうしたんです。こんなところで。今日はセカンドダイスじゃないんですか」
チヒロからすればなんてことない普通の疑問なのだろうが、その純粋さが今は心に刺さった。言えない。書類に不備があってバイトを休んでいるなてとてもじゃないが言えない。
「学生課に用事ができたので、今日は休みにしてもらってます。でも学生課の場所があいまいで」
恥ずかしいので大事なことだけは隠してほんのりと困っている事実だけを告げる。
「そっかぁ。今日行っても智也さんいないんですねぇ。あっ、でも学生課だったら私もちょうど行くところなんで一緒に行きませんか」
それはありがたい提案だった。このまま迷子になるなんて笑い話にもなりやしない。いや、店長なら喜んで笑ってきそうだけど。
「まっ、でもそこですけどね」
前方20メートル付近をチヒロは指差しておかしそうに笑いをこらえている。そこには大きく学生課と書かれた表札があって、恥ずかしさのあまり笑ってごまかすことしかできなかった。
結局恥ずかしさは増しただけだ、これで単なる書類の不備だなんてバレたら哀れみの目を向けられるかもしれないと思うと、智也は絶対に黙っていようと思う。
「このあと、どうするんですか?」
チヒロの用事はサークル書類の提出だったらしく、あっという間に用事は済んだようだ。智也の方はといえば、書類の確認に少しだけ時間がかかってしまった、不備は無かったのだが期限も近いので念の為ゆっくり確認してもらったからだ。
だと言うのにチヒロはなぜここで、待ってくれているのだろうか。しかもこのあとの予定なんて聞かれてしまったらどうしたって意識していしまう。
「なにもないです。家に帰って掃除でもしようかと」
最近はバイトばかりでろくに家事もしていなかったので家のほこりが目立ってきたのが気になっていたのだ。折角の機会なのと埋め合わせのバイトも入りたいし、と考えると済ましておきたいことではあった。それでもチヒロからの誘いを断るのも、もったいない気がする。
「そっか。よかったらセカンドダイスいって一緒にボドゲでもと思ったんですけど残念」
それは掃除以前にバイトを休ませてもらっているのに用事が早く終わったらと言って遊びには行けない。どの顔をして居座ればいいのだ。
「あ、そっか。バイト休ませてもらってるんでしたっけ」
どうやら自分でも思った以上に渋い顔をしていたらしくチヒロはすぐにそれに気づいたみたいだ。
「ですね。なんで誘ってもらって嬉しいのですがお店には行けないです。他の場所なら考えますけど」
こうやって予防線を自分で張ってしまうあたり、ズルい性格してるなぁと思わないでもない。
「じゃあ。私達のサークル部屋行きません?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます