第2話 天界からの脱走

 この世界は、天界、地上界、地獄界に分かれている。

 天界が一番穏やかであり、地獄が一番苦しい世界だ。地上界というのは、清濁混合と言われている。時には、天界よりも美しく、地獄よりあさましいらしい。

 なぜなら、地上界は二つの世界と繋がっているため、両方の影響を受けやすい。非常に不安定な世界だ。

 全ての世界は、地上界を通じて移動可能となっている。ただ、肉体を伴う界の移動は魔力の消耗が激しいため、どこに住む者もあまり行わない。逆に死者の場合は、魂が自然に世界に惹かれて移動していく。

 天界のはずれには、界をつなぐ月の泉がある。

 私は、こっそりと宮殿を抜け出し、泉までやってきた。

 泉には一応、結界が張られているが、この結界は地上界から来るモノに対して張られているので、こちらから行くには問題はない。

 丸い泉に、細い黒い穴が開いている。この穴の部分が、地上界では月となる。天界の光が、地上に月光となって降り注いでいるのだ。つまり、地上の満月になれば、泉全体に穴が開いたように見える。

 本当は満月の日に移動すると一番楽なのだが、そうも言っていられない。

 私はざぶんと、泉に身を投げる。

 体が光の粒子に包まれた。白銀の光に視力が奪われる。

 わずかな浮遊感。不思議な感覚に、戸惑っていると、次の瞬間、急激に体が落下を始めた。

 私は慌てて、浮遊の呪文を唱え続けた。

 ドカッ。

 多少減速はしたものの、私は、地上界に着地するのを失敗して、冷たいフカフカなものの上に落ちた。

 天人の魔力は天界に依存するため、月の光が弱いと地上界ではうまく使えないと聞いていたが、図らずも体感してしまった形となった。

 漆黒の空の中、細い月が弱々しく輝いている。

 幸い怪我はないようだ。月齢を考えると、これは運が良かったのかもしれない。

 もっとも、とてつもなく背中が冷たい。このひんやりとしたものは噂に聞く『雪』だろう。

 それにしてもここはどこなのか。

 界を移動したこともあり、さすがに体が重い。それに、かなり雪に埋もれてしまったみたいだ。

「ひゃっ」

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 なんだろう、と思いながら、やっとの思いで上半身を起こす。

 人が腰をぬかしたかのように座り込んでいた。年老いた男のようだ。男の後ろには、小さな小屋があった。小屋からは、小さな明かりが漏れている。

「……こんばんは」

 とりあえず、挨拶してみる。どうやら落ちてきたのを見られていたらしい。見た目的には、天人も地上人もそんなに差異はないけど、さすがにごまかせない。状況は非常にまずいが、逃げる体力は残っていないし、足が埋まってしまってすぐに抜け出せそうになかった。

「タミさん、タミさん! 大変じゃ!」

 男が声を上げると、小屋の中から、もう一人出てきた。薄明りで定かではないが、かなり小柄だから、たぶん女性であろう。

「……空から娘っ子が落ちてきた」

「あんれ、まあ。本当に。ありがたいことですなあ。願いが叶いましたなあ」

 二人は、私を遠巻きにして見ている。というか、拝んでる。

 怖がっているわけではなく、なんかしきりと礼をのべている。

 なんだろう。これ。

「あの?」

「ああ、いけない。まさか、本当に娘っ子をいただけるとは思ってなくて」

 後から出てきた人物が私の方にやってきた。かなり年配の女性だった。

「雪に埋もれてしまったのだね。動けるかい? 伍平ごへいさん。手伝って」

 言いながら、一生懸命、雪に埋もれた私の足をかきだしてくれた。

「おおぅ、すまない」

 すぐに男の方も手伝ってくれて、私はようやく、立ち上がることができた。

「さあさあ、雪の中にいたら、風邪ひいちまうよ」

 女は、何の疑問もないのか、優しく私の手を握り小屋の中へと私を導く。

 床板はなく、地べたにをひいただけの粗末な小屋だが、小屋の中央には赤い火が燃えており、とても温かかった。

 おそらく農家であろう。入り口に農具が並べてある。家財道具はほとんどないようだ。

「まあ、ほんに綺麗な娘っ子だこと」

「神様に、毎日お祈りしたかいがあったなあ」

 火の明かりに照らし出された私を見て、目を輝かせている。二人ともとても優しそうな人だ。

「ああ。あっしは、伍平。女房の方は、タミさん」

「……もみじです」

 私は名乗り、すすめられるがままに、火のそばに座った。

 雪の中に埋もれたこともあり、体が冷えていたから非常にありがたい。

 どうやら、この夫婦、子供が欲しくて、神に祈りを捧げ続けていたようだ。いつもと同じように祈っていたところに、私が落っこちてきたということらしい。

「ああ、お腹すいたでしょう。これを」

「これは何?」

「これは、あっしの作った餅、五平餅だよ」

 伍平は照れ臭そうに笑う。

 タミが、渡してくれたのは、木の棒にすりつぶした米を塗り付け、その上に、甘い味噌を塗って焼いたものだった。見た目は地味だが、香ばしい香りがする。

「おいしい」

 思わず私は夢中になって食べた……それが、私と五平餅との出会いだった。

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