【連載版】おバカ探偵を救いたい! ~かつての名探偵が落ちぶれてしまったので助手の僕が頑張ることにしました~

ゆ♨

プロローグ 名探偵が死んだ日

第1話 名探偵自滅推理事件


「犯人はこの中にいる」


 犯行現場となったリビングで彼女がそう言い放った瞬間、穏やかな秋日に似つかわしくない緊張がその場を支配した。


 ドラマや映画で使い古されたこの言葉も、これまで数多の難事件を解決してきた彼女――名探偵・神津恭子にかかれば、推理を披露する前の常套句へと変貌を遂げる。


「被害者の女性はご覧の通り、背後から包丁で一突きにされています。――松下君」


 被疑者の3人に慣れた様子でうつ伏せの刺殺体を確認させると、彼女はボブカットの黒髪とセーラー服を翻して僕の名前を呼んだ。


 僕はこれからの推理の展開を知らされていなかったので、一瞬なんで名前を呼ばれたのかわからなかったが、話の流れからして凶器のことだろうと察し、慌てて鑑識の人から包丁の入った証拠品袋をもらってくる。

 事件現場で動き回るのは助手の役目だ。


「ほら、早くして。松下君」

「す、すいません。恭子さん」


 僕は慎重かつできるだけ素早く恭子さんに袋を差し出す。

 恭子さんはそれをどこか不満げな表情で受け取った。


「もう学校終わったんだし、わざわざ『さん』づけしなくてもいいのに」

「いえ、一応先輩なので」

「一応は余計だ」


 足を踏まれる。しかし、スカートから伸びる足は細く、威力としては心もとない。


 確かに恭子さんは僕より頭一つ分くらい小さいし、先輩としての威厳はあまり感じられないけど、さすがに同じ高校の先輩後輩の間柄なわけだし、日ごろから最低限の敬意は払っておくべきだろう。


「それより恭子さん。久しぶりの推理ですけど……大丈夫ですか?」

「大丈夫って、なにが?」

「いやほら、恭子さん退院明けですし、あんまり無理しない方が」

「ああ、そのことなら心配ご無用だよ。今日も朝ごはん三杯おかわりしてきたから」

「すごい。全然ご無用だとは思えない」


 僕はこの時、言い知れぬ不安を感じていた。


 以前の恭子さんからは感じることはなかったであろう、胸のざわめき。外れたネジが収まるべき場所を探してカランコロンと彷徨っているような、どこか危うげな印象を覚える。心配だ。


 そして、悲しきかな、助手のこういった懸念は名探偵の推理並みに的中するものである。


「証拠品として押収されたこの凶器ですが、1つ不可解な点があります」


 心配する僕をよそに、恭子さんは推理を始める。その透き通るような声音には一切の迷いがない。


「この包丁、剣先から覗くと刃角がやや左に寄っていることが分かります。

 ふつう市販されている包丁は、右利きの人が利用することを想定して刃角を右に寄せて作ってあります。――凶器となったこの包丁は左利き用なのです。

 被害者の男性は右利きですから、この包丁を普段から使っていたとは考えにくい。よって凶器は犯人が予め持参した可能性が高く、左利きの人間による犯行であると推測できます」


 現場に残された証拠を手掛かりに、犯人像を組み立てていく。

 恭子さんは凶器の入った袋を後ろ手に持ちながら、死体の周りをゆっくりと巡る。


 蠱惑的に開かれた黒い瞳は犯人の輪郭を捉え、床を滑る軽やかな足取りは着実に真相へと迫っている――かと思われた。


「次に刺し傷についてですが、被害者の背中から腹部の中ほどにかけて斜め上方向に伸びています。下から突き上げるようにして刺さないとこういった傷は生まれません。

 つまり、犯人は被害者よりも背の低い人物――被害者の身長は180cmそこそこといったところでしょうから――刺し傷の位置と方向から計算して、犯人の背丈はおおよそ150cm前後と目安がつきます」


 恭子さんがそう言った途端、張り詰めていたはずの空気が一転して――弛緩した。

 いや、これは弛緩というより、呆気にとられているといった方が正しかった。


「「「…………!?」」」


 さっきまで恭子さんの推理に聞き入っていた被疑者たちは、一様にして口をポカンと半開きにさせている。

 かく言う僕も『え?』と顔面に大きな疑問符を浮かべざるを得なかった。


 恭子さんはいったい何を言っているんだ!?


 しかし当の恭子さんは完全に自分の世界に入り込んでしまっているようで、場の異変に気付くことなく得意顔で続きを語る。


「加えて、傷の深さが刃渡り14 cmの包丁に対して7~8 cmとやや浅いことから、歯を深く刺し込めない非力な人物……女性による犯行とみて間違いないでしょう。左利きで身長150 cm前後の女性……ということは」


 やばいやばいやばいやばい。なんかもう推理のまとめに入ろうとしている!


 これは、助手として止めたほうが良いのだろうか……。

 とかなんとか考えている内に、恭子さんは左手を高々と掲げ、人差し指をピンと天井へ伸ばす。


 名探偵にしか許されない、推理の最後を飾る、あの決め台詞を言い放つために。


「犯人は――」


 もう止められない。

 恭子さんは狙いを定めるべく、被疑者たちに向き直った。


 そして案の定、固まった。


 天に向けられた恭子さんの人差し指はなかなか地上へと降りてこない。


「はん、にんは……」


 自信に満ちていた表情から急速に余裕が失われていく。小さな額は傍から見てもわかるほどの大粒の汗で滲んでいた。


 それもそのはず。

 なぜなら被疑者は全員、大柄の男性。


 150cm1からだ……。


「きょ、恭子さん……?」


 石化したように固まったままの恭子さんに話しかけようとして、僕はふと現場の中でただ一人、恭子さんの推理と合致する人物がいることに気づく。


 箸も鉛筆も左利き、身長157cmの、大和撫子を体現したかのような美貌を持つ女性が今まさに僕の目の前にいるではないか。


 恭子さんもはっと何か思い出したように自分の姿を回し見る。

 次にキョロキョロと辺りを見渡して、該当する人物が他にいないことを確かめると。


 降ろした人差し指を自分に向け、解決とは程遠い苦み走った表情で、決め台詞の最後を締めた。


「犯人は、わたし……?」


 この日、1人の名探偵が死んだ。


 名探偵自滅推理事件。


 後にそう名付けられたこの日の出来事をもって、名探偵・神津恭子は女子高生・神津恭子へと還ったのだった。

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